第552話:相聞夜に偲ぶ愛(1/3)
ガチャン、パリン!
唐突にガラスの割れるような音が鳴り響いた。
それも一枚や二枚、落として割れたとかそういうレベルの話ではない。
どこかで運んでいた皿を一斉に落として割れた、というような様子でもない。
とにかく破砕音が次々に鳴り響くのである。
「まるでオレのオヤジとオフクロの夫婦喧嘩みてえだな」
リファルが他人事のように笑う。実際に他人事なのだろうが、俺も、一年前まではそのように思ったかもしれない。少なくとも日本にいたころは、何事かと思っただろう。間違いなく、皿やコップが飛び交う壮絶な夫婦喧嘩を想像したに違いない。
だが、俺はこの世界で結婚式を行った。
だからわかる。この一年で、何度か見かけた行事だ。
リファルが笑いながら指をさす方を見ると、そこそこの人だかりが、とある家の前にあった。笑い声も聞こえてくる。
そうだ。これは夫婦喧嘩でもなんでもない。むしろ愛と絆の始まりなのだ。
「ああ、やっぱりそうだ、
「……ああ、アレか」
思わず微笑みが浮かんでくる。
あれは、結婚式の前の前夜祭だ。陶器や磁器を家の前でブチ割る、あの行事。
「お前の家のドア、半分に割れた皿が刺さったままだもんな。アレ、誰が投げつけたんだっけ?」
「ナリクァン夫人だよ。とんでもない量の皿を持ち込んで道行く人に配ったうえに、皿が突き刺さる勢いで投げつけたんだ」
おかげでウチは、ご近所さんには「皿の家」と呼ばれているらしい。
「例のパン」とは、例の卑猥なねじり揚げパンのことだろう。ねじり合う二本のパンは睦み合う夫婦、真ん中あたりで二本のパンを貫くように突き刺された腸詰肉は主人の男根を意味するという、アレだ。
ああそうだよ、ヤッてる形そのものなんだ、このパン。
「旦那になる男のモノ、どれくらいだと思う?」
「知らん。知りたくもない」
「なんだよ、つまらねえヤツだな」
「ていうかだな、これからウチで飲み食いしようってのに、余計なモノを腹に詰め込みたいのか?」
「なにを食ったって、てめえの家の酒はオレが全部飲み干してやるって言っただろ。それより、最近は騒夜祭をめいっぱいやる家って、昔よりは減ってきてるっていうからな。皿割りはやらずに、例のパンを配るだけって家もたまに見るぜ?」
結婚式は、一世一代のお祝い事だ。本人たちはもちろん、親も我が子の幸せを願って、精一杯のことをしてやろうとするだろう。
俺の場合、ナリクァン夫人とそのお友達のご婦人がたが手伝ってくれたおかげで、騒夜祭から盛大にできた。リトリィに対する、夫人の親心のおかげと言ってもいい。
けれど、考えてみれば庶民が振舞えるものなんて限られている。いかに結婚式とはいっても、規模の縮小化もあり得る話なのだろう。ただ、それでもできる限りみんなで夫婦の門出を精一杯祝おうとする――それが、騒夜祭であり、披露宴だ。
「というわけでだ。せっかく騒夜祭をやってるところを見かけたんだ。あの新婚夫婦の幸せを祈ってやるためなんだから、顔を出すのは悪いことじゃねえ。というより、オレたちはいいことをするんだ。見に行こうぜ!」
「俺たち、って、巻き込む前提かよ」
「今回の仕事にさんざっぱらオレを巻き込んだんだ、たまにはオレに巻き込まれろ」
「いやあ、楽しかった。やっぱり騒夜祭は皿を割ってこそだよな!」
リファルは上機嫌だ。例のねじり揚げパンも、もっしゃもっしゃと食っている。
「なにが見どころって、このパンを配る新婦の顔だぜ? ありゃあ、まだ全然スレてないな。恥ずかしがりながら配ってるのが、なかなか可愛かった」
このセクハラ野郎め!
「そういえば、お前んちも去年の春に結婚したんだっけ?」
「ああそうだよ。ウチでもやったよ。大変だった」
「クソッ、お前が醜態をさらすところ、見てやりたかったぜ。去年のいつ頃だったんだ?」
「藍月の夜の日だ。なんたって俺の嫁さんは『金色さん』だからな」
そう言った途端、リファルはくるりと背を向けた。俺は慌ててヤツの襟首をむんずとつかむ。
「おい、俺の家は目の前だぞ?」
「バッカヤロ! だからじゃねえか! オレは帰る!」
「何だ急に。ウチの酒を飲み干すんじゃなかったのか?」
「気が変わった! 今夜の金色さんの前で飲む勇気はねえ! オレはまだ死にたくねえんだ!」
「失礼な奴だな、どういう意味だ」
その時、家のドアが開いて、中から話題の金色美人――リトリィが出てきた。
「おかえりなさいませ、だんなさま。ようこそ、リファルさま」
さすがリトリィ、俺の奥さん。出迎えのタイミングが完璧すぎる。その柔らかな笑顔も大好きだ!
