第109話:隔絶(2/2)

 昨日は二人で歩いた道を、今日は一人で歩く。

 いや、今日からしばらく、一人で過ごすのだ。


 歩くこと自体はこれで三回目の道のはずなのに、ずいぶんと印象が違う。

 リトリィと初めて歩くことになった時は高揚感すら感じたこの道が、今日は最初からハードに感じた。


 帰り道の時に降った雪はもうすっかり解けていて、道はしっとりとしてはいるものの、別にぬかるんでいたりするようなこともない。だから、歩きづらいようなこともない。


 けれど、こんなにも歩きにくい道だっただろうか。足元の小さな小石ひとつにしても、うっかりするとつまづいたり、足をひねりそうになったりしてしまう。


 リトリィが街の古着屋で選んでくれたコートは、時折吹きすさぶ風から、俺を守ってくれているかのように温かい。多少、背中は荷物が密着している関係で汗がじっとりするものの、不快になれば荷を下ろせばいい。風を通せば、一気に背筋を冷やすことができる。


 見上げると太陽もだいぶ高く上がってきている。やっと一刻ほどは歩いたことになるのだろうか。時間としてはおよそ三刻ほど――八時ごろにあの家を出たから、やっと九時かそこら。


 とぼとぼと歩いていると、背中の荷物の重みが、必要以上に肩にのしかかってくる気がする。

 ただでさえ重い荷物が煩わしいというのに、ただ一人、黙々と歩くだけのことが、こんなにも精神的に大きな負担になるとは!


 しまいには無言になってしまう俺に、いつも笑顔でこまめに話しかけてきてくれたリトリィの、その心遣いとありがたみが、いまさら身に沁みてくる。


『ムラタさん、だいじょうぶですか?』

『ムラタさん、お水、飲みますか?』

『ムラタさん、あれ見てください。あの子たち、ほら、あの枝の鳥。つがいでしょうか?』

『ムラタさん、お花、挿してみたんですけど……似合いますか?』

『ムラタさん、ほら、ミグの実です。酸っぱいですけど、おいしいですよ?』

『ムラタさん、この木、山葡萄やまぶどうです! わたし、街へ行くとき、いつもここを通るのを楽しみにしてるんですよ』

『ムラタさん――』

『ムラタさん――……』


 あの、優しい涼やかな声。

 相変わらず翻訳首輪の働きがないと何を言われているか分からないのだが、少なくとも、あいさつなどのいくつかの単語、そして俺の名を呼ぶところは一致して分かるようになった。

 いつか、首輪なしでも、彼女の言葉、ありのままを理解できるようになるのだろうか。


「リトリィ……君の声を聴きたいよ……」


 地面をにらみながら、歯を食いしばって、ただ歩き続ける。




「――ああもう、畜生!」


 何を見ても頭の中で再生され続けるリトリィの笑顔と声に耐えられなくなって、リュックを放り投げて道に寝転がる。

 中天に差し掛かった太陽から顔を隠すように、手で顔を覆いながら。


 一人旅というものが、これほどまでにつらいものになるとは!


 リトリィがそばにいない、たったそれだけのことだ。

 たったそれだけのことなのに、自分が依って立つ大地が失われてしまったかのような、絶望的な喪失感。


 リトリィがそばにいる。

 それを当たり前にしてきたこの四カ月。

 ――そう、もう、四カ月になるのだ。

 この四カ月で、俺にとって、リトリィは、そばにいて当たり前の存在になっていた。今こうして、そばに彼女がいないことで、猛烈な孤独を感じてしまうほどに。


『ムラタさん、あの山の形、ほこに見えませんか? わたしたちは、鋒山ほこやまって呼んでます。あの山が真っ白になると、数日後にはこっちにも雪が降るようになるんですよ』


 寝転がってたまたま視線が向いた先にあった、三角の鋭い山。それを指さして教えてくれたリトリィの言葉を思い出す。そうでなくとも、見覚えのある景色からはみな、リトリィの言葉が思い出される。


