第66話:絶景

 彼女の背中越しに腕を回し、ぎゅっと、抱きしめる。

「ムラタ……さん?」

「俺はきみが好きだ。これまで何度も不安にさせて、悪かった」

 ゆっくり、背中越しに、話しかける。半分は、自分自身にも言い聞かせるつもりで。


「俺自身、リトリィが俺に好意を示してくれているのは、きっと誰にでも同じ態度なんじゃないかとか、あるいは何かの利益を求めているんじゃないかとか……。

 ――リトリィに好いてもらえる理由が分からなくてさ、いろいろ考えちゃってたんだよ」


 一度、言葉を切る。

 しばらくの沈黙のあと、肩を少し、震わせながら、リトリィは小さな声で答えた。


「……わたしが、ムラタさんを好きな理由が、分からない――ですか?」

「この前たっぷり聞いたから、もういいよ。また聞かされたら、俺、恥ずかしさのあまりに悶絶して死にそうだ」


 おどけて返す。

 ただ、回した腕に、力を入れる。


「……ムラタさん、苦しいです」

「その苦しさは、俺の暑苦しいくらいの好きの気持ちだって思ってくれよ」

「……おしりに、ムラタさんのが、当たってます」

「――ごめん」


 当たってくる、と言いながら、しかしリトリィも、に腰を押し付けてくる。


「――アレもありますし……、か?」


 おずおずと、だが明らかにナニかを期待するような声で、リトリィが聞いてくる。ぱさぱさと跳ねるしっぽがくすぐったい。


 ――だが。


「ごめん。さっき気が動転しちゃってて。……アレ、思いっきり川に投げ捨てちゃったんだよ……」

「ええっ!?」


 リトリィが悲鳴を上げて跳ね起きる。

 呆気に取られている俺に向き直ると、彼女は必死な様子で問い返してきた。


「あ、あの、ムラタさん! アレ、捨てちゃったんですか!?」

「あ――ああ、ごめん。その、ああいうの俺、慣れてなくて……」

「そんな……」


 耳までしおれさせ、ひどくがっかりした様子でうつむいてしまった。


「……期待してたのに……」


 そのまま、再び俺に背を向けるようにして毛布に潜り込むと、しくしくと泣き始める。


 えー……。

 アレを見つけたとき、そんなに期待しちゃったのか。

 この二人旅の中で、ができることを。


 結局その夜、リトリィはすねたまま機嫌を直す様子はなかった。

 すっぽりと俺の腕の中には収まり、彼女を抱く俺の右腕を抱え込み、ずっと顔を擦り付けたりしていたのだが、ついにこちらを向くことはなかった。




 口の中の違和感で目を覚ます。


「おはようございます」


 昨夜はずっと背中越しだったリトリィが、ドアップで目の前に。ただし、目は冷え切っている。


「早く食べてくださいな」


 口の中の違和感は、押し込まれていたパンだった。

 昨夜のまま、相当に機嫌が悪いらしい。


 ……昨夜は本当に失敗続きだった。

 あらゆることがドツボにはまっていたと思う。彼女もすっかり機嫌を損ねて、朝になってもこのざまだ。正直、例の軍人に会うのも気が重いというのに、その前からテンションダダ下がりである。


 仕方なくもそもそと口を動かしていると、リトリィはそんな俺の様子をしばらくじっと見つめていたが、やがて小さく吹き出した。


「……どうしたの?」


 くすくすと笑い続けるリトリィに理由を尋ねると、怒っているふりをしてみたけれど、続かなかったのだという。


「だって、眠そうな顔でもぐもぐしてるムラタさん、かわいいんだもん……!」


 かわいい……?

 こんな年下の子に言われるのは、なんだろう、本来は屈辱的なはずなのだろうが……許せてしまうのは、その笑顔をずっと見ていたいと思えてしまうからだろうか。

 肩を震わせ、くっくっとこらえながら笑う姿も、なんだか可愛らしい。


 しかし、ひとを笑うのはやはり間違っている。ここはひとつ、大人として正してやらないと。


「くっくっ……えひゃあ!?」

「笑い過ぎだぞ? そういう悪い子には――お仕置きだ!」


 無防備に、いつも通りの腰帯しかつけていないリトリィである。脇の下をくすぐるなど朝飯前だ。いや、朝飯はもう食ったが。


 そうして、脇の下に突っ込んだ指を高速駆動!


「ひゃあん!? や、だめ! いや、ムラタさっ……きゃうん!?」


 やはりな……!

 三兄弟の紅一点として尊重されてきたであろうリトリィだ、くすぐりに弱いのは計算通り! 息も絶え絶えになるまで散々くすぐってやった。

 ちなみにやり返されてもこちらは悪友同士で散々やりあっていて、すでに鉄の脇、鋼の脇腹と化している。大人に勝とうなど百年早い! 正義は勝つ!!




