第110話:きみにこたえるために
昼食からはそれなりに急いだつもりだったが、やはり前のときよりずっと早く一日目が終わってしまった。
とりあえず、枯葉を集めてクッションを作り、木にテントの端を括り付けるなどしてテントを設営する。
リトリィのサバイバルナイフに仕込まれたメタルマッチのおかげで、火をつけるのも苦にならない。
湯を沸かし、茶を作る。パンをかじり、茶をすすり、体を温める。
二つ目のパンの中身は、刻んだベーコンを炒めたものだった。熱い茶と一緒に食べると、口の中で脂が溶けて、ふわりと口の中でうまみがとろけひろがる。
あの時間のないなかで、こうやって一食分ずつ、工夫をしてくれた、リトリィ。
そう、そのすべては、俺のために。
俺は、なんという巡り合わせをしてしまったのだろう。これほどまでにきめ細やかな心遣いをしてくれる女性を、俺は知らない。
もう、彼女以外の選択肢など、考えられない。
単に、これまでの俺の巡り合わせが悪かっただけなのかもしれないが、リトリィ以上に素晴らしい女性との出会いなど、今後、ありえないのではなかろうかとすら思える。
たとえ方は悪いが、一念発起して課金したら一発で☆六の最高最強レアを引き当てた、みたいな。いや、この異世界への引っ越しは、課金どころか全財産を没収されたようなものだが。
――まあ、それで彼女と出逢えたというなら、うまく勝ち抜けたと言えるのだろう。あの笑顔、あのぬくもりのためなら、全てをなげうっても惜しくはないと思う。
ぬくもり、か。
そういえば、前回の一泊目では、「温かく過ごすため」と称して渡されたものが避妊具で、大いに焦った俺は、ついそれを谷川に投げ捨ててしまったんだったか。逆に、関係が進むことを期待していたリトリィを、それで拗ねさせてしまった。
今となっては笑い話でしかないが、あの瞬間は本当に焦っていたし、リトリィとの関係が進んでしまうことを恐れてもいた。
後戻りができなくなることを恐れ、また、他の男との差――肉体的な差、技術的な差――を
本当に馬鹿馬鹿しい心配事をしていたものだった。結果的に分かったことだとはいえ、二人とも
焚き火の炎は、湯を沸かすために燃やしていたときより、だいぶ小さくなった。
もうしばらく保たせておきたくて、やや太めの枝を二つに折ると、火の中に放り込む。
とろとろと燃える焚き火の、その真ん中に放り込んだ枝はやや太すぎたか、焚き火は二つに分かれたかのようになってしまった。
太めの枝によって、二つになってしまった炎の勢いはそれぞれに衰え、火は小さくなってしまう。
――おっと、消えちまうか?
小枝を足そうと思ったが、まあ、そのまま消えてしまうのもいいか、などと思いながら、ぼんやりと眺める。
二つに分かれた焚き火は、しばらくは枝越しに、届かぬ手をそっと差し伸べ合うように、ささやかに燃え続ける。
二つの炎は、やや太い枝という壁によって分断されても、なおちろちろと燃え続ける。
まるで諦めの悪い二人が、高い壁に手を伸ばし、かすかに相手を、その指先で確かめ合うかのように。
消えてしまうかと思われたが、しばらくすると二つの炎は、その枝を乗り越え、寄り添い、絡み合い――やがて枝を飲み込み、踊るようにして
無事、枝を燃料として取り込んだ焚き火は、その太い枝を核とするように、先ほどよりも大きな炎となる。
――やれやれ。
もうしばらくは、この焚き火、温かさを提供してくれそうだ。
一人寝の夜。
考えてみれば、この旅以前の俺は一人で寝ていたはずなのに、一人で寝る寒さを、どうやって乗り越えていたのだろう。あの半地下室自体、相当に寒かったし、実際に寒さに震えながらの毎日だったはずなのに。
隣にリトリィがいない。
たったそれだけのことのはずなのに、なぜこんなにも、耐え難い寒さを感じてしまうのだろうか。
テントの中は、二人で寝るには狭かった。
なのに、一人で寝るには広すぎるように感じる。
『ふふ、あったかいです、ムラタさん……』
あたたかかったのは、リトリィのほうだ。柔らかい毛布のような体毛、実際に高い体温。
なにより、その声、言葉、思いやりに溢れた心。
彼女が俺にくれたものは、あまりにも大きく、重く、そしてかけがえのない、「共に過ごす時間」そのものだった。
こうして、一人、リトリィと隔てられて過ごす時間の空虚さを噛み締めていると、俺の中で、あまりにも大きくなりすぎている彼女の存在に、戸惑う。
これまで何度もリトリィを拒絶したことがあった。
けれどもそれは、彼女のためだと自分に言い聞かせてきたことだ。そのためだろう、これほどまでに辛いと思ったことはなかった。
――そう、辛いのだ。
胸痛む思いはいくらでも味わってきたが、彼女を愛している、そう自覚してからのこの隔絶は、あまりにも慈悲がない。親父殿を恨みたくなる。
分かってはいるのだ。
リトリィももちろん苦しいだろう。