 無言で歩く道中がいかに退屈で、いかに辛いものであるか。

 いかに彼女が、自分に対して気を遣い、言葉をかけてくれていたか。

 当たり前だと思っていた日常のひとつひとつで、いかに彼女に支えられていたか。


「くそっ……くそっ! ああもう、どうしちまったんだよ俺!」


 道の真ん中で大の字になりながら、天に向かって叫ぶ。

 一人で道を歩く――四か月前、日本でなら、それが当たり前だった。道行く人は全て他人、自分と関わりのない、ただの背景。

 深夜、一人で歩く道も、別に何とも思っちゃいなかった。

 ――それなのに。


「ほんと寂しいんだよクソッタレ! リトリィ、お前が恋しいんだよ!」


 リトリィと隔てられた生活を強いられる――ただそれだけのことが、これほど苦しいとは!


 二十七年間、彼女いない歴をずっと更新してきた俺だ、一人でいることなど当たり前で、一人でいることに寂しさをこれほどに覚えたことなどなかった。

 それが、たった数時間で、なんだこのざまは。我ながら信じられない。


 一度、リトリィと別れようと決意したときも、こんな思いを抱くことになろうなど、思ってもみなかった。

 彼女と別れたところで、元に戻るだけ、と思い込んでいた。


 胸をえぐられたかのような、この喪失感!

 得られたものが大きすぎて、だからそれが抜けた後の穴も大きくなりすぎて、どうしようもなくなるなど――思いもよらなかった!


 別にリトリィがいなくなるわけじゃない。二度と会えなくなるわけじゃない。

 ただ、仕事のために一時的に離れる、ただそれだけなのだ。


 ――それだけ、なのに。


 そう――もう元に戻ることなど、自分は考えることすらできなくなっていることを、思い知らされたのだった。




 ひとしきり、一人で大騒ぎして、喉が枯れて、叫び疲れて――

 虚しくなって、ため息をついて、仕方なく体を起こして。


 ……よくもまあ、ここまで俺は、リトリィにおんぶにだっこになっちまったものだ。リトリィへの依存の程度がよくわかる。

 気を取り直して、放り投げたリュックから、彼女が焼いてくれたパンを取り出す。


『中身は、食べてからのお楽しみです』


 手ぬぐいに包まれた、その、分厚い束。

 なんだろう、中身とは。

 サンドイッチのようにも、ホットドッグのようにもなっていない、ちょっと厚めに焼かれただけの、何の変哲もない、ホットケーキのような種なしパン。


 ……そういえば、蜂蜜を練り込んだと言っていたか。ほのかに蜂蜜の甘みを感じられるとか?

 そう思って何気なく半分にちぎると、中にはベリーを使ったジャムが、ジャムパンのごとくたっぷりと詰められていた。


 山の家では、そのようなパンを出されたことがなかった。ただの一度も。

 街の食堂でも、屋台でも、そのようなパンを売っている様子は、少なくとも俺の見る限りではなかった。屋台によっては、パンを買うと同時に、並べられた壺から好きなジャムをぬる、というくらいで、パンの中に仕込まれているなどと言うのは見たことがなかった。


 ……あいつ、この世界でジャムパンを発明しやがったよ。

 きっと、俺が道中で調理などしなくてもいいように、できるだけ手間をかけずに食事を済ませることができるように、短い時間の中で知恵を絞ったのだろう。

 あの、以前、俺が味のないビスケットをもそもそと、延々と口の中で持て余し続けていた姿から、ジャムを練り込んだビスケットを思いついたときのように。


 リトリィが普段作っているものよりも、パンがだいぶ厚めだったのは、そういうことだったのか。


 俺のためにジャムビスケットを創り、サバイバルナイフを創り、そして今また、ジャムパンを創った。さらには、やはり見たこともないだろうノコギリ創りに挑戦する。


 必要に迫られて、ありあわせのモノからポンと新しいものを作り出す。

 なんという発想力なのだろう。

 そしてそんな女性が、なぜか俺を生涯の連れ合いに選んでくれた。


 ――俺に、をやれという、天啓なのだろうか。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る