第111話:魔狼

 地面に傾斜がなくなったことに気づき、いよいよ麓の森にたどり着いたのだと実感したときである。

 ふと、視界の端に青白い光がふっと横切ったのに気が付いた。

 何の気なしにそちらに首を回し――ぎょっとした。


 薄暗い森の奥――そこに、巨大な狼がいたのである。


『昔、いたんだよ。魔狼まろうと情を交わした男がよ』


 親父殿の言葉がよみがえってくる。


『眉間に青白く光る一本の角を持っていてよ、青白く光るたてがみが、頭から尻尾の先まで流れる、でけぇ狼だ』


 森の奥にいるというのに、遠近感の狂う大きさ。

 額には青白く光る、まっすぐな鋭い角が伸びていて、そこから背中に、まるで光る蛇が背中を這っているかのように、おそらく尻尾まで、光るたてがみ? が伸びている。


『ここらの狼は人を襲わねぇよ』


 だが、所詮は野生の獣だ。

 万が一。

 万が一、空腹であったなら。


 熊なら、目を合わせたら、あとはゆっくり目をそらさずに後ずさるのが効果的だと聞いた事がある。走って逃げようものならかえって追いかけてくるから、絶対に目をそらさずに後ずさりするのだと。


 では、狼は。

 狼は、どうしたらいい?


 思わず固まってしまった足を、必死に動かす。

 あってしまった目をそらさず、少しずつ後ずさりするように、道にそって移動する。


 狼は、動かない。

 じっとこちらに目を合わせたままだ。


 徐々に、本当に少しずつ距離を取ることができている――ような、気がする。

 しかしあの大きさだ、本気でこちらを追跡しようと思えば、あっという間に追いつかれてしまうだろう。

 あの巨体、食いつかれたら一口で真っ二つになりかねない。

 絶対に目をそらさず、しかし、決して転んだりしないように、慎重に――


 そして、ふわふわの毛の壁に、ぶつかるのだった。




「――え?」


 思わず振り返り、そして見上げた先で。

 そいつは、俺を、じっと見下ろしていた。

 美しく青く輝く伸びた角を額にもち、そしてその額を覆う、青く輝く毛並みは、そのまま背中に繋がっている。


 森の奥にいたものほどは大きくないが、それでも、俺をだけの大きさを持つ存在。

そいつが、道をふさぐように座り込み、そして、俺を、その青い瞳が、見下ろしている。


「ひっ――!?」


 思考が停止する。

 前門の虎、後門の狼などということわざがあったが、狼に挟み撃ちにされている俺は、つまりどう表現されるのだろう。

 しかも、一噛みで真っ二つにされそうな、この巨大な狼の、その口元に今いる自分は。


 何をすればいい?

 どうすれば助かる?


 走る?

 死んだふり?

 いっそぶん殴る?

 それとも、食べ物を投げて気がそれた瞬間に逃げる?


 頭の中でぐるぐると同じような自問自答が駆け巡り、しかしどう行動したものか、まったく結論が出ないのがおそらく一瞬の間。

 狼はこちらをじっと見つめていたが、やがて、口を開いた。


『おまえは、ライトか?』


 ――しゃべった!?

 狼が、しゃべっただと!?

 こちらが驚愕のあまり返事ができないでいると、狼は少々、困ったような顔をした。


 ――狼の困り顔なんて分かるかっ!


 じゃあなんでわかるんだとセルフツッコミをして、リトリィを思い浮かべる。

 あれか。

 リトリィで鍛えられたから、同じ犬の顔をしている狼の表情も分かるようになったってか。

 ――知るか!


『我に触れていれば言葉は通じるはずなのだが。おまえは、ライトか?』


 もう一度問うてきた言葉で確信する。この言葉は、狼が発している言葉なのだと。

 しかし、ライトとは何だろう。

 ライト――光? 軽量? あるいは、何かの名前?


『ライトではないのか? 我が父ライトではないのか、その黒髪は。帰って来たのではないのか?』

 

 父。

 父――つまり、自分を、父親だと、言っている?

 狼が、人間の俺に対し、自分の父親かと聞いている。

 ――どういう意味だ?


『母は――我が氏族の始祖となったハナは、ずっと待っていた。その黒髪は、ライトではないのか』


 繰り返される狼の問いに、思わず「違う、ムラタだ」と答えてしまう。


 ――しまった! 馬鹿正直に違うなんて言ってしまったら!


 求めるものと違う

 →不要

 →いただきます


 ――なんてことになりかねない! 俺はなんて馬鹿な――!


『――ちがうのか? 母が懐かしい匂いだと言ったのに』


 ぐばっ

 狼の口が開かれる。

 ――食われる!?

