第551話:気持ちのいい帰り道

 孤児院を出るとき、コイシュナさんと共にヴェスさんが門まで見送りに来てくれた。といっても、マレットさん組は早々に帰ってしまっているから、見送られるのは俺とリファルだけだ。どうもマレットさん組の三人は、先約があったらしい。


 ただ、二人が見送りに来てくれたと言ってもコイシュナさんはずっとリファルと話をしているから、実質、ヴェスさんは俺の見送りに来てくれたようなものだ。


 ヴェスさんは、リノへの暴行未遂事件以降、子守り環境の向上と、問題を起こした少年たちの労働に対する監視を兼ねて来てくれている、ナリクァン商会の人間だ。

 一日おきの勤務だが、それでも赤ん坊の環境は良くなったと思う。


 とはいっても、ヴェスさんの顔は、子供たちの前にいるときとは違った事務的な無表情。彼女がここに派遣されるようになったのは俺のせいでもあるからな。思うこともあるのだろう。


「……それでムラタさん。次にいらっしゃるのはいつなんですか?」

「分からない。ただ、できるだけ早く再開したいとは思っています」

「わたくしどもはムラタさんの誠意を存じ上げておりますが、例の子供たちの変容は、きちんとその目で見届けてくださいね?」


 ヴェスさんは、事務的な表情を崩さずに言った。お前が抜けるのに私はここに居続けねばならないのだぞ――そんなことを言われているような気がして、心の中で謝っておく。


「もちろんですよ。言い出したのは自分ですから」

「結構です。では、今後ともよろしくお願い致しますね?」

「ええ。こちらこそ、よろしくお願い致します。今回の件、必ず、ナリクァン商会にとって良い話にしてみせますよ」


 ヴェスさんは、俺の交渉相手であるナリクァン商会の人間。良い結果をもたらしてみせるとアピールしておくのを忘れない。

 すると、彼女は少し考えるそぶりを見せて、わずかに微笑んだ。


「商会のことだけではありませんよ。以前、お話した時のこと、覚えていらっしゃいますか?」

「お話?」


 ヴェスさんは小さく笑ってみせると、「ほら、あのときです」と続けた。


「あなたの助言通りにしてみたら、子供たちがすすんでお仕事をするようになったという話です」


 ……言われて、真剣に記憶の底を掻き回して、ようやく思い出した。失敗しても叱らないでやってほしい、辛抱強く教えて、少しでもできたことがあればほめてやってほしい――そんな話だったか。


「もう十五――成人と認められるような歳でも、あんなにも変わるなんて、思ってもみませんでした。できたことをほめる、それだけしかしていないのに、あんなにも素直でいい子たちに変わるなんて」


 そう言われると、悪い気はしない。……というか、今まさに、ほめられる喜びって奴を実感してしまった。しかし、俺は思ったことを口にしただけだ。それを実際に噛み砕いて実践できるヴェスさんは、やはり子守りのプロフェッショナルなのだろう。


「ナリクァン様はおっしゃいました。あなたはずいぶんと遠いところからいらっしゃった、稀人まれびとなのだと。できれば、もっと教えを乞いたいのです。よろしいでしょうか?」

「いや、自分が知っていることなんてもう、ありませんから。ヴェスさんがすごいんですよ。これからもよろしくお願いします」


 改めて頭を下げると、ヴェスさんがすこし困ったような顔で、彼女もスカートの裾をつまんで正式な礼をしてみせた。


 ナリクァン商会の託児所で、預かった子供たちの世話をするのが本業の彼女だ。

 そして、あのナリクァン夫人がわざわざ選んで派遣したのがヴェスさんだ。以前、問題を起こした少年たちを舌鋒と腕力で反省させたハルトマンさん同様、間違いなく有能な人物のはずだし、実際に有能だった。


 そんな彼女が、俺に膝をつくなんて。

 妙な誤解をさせてしまっているのか、あるいは俺に謙遜させてしまったことで、そうせざるを得なくなったのか。そういえば、この街の女性にはそんな礼法があったような気がする。

 俺は笑顔を作るように努め、彼女に手を差し出した。


「自分は、思ったことを口にしただけです。それを実践して、むち褒美ほうびもなしに子供たちを実際に変えたのは、ヴェスさんです。俺はなんにもしていません。全部、ヴェスさんの成果です」


 ヴェスさんは恐縮したような面持ちで、おそるおそるといった様子で俺の手を取ると、ゆっくりと立ち上がった。


「それに、正直に言ってしまえば、俺の保身なんですよ。あいつらに一時的な罰を与えたって、その場で反省したふりをしてみせるだけで、下手をしたら逆恨みをして何かを仕掛けてくるかもしれない。だったら、少しでも心根を入れ替えさせるような何かをしたい――それだけなんです」


 俺というか、リノのために――腹の中で、そっとそう付け加える。


「で、ヴェスさんは期待以上の成果を上げてくれたんです。もちろんコイシュナさんも頑張ったんでしょうが、この成果は明らかにヴェスさんのおかげなんですよ」


 ヴェスさんが、エメラルドのような深い緑の瞳で、俺をまっすぐ見つめている。

 ……これはきっとあれだ。仕事が一つ区切りを迎えたことだし、彼女はナリクァン夫人に、俺の本気度がどのくらいなのか、報告するのだろう。

 俺は大きく息を吸った。


「俺は、あの問題を起こした子供たちを変えてくれたヴェスさんに報いたい。だからヴェスさんがおっしゃった通り、俺も子供たちの変容を見届けるように、必ず顔を出すようにします。一緒に、あの子供たちの巣立ちを見守りましょう。だから、今後ともぜひ、ヴェスさんの力を貸してください」