「ああ、ただいま。実は今日、孤児院の件がひと区切り付いてさ。こいつも頑張ってくれたし、飯を一緒にと思って――」
そう言った時だった。
マイセルが出てきて、俺とリファルを見比べて、「お、お姉さま……」と絶句する。
「ね? 言ったとおりでしょう? きっとお客さまをお連れするって」
「……信じられません」
相変わらずにこにこしているリトリィと、処置なしと言った顔でため息をつくマイセル。
「……お姉さま、これはさすがに怒るべきだと思いませんか?」
「これがわたしたちのだんなさまです。マイセルちゃんも、それをわかっていてお仕えしているのでしょう?」
「そんな……。だって、お姉さまがずっと楽しみに……」
「いいの。わたしたちが、ちゃんとお伝えしておかなかったのがいけないんです。わたしたちの落ち度を、だんなさまのせいにしてはいけません」
「でも、それにしたって!」
「いいの、マイセルちゃん。それ以上はだめ。だんなさまにはだんなさまのお考えがあるのよ? それに、お客さまをしっかりおもてなしすれば、そのぶん、きっといっぱい、ご奉仕させてもらえますから。さあ、追加のお料理、がんばりましょうね」
わずか二時間程度で帰ると言い出したリファルを、俺は引き留めようとした。だが、彼は帰ると言って聞かなかった。
玄関を出ると、美しい月が三つ、縦に並んでいる。いい夜だ。こんな夜こそ、仕事に一区切りついたことを互いに祝いたいんだけどな。
「本当にどうしたんだ? まだまだ夜はこれからだし、酒だって――」
「……いや、その……なんだ。ていうかだな、ムラタ! お前、いい加減気づけって! 月の並びを見ろ、藍月の夜は明日だぞ?」
「……そう、だな。うん、いい夜だよな」
「だーっ、コイツは!」
リファルは地団太を踏むと、俺の胸倉をつかんだ。
「お前、明日が結婚記念日なんだろう?」
「そ、そう……だ、けど……?」
「だったら今夜は、結婚記念の
「……なはとぶりふ?」
「結婚記念日前夜の、思い出を語り合う一夜に決まってんだろうが! 明日が結婚記念日だってんなら、今夜は特に大事な一周年目の!」
がくがくと揺すぶられ、俺は声が出せなかった。
「あの料理の山を見たか? チビたちは分かってなかったみたいだけどな、あれを食うはずだったのはオレじゃねえんだよ! それなのに、なんであの金色さんはああもニコニコしてられるんだよ!」
リファルの顔が赤いのは、アルコールのせいだけじゃないだろう。
彼は本気だった。本気で怒っていた。
「勧められたから食ったけどよ、俺はお前みたいなクソ野郎の外道ぶりにも動じずに、自分たちが食べるはずだった料理を客に食わせる金色さんの姿だよ! なんだよアレは! なんでああも幸せそうにしてられるんだ! こっちの胃がもたねえよ!」
声が出せなかった。
揺すぶられていたからじゃない。
リトリィたちは、そんなこと、一言も言わなかった。
仕事ばかりで家のことを省みない俺の、邪魔にならないようにということだったんだろうか。
「……すまん。……いや、ありがとう、教えてくれて。俺、前日がそんなに大事なものだなんて、知らなかったんだ」
「知らなかったじゃねえよ! 夫なら当然知ってろよ! オレの両親はケンカばっかりだったがな、それでも結婚記念日と
振り上げられた拳が、やけにゆっくりと迫ってくるような、そんな気がした。
殴られる――そう思ったときだった。
「お客さま、それ以上の主人への狼藉は、妻たるわたしが許しません」
いつの間にいたのか。
リトリィが、リファルの腕を両手でつかむようにして、彼の拳を止めていた。
「リファルさまは、なんどもだんなさまがお連れして下さった、だんなさまの大切な大切なご友人だと心得ています。そのリファルさまが手を上げていらっしゃるのですから、きっと訳があるのでしょう。なにか、わたしたちに不手際があったのでしたら、お申し付けください」
リファルが、俺の胸倉をつかんでいた手を離し、おとなしく拳を振り下ろしたからだろうか。
リトリィも、微笑んで手を離す。
「ありがとうございます。ただ、どんな不手際があろうとも、だんなさまはわたしたちの大切な主人です。どうか――」
「……アンタがそれで納得してるなら、オレはなんにも言うことはねえよ。大事な夜に、邪魔したな」
「いいえ。わたしたちも、ご友人として今夜、主人にお付き合いくださったこと、深く感謝しております」
リトリィは、侍女の礼法通りに腰を落とし、リファルに向けて深々と頭を下げた。
リファルはどこか居心地悪そうにしていたが、「……嫁さん、大事にしてやれよ」とボソッと言うと、また今度な、と言ってきびすを返した。
「……ああ、また今度、来てくれよ」
「そん時こそ、お前んちの酒、飲み干してやらあ」
「……すまなかった」
「いいえ?」
リファルの背中が見えなくなったころ、俺はリトリィに詫びた。
そんな程度じゃ、彼女の無言の愛に赦されていた自分をどうすることもできないと分かってはいたけれど、それでも彼女を抱きしめ、俺は何度も詫びた。
「ふふ、あなた。一年経ってもまだ、おたがいに知らないことがあったということですよ。これからもっともっとお互いに話し合って、ひとつひとつ、知り合っていきましょう?」
俺の頬を流れる涙をぺろりとなめて、いたずらっぽく笑ってみせた彼女だが、その彼女の目じりにも、月明かりを受けて雫が光っていた。
――ああ。本当にお互いに話し合うって大事だ。
お互いをよく知っているつもりでも、それでも。
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