第439話:産んだ我が子は誰の子に

「ただ、それでも妻の生き方を、私は全面的に支持したく思います。彼女が彼女らしく生きるために」


 俺の言葉に、ナリクァンさんは苦笑いを浮かべた。


「そのようなこと……もはや責めてなどいませんよ。わたくしの夫も、わたくしのしたいようにさせてくれましたからね……そうではありません」


 夫人はカップを受け皿に戻すと、改めて俺を見つめた。どこか、優しい目で。


「あの時を思い出しましたわ」

「……あの時、とは?」

「リトリィさんを取り戻すために、一人でここに来たときのことですよ」


 ざわっ――

 背筋が一気に寒くなる!

 爪を剥がされかけた、あの日のことを思い出す――!


「あの時のことを思えば、ずいぶんと逞しくなられたこと。おのが言うべきは言う――その気概が、すこしは身についた、といったところかしらね?」

「……そう受け止めていただければ、身に余る光栄です」


 どうしようもない馬鹿だが、愛すべき馬鹿でもある――そんな生温かい目で見つめられ、俺はどうしていいか分からず、カップを手に取って間を持たせようとした。

 ……が、もうすでにお茶を飲み干してしまっていたことに、カップを手に取ってから気が付いた。顔から火が出そうになる。


 夫人はそんな俺を見てか、小さく笑ってから、マイセルに目を移した。


「さて、マイセルさん。ご夫婦としては、あなたが先に子を宿しましたが……」

「は、はい」


 ナリクァンさんは、居住まいを正したマイセルに、ゆっくりと、噛んで含めるように言い始めた。


「マレットの娘なら、ある程度、話は聞いているかと思いますが……。よう、――?」


 マイセルが、身を固くするのが感じられた。


「……でも、お姉さま――、ということですか?」

「よくわきまえてらっしゃること。お母さまの薫陶かしらね?」


 マイセルの表情が、一瞬かげる。だが彼女は、努めて明るい声で「はい、必要とあらばそうするように――そう、伺っております」と答えた。


 ……馬鹿な! 俺はそんなこと、一度だって望んだことないぞ!?

 驚いて真意を問おうとすると、リトリィが先に身を乗り出した。


「ま、待ってくださいナリクァンさま。マイセルちゃん、わたしはそんなこと――」


 しかしナリクァンさんは、リトリィに対して厳しい目を向け、押しとどめた。


「リトリィさん。これでよいのです。『第一子は第一夫人の子とする』――これは、ごく当たり前のことです。あなたも、夫の妻を束ねる筆頭であるならば、そうわきまえなさい」

「わたしは、……わたしは、そんな……」

「わきまえなさい。――よろしいですね?」


 リトリィの目が泳ぐ。

 けれど、やはり彼女にとって、ナリクァンさんは絶対的な存在らしい。

 一瞬だけマイセルのほうに目を向けたが、しかしそのままうつむき、かすれる声で小さく、はい、とだけ答えた。


 それを見てナリクァンさんは満足そうにうなずくと、目が全然笑っていない笑顔で、今度は俺を見る。

 だからこえぇって、ナリクァンさん!!


 ……でもですね?

 俺、さっきあなたに認めてもらえたこと、嬉しかったんですよ。

 ひょっとして、ナリクァンさん。


「ナリクァンさん。俺は――」


 あなたは、俺に、こう言ってほしいんじゃないですか?


「俺は、リトリィの言うように、産んだ子は自分の子として育ててもらいたいです。この街の風習がどうだなんて、関係ない。マイセルの子はマイセルの子。リトリィの子はリトリィの子。お腹を痛めて産んだ子を、我が子として慈しんでもらいたい」


 果たして、夫人は。




「叱られるに決まってるじゃないですか!」


 家への帰り道。

 マイセルがぷりぷり怒っている。

 最初にナリクァンさんに物申そうとしたのはリトリィのはずなのに、肝心のリトリィにも怒られた。


「ムラタさん、どうしてわたしがからむとそんなにまっすぐになってしまうんですか? ……その、うれしいですよ? うれしいですけど、そのせいでいつも、話がややこしくなっている気がします」


 リトリィが絡むと単細胞になりがちと。

 うん。つい頭に血が上ってしまうのは認める。


『馬鹿おっしゃい! 恐れを知らぬのと、ものを知らぬのは、天と地ほども違うのですよ!』


 あのあと、こんこんと説教された。ナリクァンさんを激怒させたのは、「この街の風習なんて関係ない」という俺の失言だった。あれが無かったらナリクァンさん、あそこまで怒らなかったかもしれない。