親父殿にしても、リトリィを突貫で鍛冶屋に仕立て上げるために、心を鬼にして、今も彼女をどついているだろうということも。
俺が今感じている孤独も、ただの一時的な感傷にすぎないということも。
だからこそ。
だからこそ、俺は堪えなければならないのだ。
やがてリトリィは、最後の修行を終えて、誇らしげに成果物を納めに来るだろう。
俺はそれを受けとり、そして彼女をねぎらってやらなければ。
あの家で鍛冶師を続けるという選択肢を捨て、俺のために山を下りるリトリィを失望させないためにも、俺は俺で出来ることを進めておかねばならない。
彼女を愛しているからこそ、今は耐えて、するべきことを成し、俺という人間ができることはこれだ、ということを示さねばならないのだ。
寒い。
じつに寒い
一人寝に、この寒さは厳しい。
我ながら、二十七にもなってなんと女々しい限りなのだろう。
だが、リトリィは、俺という男の価値を認めてくれたのだ。
俺は、リトリィに認められた男なのだ。
だから、それにこたえるのだ。
二日目。
ようやく滝にたどり着いたときには、日も中天をすぎるあたりというころだった。少し遅くなったが、昼食にすることにする。
あいかわらずの絶景だ。今日は
とはいえ、一昨日、ここからの風景を共に楽しんだ彼女は今、おそらく工房で懸命にハンマーを振るっていることだろう。そう考えると、素直に楽しめなくなる。
おまけに、一昨日はぽかぽかとした陽気で、彼女の温もりを感じながら愛を確かめ合った場所だというのに、今日は一人きり。そして小雪のちらつく曇天であるというのも、ふさぎ込むにはもってこいのシチュエーションだ。
帰ってくるときの、滝の上での野性味ほとばしる情交が鮮烈すぎたからこそ、いま一人でいる――リトリィと隔てられてしまっている自分を、これまた強烈に意識してしまう。昨夜の、耐える、という決意も、実感してしまう孤独に、つい揺らいでしまうのだ。
パンの中身は、おそらくたっぷりの蜂蜜を練り込んだフレーバーバターだった。ふさぎ込みそうになる気持ちを、濃厚な甘味が引っ張り上げてくれる。リトリィがそっとそばに寄り添って、励ましてくれているかのように。
このパンは、今までのパンと違って一度割った跡があった。おそらく、バターを入れたまま普通に焼いたら、溶けて染みだしてしまうと考えたのだろう。
焼き上がったパンを割き、冷ましたうえでバターを中に詰め、そして開口部をつぶすようにして閉じたのだ。単に試してみただけでなく、ちゃんと考えて作っているのがよくわかる。
種なしパンだから、生地を練ったあと、大して時間を置かずに焼いているはずだ。つまり、パンの中身について考える時間も、用意する時間も、ほとんどなかったはずである。にもかかわらず、昨日から中身が被っていない。
あの短い時間の中で、リトリィに、ここまで
なんという思いやりだろう。
なんという重い愛だろう。
自分で自分の価値を高く見積もるというのは気が引けるが、つまりそれだけ、俺は彼女に愛されているということだ。それは同時に、それだけの期待をしてくれている彼女を失望させてはならない、という、俺自身に深く埋め込まれたアンカーボルトのようなものでもある。
こんなところで腐っていたって仕方がない。一人で寂しいのは俺だけじゃない。
昨日の朝、出発が決まってからずっと涙を目に浮かべ続けていたリトリィだって、寂しいはずなのだ。
やるべきことをすすめ、そして彼女が頑張った証を受け取って、彼女を、心から、精いっぱいねぎらってやらなければならない。
そのノコギリは、きっと俺を助けてくれるだろうし、ジルンディール工房製の珍しい工具は、もしかしたら俺という存在を売り込むために有利に働くかもしれない。
フードを目深にかぶり直し、ちらつく雪の増えた山道を進む。うまくいけば、麓の森にたどり着くまでは、行けるかもしれない。
彼女が準備してくれた蜂蜜飴を二つ、口に放り込む。一つかみほどあった飴は、もう半分ほどに減った。
今回の旅、荷物が前よりも増えているのになんとか歩けているような気がするのは、おそらくこの飴のおかげでもあるのだろう。
適切な糖分の摂取が、疲労を軽減してくれているに違いない。あの時間のない中、ここまで心を砕いてくれたリトリィには、感謝しかない。
リトリィのぬくもりは、今の俺の傍らにはない。
けれど、リトリィのぬくもりは、形を変えて俺を包んでくれている。
ならば、俺は彼女の期待に応えなければならない。
俺は、母の留守を待つ幼児ではない。やるべき仕事を持つ、プロの端くれだ。
街では、ペリシャさんをはじめとした奥方が、俺たちの帰りを待っている。
一日でも小屋を完成させる、それが俺の仕事だ。
そう、君にこたえるために。
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