 おもわず顔をかばうように手を挙げたとき――


 ふわり、と、自分のそばに、何かが舞い降りてきた。


 まるで重力を無視するかのように、音もなく降り立ったそいつは。

 いま、自分と会話していた狼よりも、さらに巨大な狼だった。

 さっき巨大狼を見かけた奥の方に目をやると――いない。

 つまりこいつは、俺がさっき見た、森の奥にいた奴なのだろう。


 背後にいる狼と同じように、角は青白く輝き、その額から尻尾の先まで、ひと繫ぎの青く輝く毛並みが、背中を伝って伸びている。

 ただ、その輝きは、俺の背後の狼のほうがずっと美しく、ずっと鮮やかに光り輝いている。巨狼のほうが「母」と呼ばれていた狼なのだとしたら、年経た関係で、毛のツヤが失われているのかもしれない。


 巨大なその狼は、青い瞳で俺を見つめると、俺の胸に鼻面を押し当て、ふんふんと匂いをかぐような仕草をしてきた。

 リトリィがいつも俺にしているあの仕草と、同じだった。


 しばらく匂いをかいでいた巨大狼は、ふっと表情を緩め、顔を上げる。

 なにか、なつかしいものを見たような――なつかしさで胸がいっぱいになったような。

 そんなうるんだ瞳に見えるのは、気のせいだろうか。


 狼はもう一度、俺の胸に鼻を押し当て匂いをかぎ、そして、


『……すまないね。人違いさね』


 話しかけてきた。


『わたしの想い人によく似た、懐かしい匂いを感じたのだけれど――あの人なら、わたしを見たら、きっと“かわいいハナちゃん”と飛びついてくれただろうからね。匂いも、おそらく同郷というだけで、違うようだ』

「同郷――?」


 まて、同郷ってどういうことだ。

 俺は日本人。俺と同じ故郷の人間など、この世界には――少なくとも、この土地にはあと、瀧井さんしかいないはずだ。

 ……それより「かわいいハナちゃん」って、なんだ?


『今、ニホンと言ったね? あのひとのふるさと……。懐かしい言葉、おまえさん、ニホンからきたのかい?』

「おまえさん、ということは、その――ライトってやつも、日本から来たっていうのか?」


 狼の寿命がどれだけなのかは知らないが、母、と呼ばれた存在が「懐かしい」と言っているのだから、そのライトとかいう日本人とは、十年かそこら前にでも会ったということなのだろうか。


 ひょっとして、実は結構、頻繁にこの世界と日本は繋がっているのか?


『ほんの少しだけ行ってくるだけだから、また帰ってくるから――そう言って、あの人は帰ってしまった。もう、百年も前になる……』


 ――百年! 狼のくせに百年!! 十年の間違いじゃなく!?

 というか、いま「帰ってしまった」と言ったよな!?

 そいつは、日本に帰ったっていうことか!?


『――ああ。裂け目に落ちたシルゥを追って、ニホンに帰ってしまった……。

 わたしもついていきたかった……。子供たちのためにはしかたがなかった、だが今でも悔やむ、あのときの選択を』

「シルー? シルーっていうのは?」

『ライトに仕える騎士だった……。我と、想い人を取り合った、人間の娘だ』


 騎士――人間の、娘。

 騎士と、魔狼。

 ――ん? この組み合わせ、どこかで、聞いた?


『すまないね……人違いだった。怖がらせたことを、詫びよう。だが、懐かしい匂いであのひとを想い出させてくれたこと、感謝する。この礼は、またいずれきっと――』


 巨狼は、そっと身を引く。


 今さら気づいたが、この狼の目元が濡れている。

 ――泣いている? 狼って、涙を流して泣くのか?

 そう考えて、しかし、思い直した。

 いま、話をして分かった。ケモノにも感情はあるのだ。


『お母様、もういいのか?』

『いいんだよ……人違いだったのだから』


 この狼の言葉を信じれば、百年もの間、待っている相手がいる。

 俺とそいつとの間にどういう関わりがあるのかは知らないが、すくなくとも、この巨狼は似た匂いを感じ取ったのだろう。


 百年前というと、明治時代くらいだろうか? 明治の人間と俺との間に関わりがあるとは思えないし、日本的な匂いを感じただけで、血縁関係があるわけでもないようだ。

 ただ、百年ぶりの再会を思い浮かべて、しかし違ったとなれば、その絶望は推して知るべしだ。

 むしろ取り乱したりせずに諦めてみせるとか、礼を言われるとかされると、なんだか申し訳ない気持ちになる。


 ……いや、俺にもどうしようもないことなんだが、くるりと背を向ける二頭の背中が、なんだか寂しげに見える。


『……そうだ、ムラタ、といったか』


 一度背を向けた老狼が、首だけこちらを向けた。


『先日同道していたあの娘……我に、おまえさんの所有を訴えた、山の家の娘だ』


 リトリィのことらしい。

 そういえばあのとき、彼女は、この巨狼が、自分のことを知っているはず、と言っていた。百年も生きているのなら、この巨狼は、山に関することはほとんど知り尽くしているのかもしれない。

 ――リトリィが、どうかしたのだろうか。


『よい娘だ……我に臆することなく、おまえさんを自分のものだと堂々と示した、あの度胸……。同じ狼――同じ雌として、感じ入るものがあった。大切にして、これからもよく励むといい。我のように、きっとよいを産むだろう』


 そして狼たちは、森の奥の方――巨狼がもともといた方に向かって、大きく飛び跳ねながら行ってしまった。


 ……自分が愛する女性が褒められるのはうれしいが、狼に褒められても、なんだか微妙だ。いやまあ、嬉しいことは間違いないんだが。

 だが、それよりも。


「同じ、……?」


 ……リトリィが?

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