「……いいんです。ムラタさんが子供みたいないたずら小僧さんだっていうのは、もうとっくに分かってたことですから」


 目尻に涙を浮かべたリトリィが、口をとがらせる。


「いいですよ? いずれ、絶対仕返ししてあげますから」

「全力で受けて立とうじゃないか。なんたって、可愛い可愛いリトリィの仕返しだからな」

「――~~~~!!」


 真っ赤になってうつむいてしまうところがまた可愛い。

 よし、これからは何かあったら「可愛い可愛い」のスタン攻撃だな。


 昨日はだいぶ暗くなっていたので気づかなかったが、川沿いの道は、川とそれほど高さが変わらないところにあることに気づいた。


道から川の水面まで二メートルもない――俺の身長分ほどしかない。斜面を下りて行けば、すぐに川の水を汲むことができるくらいである。

 そういえば、滝のあたりは向こうの森に渡れるくらいに谷が浅くなっているとは言っていたっけ。滝が近いのかもしれない。


 川に降りると、さらさらときれいな水が流れている。革袋でできた水筒の水は、すっかり革の臭いがついているので、ここらできれいな水を補給することにする。


「リトリィ、川の水って、飲んでも大丈夫だよな?」


 念の為に聞いてみるが、もちろんOKだった。まずは皿ですくって、その冷たいうまさを味わう。登山をする奴らは何が楽しいのか、さっぱり分からなかったが、こういう瞬間だけを切り取るのなら、確かに楽しみもあるのかもしれない。


 半刻ほど進むと、さらさらという水音に、地響きのような音が徐々に加わってきた。


「もうすぐ滝ですよ。少し落差があるので、眺めがいい場所です。本当は、そこで野宿をするつもりだったんですけど」


 なるほど。まあ、その遅れの原因は俺の歩みの遅さだな。


「滝からだと、麓の街がよく見えます。滝からは、あと半日ほどで平野に出ます。がんばりましょうね」


 そうか、景観も楽しめるし、目印でもあるわけか。


「ほら、森が切れているでしょう?

あそこです。四の刻には早いですけど、滝でお茶にしませんか?」


 休憩は大歓迎だ。水分と糖分で、体力を回復させたい。


 つい足早になる俺に、リトリィが笑う。だが、それもまた楽しい。競争を持ちかけたが、まるで話にならなかった。競歩状態の俺と、文字通り走っていくリトリィ。

 ……俺よりも重くてかさばる荷物を背負って、だ。俺という存在意義について、真剣に悩んでしまう。まあ、彼女は普段から鍛冶をやって鍛えられているのだ、勝てなくて当然なのかもしれないのだが。


 森を出ると、地響きのような音は一層大きくなった。リトリィがいるところまでたどり着き、絶句した。


 ――高い!


 五階建てのマンションの屋上――およそ二〇メートル――から下を見下ろしても足がすくむというのに、いったい何メートルあるというのだ! 一四階建てのマンションより高いぞ!


「ふふ、高いでしょう?」

「高いぞ、これは。どれくらいあるんだ?」

「そうですね、だいたい百八十から二百尺くらいだって言われてますけど」


 ――およそ六十から六十五メートル!

 そりゃ高いわけだ。崖下の木も、崖の高さに追いついていないしな。


 それにしても、絶景とはまさにこのことだろう。眼下は、四方を山に囲まれた盆地で、崖の下から伸びる川は緩やかに蛇行し、途中に湖を作ったうえで、山と山の間を縫うように南のほうに消えていっている。


 この山の麓は豊かな森で覆われ、道らしい道は見えない。森の向こうには草原が広がり、一本の道がこちらに向かって伸びてきて、森の中に消えている。おそらく、あの道に向かって俺たちは歩いていくんだろう。


 その道に沿っていくつかの集落――数軒の家が肩を寄せ合うように立っているのがいくつか見える。その周りはすべて畑だ。おそらく、南の街の城壁の外に出て開墾を続けてきたのだろう。


 その先には、立派な城壁を構えた街がある。ただ、城壁の外にも街が広がっていて、街の成長に、城壁の拡張が追い付かないうちに街が広がっていったことが想像できる。


 城壁の外に広がる街の広さもかなりのものだ。決して無秩序ではなく、城壁の一点に向けてある程度、放射状に広がる道がみえる。

 この距離でそれがそれがわかるのだから、それなりに整備された、大通りのはずだ。そして、その大通りが集約される広場のような場所は、おそらく城門があるのだろう。


 城の防御力を上げるなら、大通りは一本だけにして、あとは入り組ませたほうがいいに決まっている。

 つまり、あの街が、長いこと平和を保ってきたという証拠だろう。王様か貴族か、あるいは共和制なのか。とにかく、為政者が代々優秀だったに違いない。


 半日後には、あの大きな街にいるのだ。そう思うと、なんだかやる気が湧いてくる。

 ――とはいえ。


「……この崖を降りなきゃいけないのか?」


 まさかと思うが、一応聞いてみる。


「まさか」


 リトリィは、にっこり笑って、どう見ても細すぎるツタを掴み上げた。


「このあたりのツタをくくりつけて飛び降ります」

「…………は?」


 リトリィが、俺の服の帯を、まるで万力か何かで固定したかように掴み、小首をかしげて微笑む。


「がんばりましょうね?」

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