 言い切ってから、彼女に貸した手を、いま二人の胸元、その間で力を込めて握りしめていたことに気づいた。彼女も目を丸くして、彼女の手を握る、俺の手を見つめている。


 しまった、つい熱がこもりすぎた! 女性の手を握って力説するなんて無礼だ、セクハラだと言われても行為自体は否定できないぞ⁉


 慌てて手を離したが、彼女はそっと、俺につかまれていた右手を包むようにして左手を添えた。その手を見つめていたエメラルドの瞳が、上目遣いに俺を見る。


 まずい! ムラタは女の手をつかんで自分の主張をまくしたてて押し通そうとするような野蛮人だ、などと報告されたらどうしよう⁉


「す、すみません! つい、力が入ってしまって――」


 俺はすぐさま頭を下げて謝罪した。女性の髪を触るのはこの世界のご法度だが、肌に触れるのだってトラブルの元になるのはよくある話。いさぎよく謝っておくに越したことはない。


「わたくし、なにも申し上げていませんよ? お顔を上げてくださいな」


 戸惑いを感じる声色に、俺は恐る恐る、顔だけを上げてしまった。

 さっきまでの事務的な無表情はどこへ行ったのか。

 ヴェスさんの顔は、子供たちを前にしていた時の笑顔とはまた違う、なんとも柔らかな微笑みで満たされ、そして夕日に照らされて赤く染まっていた。


「ふふ……。いまの奥様も、こうやって口説かれたんですか?」


 予想外の言葉に、俺は言葉に詰まってしまった。そういえば、マイセルの時がそうだったか。俺の――いや、俺とマイセルの二人の勘違いから深まってしまった縁だった。図星すぎて、笑ってごまかすことしかできない。


 でも、こうやって冗談にして穏便に済ませてくれたのがありがたかった。さすがはナリクァン夫人に仕える人材。暴走気味な男のあしらい方も心得たもの、ということなのだろう。


「……本当に申し訳ありません。でも、あの子供たちの成長を一緒に見守ろうというのは本当です。途中で降りるなどということはしませんから」

「ええ、こちらこそ。またお会いできること、楽しみにしていますわ」


 そのときだった。


「ムラタさん! いろいろありがとうございました!」


 トリィネだった。ぶつくさと言っているファルツヴァイの背中を押しながら。


「ほら、お世話になったんだから、お礼を言わなきゃ!」

「……世話になんか、なってねえよ」

「なに言ってるの、屋根を直してくれたじゃない」


 そう言って、トリィネはファルツヴァイの腕を抱き込むようにして俺の前に立たせると、ファルツヴァイの手をつかんで俺のほうに手のひらを見せるようにして、一緒に挨拶をした。


「ムラタさん、本当にありがとうございました! このご恩は忘れません!」

「……そんなこと気にしなくていい。もう雨漏りはしないだろうが、これからも雨の日にはファルツヴァイの体調に気を配ってやってくれよ?」

「はい! 任せてください!」

「……おい、それはどういう意味だ。オレはトーリィの世話になんか……」


 むすっとしているファルツヴァイに、俺は笑って返す。


「そのままの意味だよ、良くも悪くもな。こうしてお前のことを助けたいと願う親友がいるんだ、大事にしろよ?」

「大事にって、あんたに言われなくたって――」

「分かっているなら大丈夫だな」


 俺が満足してうなずいてみせると、ファルツヴァイはまだ何か言いたげだったが、それ以上は何も言わなかった。


「それから、リヒテル。お前、怪我が治ったら現場に来いよ?」


 トリィネたちの後ろにはリヒテル。だが彼は、ぺこんと会釈をしただけで何も言わなかった。


 ――ああ、コイツ、リノのことで失恋してから、しばらく顔を出さなかったな。今はリノがいないから顔を出せたのだろうか。

 とはいっても、やはり以前のように、どこかおどおどして自信なさげだ。リノがいたときのほうが、まだアクティブな人間だった気がする。


 二十七年間彼女無し童貞だった俺が言うのもなんだけど、こいつに限っては恋をしていた方が絶対に人間力がアップするんだろうな。……がんばれ。


 俺は改めて頭を下げると、こちらなどそっちのけでずっとコイシュナさんと話をしていたリファルの首根っこをつかむと、「おいバカ放せ!」とわめく彼を引きずるように、俺は孤児院を後にした。


 コイシュナさんは名残惜しそうに手を振っていて、ヴェスさんは胸元で右手を左手で包むようにして、ずっとこちらを見つめていた。

 少々名残惜しい気はするが、やるべきことが控えている。


「……大工のくせに、訳の分からねえことばっかりに顔を突っ込みやがって。巻き込まれる身にもなれってんだ」

「そんな友達のおかげでいろんな経験が積めるだろ。ありがたく思え」

「誰が友達だ」

「俺が友達だ」

「ざっけんな」


 そうやって小突き合いながら、家に向かう。

 仕事にも一区切りついたし、ヴェスさんには何だかほめられたみたいだし、実に気分がいい。

 ついでにこいつには世話になったし、また今後も世話になるだろうからな。今日は俺の家で一杯やろう。


「おい、本当か⁉ だったらオレはもう明日は仕事しねえ! 今日は浴びるほど飲ませろ!」


 一杯やろう、と言っただけなのに。まあいいさ。最近、酒が美味いというか、酒の場の楽しさっていうのを、やっと理解してきたんだ。


「ああいいさ、あるだけ飲ませてやるよ」

「言ったな⁉ こうなったらてめえの家の酒、ありったけ飲み干してやる!」


 星が輝き始めた夕暮れの道を、俺たちは肩を組んで陽気に歩く。

 一つのことをやり遂げたあとの帰り道は、本当に気持ちがいい。

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