閑話⑯:それぞれの夜に
「あの……今夜は、どうして……?」
「私も、もう父親になるのだからな。子を産んでくれる女性と共に夜を過ごしたかった――それだけだ」
部屋はどこからともなく木の焼けたにおいが漂っている。先日の火事の影響だ。貴族の寝室であっても、その影響から免れることはできていなかった。
「で、でも、私ではこのお腹ですから、お相手することは――」
「別にそんなことを求めているわけじゃない。ミネッタ、君がずっと一人で抱えてきたものを、私も知りたかっただけだ」
相手ができないと言いながら、肌が透けて見える薄手の夜着に身を包んだミネッタは、月明かりの中で、その膨らんだ腹を撫でていた。腹の子の父親と共に。
「……仕事だったとはいえ、私がずっと屋敷を空けていた間、お前はずっと一人で、この子を守っていてくれたんだな」
「……そんなこと、ないです。お館のみなさんにはお腹に合わせて服を仕立ててもらえましたし、大事にしてもらえました」
「そうか……では、北の館務めの者たちには、別に手当てを出さなければな」
「そうしてもらえると、親切にしてくれたみなさんへのお礼になって、嬉しいです」
そう言ってから、ミネッタは短い声を上げた。
「どうした?」
「いま――お腹を蹴りました。分かりましたか?」
「い、いや、分からなかった……! そんなことより、腹の中から蹴られたのか? 痛くなかったのか? 大丈夫か?」
珍しくオタオタするフェクトールに、ミネッタがくすりと笑う。
「大丈夫です。いつものことですから。元気な仔だっていう、しるしですよ」
「だ、だが……!」
「母親の私が大丈夫って言ってるんですから、大丈夫です。それよりフェクター様、この仔の父親として、どうか……」
ミネッタのまなじりから、雫が零れ落ちる。
「ミネッタ……?」
「私では、おそばに添い遂げることはできないのは辛いです。お家を興していただけた後は、きっとお会いすることももう、叶わないのでしょう」
「そんなことは……」
「でも」
ミネッタは、自分の腹を撫でる男の手をつかんだ。
その小さく、細い指で。
「でも、お願いします。この仔の父親として――時々でいいですから、この仔にだけは、お顔を見せてあげてもらえますか?」
ぽろぽろと涙をこぼしながら、かすれた声で、ミネッタは続けた。
「公式に父親を名乗っていただけなくて構いません。いいえ、一使用人の立場で構いません。ですから、お顔だけでも――」
ミネッタは、その言葉を、最後まで口にすることはできなかった。
長い長い口づけのあと、共についたため息が、二人の間で重なる。
「……ふぇくたーさま……」
「私は、自分が、いかに傲慢だったかを思い知ったよ……今」
フェクトールは、奥歯をかみしめた。
大きく息を吸い、そして、力なく吐き出す。
「……何が君の幸せなのか、私は全く理解できていなかった。今、やっとわかったのに――それなのに、君を幸せにできないのだ、私では……」
「いいえ……いいえ!」
ミネッタは、フェクトールの胸に顔をうずめて、声を振り絞った。
「私は、幸せです……! 暗い見世物小屋で、男の人と言えば痛くするこわい相手としか思っていなかったわたしに、愛を下さいました……希望を下さいました!」
「しかし、私は――」
「学の無かったわたしに教師をつけてくださいました。丁寧な言葉を、読み書きを教えてくださいました! いま、こうしてお側付きとしてお仕えできるのは、すべてフェクター様のおかげです。私はとても幸せなんです!」
フェクトールの懐から顔を上げたミネッタは、涙のあとが残る顔で、けれど微笑んでみせる。
「北のお館に残った子たちも、思惑は色々あるでしょうが、それでもフェクター様をお慕いしているから残ったんです。ナリクァン様のおっしゃる通りです。フェクター様、私たち
フェクトールはしばらく、沈黙したままだった。
沈黙したまま、ミネッタの腹を撫でていた。
「……あ」
「分かりましたか?」
「……動いた、な――」
「ええ。きっとお父さまを感じて、喜んでるんですよ」
「父親……この私が、父親……」