 ただ、最後に、やっぱりどうしても譲れなかった俺は、


『それでも、俺はリトリィにもマイセルにも、産んだ子を我が子として抱きしめてもらいたいです』


 そう言って、ナリクァンさんをさらに呆れさせた。

 けれど、ナリクァンさんはもう、怒ったりしなかった。


『あなたがお嫁さんを大事に思う気持ちは分かりますけれど、もうすこし交渉術というものを覚えたほうがよろしくてよ?』


「ムラタさんは、もうすこし言葉に気をつけてください。ときどき、本当にヒヤヒヤするんですから、こっちは」


 結局、家に着くまでマイセルからお小言をもらいっぱなしだった。

 おかしいなあ、日本で建築士としてやっていた時は、もうすこしうまくやっていたつもりだったんだけど。

 ……うまくやっていた「つもり」でしかなかったのかな。




 ベッドの上で髪を整えているリトリィは、まだ呼吸の整わない俺と違って、落ち着いた様子だ。

 青い月の光に照らされて、ふかふかの毛布のような体毛をまとっている彼女が長い毛をまとわない唯一の場所――たわわに実る果実のようなその乳房が、彼女の動きに合わせて重たげに揺れる。


「ナリクァンさんと、なにをお話していたか、ですか?」

「ああ。ほら、帰る間際にさ、俺だけ部屋を出されて、リトリィとマイセルがしばらく部屋残ってただろ?」


 彼女が差し出してくれているふわふわのしっぽを撫でながら、俺は聞いてみた。

 リトリィはすこしだけ目をそらしたあと、いたずらっぽく笑ってみせた。


「……ひみつ、です、――って言ったら?」

「俺たちの間に隠し事は絶対に作らないって言った君がそう言うなら、よっぽどのことなんだろう? 聞かないでおくさ」


 気にはなるけどね? そう言ってしっぽから手を離し、ごろんと仰向けになると目を閉じた。

 ナリクァンさんのお説教のあとの、妻二人だけ話を聞くというパターンなのだ。暴走しがちな俺のことをもっと上手に制御しろ、とかそういう話なんだろう。


 ふわっ、と顔にふかふかなものが被さる。

 目を開けるまでもない、リトリィのしっぽだ。

 ぱふ、ぱふ、と、何度も軽く持ち上げられてはまた被せられる。

 ……くすぐったい。


 枕にしていた手で、彼女のしっぽをつかんで目を開けた。

 優しげな目で俺を見下ろしている彼女と、目が合う。


「知りたいですか?」

「……そうだな、知りたい」


 するとリトリィは俺の隣に身を横たえ、そっと、その薄い唇を重ねてきた。

 しばらく舌を絡め合い、そして、くちびるを離すといたずらっぽく笑ってみせる。


「これからも、誠心誠意、あなたにご奉仕するようにって」

「……なんで、そうなるんだ?」


 あのお説教モードのナリクァンさんが言う言葉とは思えない。彼女なりの意訳だろう。


「ほんとうですよ? 信じてくださらないんですか?」

「いや、あれだけ説教を食らったあとだぞ? どうせ、俺から目を離さないようにって釘を刺されたんだろう?」

「ちがいますよ」


 リトリィは苦笑すると、俺の上に覆いかぶさってきた。


「産んだ子を、産んだ女に抱かせたい――あの言葉をあの場で、きっと本心でおっしゃったあなたは、わたしたちをきっと幸せにしてくださるからって。どんなことがあってもあなたを信じて、これからも誠心誠意、あなたに尽くすようにって。とってもほめていただけました」


 ――褒められた?

 あれだけ説教を食らったのに?


「ふふ、そんなことを言ったら、殿方は調子に乗って、いらない失敗をするそうですから。マイセルちゃんは正直にナリクァンさまのお言いつけを守って、ずっと怒ってみせてましたけれど」


 リトリィはそう言って、体を起こす。


「ちゃんと、秘密をつくらずにあなたにお話ししました。わたし、ちゃんとあなたとの約束、守りましたよ?」


 褒めてください、そう言わんばかりに、頭を下げてみせる。

 大きく実ったぶどうの房のような胸が、俺の視界を埋め尽くす。


 ――ああ、彼女はそうやって、自分を曲げることなく、俺に尽くしてくれる。

 俺に誓ったその生き方を。


 だったら俺も、彼女の腕に、彼女が産んだ子を抱かせてやること――それを実現させてやらなければ。

 腕を伸ばして頭をなでてやると、リトリィは目を細め、腕に頬を擦り付けた。


「あなた……。これからも、ずっとずっと、わたしたちを――あなたのリトリィを、かわいがってください。この命がつきるまで、わたしはずっと、あなたのものですから――」


 俺の上で再び俺を迎え入れた彼女は、歓喜の吐息と共に天井を仰ぎ、豊かな乳房を大きく跳ねさせた。

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