フェクトールは、当たり前のことでありながら気づいていなかったことに気づかされた思いだった。
子供が生まれれば、この街に子供が一人、ただ増えるというだけでは済まされないことを。自分が父親に「なる」ということを。
「私は、父親になるんだな……」
独り
目を落としてきた彼を見上げ、微笑んでみせた。
「ミネッタ、すまなかった。今まで一人にして。……そして、ありがとう。私の子を、今日まで大事に守ってきてくれて」
フェクトールに力強く抱きしめられ、ミネッタは小さな声を上げる。その口をふさいだフェクトールは、彼女の体をそっと横たえた。
「ミネッタ。君も、子供も、決して悪いようにしない。私はその子の父親として、かならず身分を保証できるようにする。だから――」
ぽろぽろと銀の雫をこぼすミネッタに、フェクトールは優しく微笑みかけた。
「彼は大工だったか? あの夫婦のように今夜は、改めて君と心からの契りを交わそう」
静かに、だが何度もうなずくミネッタを、フェクトールは力強く抱きしめた。
■ □ ■ □ ■
「……あの、今夜はどうして、あんなに……?」
「ああ、いい
フラフィーが、妻のふかふかの耳を撫でる。
「メイレンの美味い飯のおかげだ。いつも感謝してるぜ」
「……みなさんが喜んでたくさん食べてくださるから」
「初めて来たときは目を白黒させてたのに、今じゃ立派な女将さんだからな、メイレンは」
「男所帯なんて初めてでしたけど、ええ、もうほっとけない状況でしたからね」
メイレンは、いつも垂れているふかふかな長い耳と、尻に小さなしっぽの痕跡を残すだけの
そして今では、世に女と言えばメイレンとその娘さえいればいいと思っている。
「ほっとけないって、そんなにひどかったか?」
「当たり前でしょう? そのあたりにあるものを適当にかじる、そんな食生活、ほっとけるものですか」
出会いのきっかけは、ある日山にふらっとやってきた「建築士」を名乗る貧相な男と、なぜかそれに惚れてしまった自分の妹との、結婚式の披露宴。
妹――リトリィが山を下り、食事を作る者がいなくなって、たちまち男所帯の食生活は破綻した。あっという間に保存食を食い尽くし、畑にあるものを適当に引っこ抜いて食べる日々。
だが、だれもまともな食事を作ろうとしない。「何か食ってりゃ死にゃしねえ」と、親方もフラフィーも弟も、みんなそう考えていた。
だからフラフィーは、妹の結婚式で久々に人間らしい食事を食った思いだった。その食いっぷりを微笑みながら見ていたのが、メイレンだった。
そして、なんでもひと口ふた口で平らげていくフラフィーたちを面白がって見ていたのが、メイレンの娘のモーナ。
そんなモーナに気づいて、フラフィーが焼き菓子を分けたのが始まりだった。おじちゃんと呼ばれてショックを受ける弟のアイネに対し、おじちゃん呼ばわりを面白がってモーナを肩車したフラフィーは、すぐにモーナと仲良くなった。
「……なんだ、帰るのかい? 夜はまだまだこれからだろ?」
「ええ、ですが娘も眠ってしまいましたから、ちゃんと
天井裏の寝室から新婚夫婦が、愛を営む声が聞こえてくるのを見上げて、困ったような笑顔を見せたメイレンに、フラフィーが「じゃあ、夜道だから」と家まで付き添ったのだ。
そしてそのまま、彼女の家で朝を迎えた。
「……オレはあまり考えることが得意じゃない。口もうまくない。でもな、これだけは言える。オレはお前とモーナと共に生きる。お前を絶対に不幸にしない」
娘がいることからも分かるとおり、彼女にはかつて夫がいた。だが、今は一緒に暮らしていない。その理由をフラフィーは詳しく聞くことはできなかったが、
その男は時々ふらっとやってきては夫の顔をして泊まっていき、わずかな金をおいていくという。
たとえ娘が起きていても、その目の前で平然と手を出してくる元夫と縁を切りたい――メイレンはそう思ってはいても、そのわずかな金で少しでも娘においしいものを食べさせてやれると思うと、娘のために断れず、ずるずると関係が続いてきた。
あの結婚式の夜も、彼女を求めて元夫が家にいた。深夜まで家を空けていたことをなじり、男の思い通りにしていないことをなじり、付き添ってきたフラフィーとの関係を疑い、メイレンとフラフィーをおとしめ、最後には拳を振り上げてきた。
だが、毎日重いハンマーを振り回しているフラフィーが、そうそう簡単にやられるはずもない。一息の間もなく、彼は襲撃者を叩きのめし、家から叩き出した。
それでフラフィーは、彼女が置かれている立場を理解した。理解したから、先の言葉で彼女を口説いたのだ。
その後、先にベッドにさそったのはどちらだったか、フラフィーは覚えていない。
だが、どっちが先かなどどうでもいいことだった。翌朝、親方と弟には先に山に帰ってもらい、フラフィーはあらためて、彼女を口説き落とした。
かつて夫がいて、そしてずるずると関係を続けてきたメイレン。だが彼女は、出会ってからたった一晩でフラフィーとともに生きることを決意し、山に来てくれた。過去がどうあろうと、フラフィーにとってはそれだけでもう、十分だ。
「もうすぐ、あの
「あら、私のつくる食事では満足できないんですか?」
メイレンの言葉に、フラフィーは目が点になり、そして、笑いだした。
「……いや、お前の料理は最高だ! じゃあ、モーナの新しい服をつくるために、布や糸でも見に行くか?」
「それがいいです。あなたやみなさんの上着も作って差し上げたいですし。そのときには、ふもとの妹さん夫婦にも、挨拶に行きましょうね?」
そう言って口づけをしてきた妻を、フラフィーはもう一度抱きしめた。
■ □ ■ □ ■
それにしてもだ。
ミネッタはとんでもないものを残していきました。
それは……
「もっと、もっと、ください――」
盛んにムラタの上で裸身をくねらせるリトリィ。
そう。
ミネッタのお腹に触発されたのだ。
赤ちゃんはできる――それを見せつけられたリトリィが、今夜もムラタの腰の上で踊る。
長いキスのあとで、リトリィがつぶやいた。
「わたしも、あれくらいのお腹で仔を産むんですね」
それに関しては、ムラタも驚いたことを素直に口にする。
「妊婦さんというともっとでっかいお腹を想像していたんだけど、
「ふふ、でもあれくらい大きくなったら、こうして口づけをしながら愛していただくのは、難しくなるかもしれませんね?」
「い、いや、赤ちゃんがいるんだからもうしなくなるだろ?」
「どうしてですか?」
不思議そうな顔をするリトリィに、ムラタも焦りを隠せない。
「だって、これは子供を作るためなんだから、できたならもう――」
「仔を授かるために致してますけど、仔作りのためだけでもないでしょう?」
そう言って、リトリィはいたずらっぽく笑った。
「殿方は、種が余っているとよその畑にもまきたくなるそうですから。だんなさまの種のゆくえをみとどけるのは、妻たるわたしのおしごとです」
「俺が浮気なんてするわけないだろう? それに余るって、マイセルの分が……」
「わたしがほしいからです。マイセルちゃんにあげるぶんと同じだけ、わたしにもください」
身もふたもないことを言うと、彼女は再び身を起こした。
「あ、また大きくなりました」
「いや、そりゃ、そんなふうに腰を動かされたら……!」
「ふふ、うれしいです。わたしの具合が、わるくないということですね?」
「だからそれは最高で――じゃなくてだな」
「だいじょうぶです。わたしが動きますから」
大丈夫じゃない、目の前で二つ、暴力的に弾むものがあったら、男としてやらなきゃならないことがあるだろ――ムラタが伸ばした手に応えるように、リトリィが身をかがめる。
「ふふ、そんな赤ちゃんみたいに――今はまだ出ませんよ? いずれいっぱい飲ませて差し上げますから、楽しみにしていてくださいね?」
――今日も太陽が黄色い。
だが、太陽が黄色いってことは、つまり俺が愛されている証拠だ。
腎虚なんかでくたばっちゃいられない。
毎日の健康管理のために、今日も朝の乾布摩擦にラジオ体操、そしてしっかりと食うことだ。
ムラタは気のすむまで伸びをすると、上着を脱ぎ、愛用の手ぬぐいを手に取った。
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