第542話:天命と役割

 整えられた庭園を、リトリィがナリクァン夫人と共に散策する。

 嬉しそうに花の前でしゃがみ、こずえのつぼみに感嘆の声を上げ、噴水の水に指を浸しては楽しそうに笑う。


 ……ああ、彼女だって、こんなに無邪気な姿を見せることがあるんだ。

 そういえば以前、ゴーティアス婦人のところで仕事をしたときも、立派な庭があったし、それをとても楽しそうに眺めていたっけ。


 礼儀正しく、慈母のような微笑みを絶やさず、常に控えめでありながら夜は娼婦のように淫らに迫り、時に凛として譲らず、理不尽には毅然と立ち向かい、気丈に振る舞う――それが俺の妻、「いつもの」リトリィだ。


 だが、今こうして目の前で、草花と戯れているリトリィを見ていると、なんだかそういった「本来のリトリィらしさ」を、俺は押し殺しさせてしまっているのではないかと思ってしまう。


 ひょっとしたら、リトリィは俺のそばにいるために、自分が本当にしたいことをできないでいるのではないだろうか。

 俺のそばにいることは、彼女にとって本当の幸せに繋がっていないんじゃないだろうか。


 ――あんなにも無邪気なリトリィを、俺は果たして今までに見たことがあっただろうか?


 つい、そんなことを考えてしまい、胸に痛みが走る。

 彼女は俺のそばにいてくれる、それを幸せだと言ってくれる。

 でも、そのために我慢していることがあるのだとしたら、それは、本当に幸せだと言えるのだろうか。


 何かを手に入れるために、何かを諦める――妥協することは、よくあることだ。なんでもかんでも、思い通りにひとは生きられるわけじゃない。

 それは当然のことなのだろうが、ことリトリィに関しては、どうにも割り切れないのだ。まだ俺たちが山にいたころ、俺のくだらない思い込みで彼女を振り回し、長く悲しませ、苦しめたという自覚があるから――


 ぐるぐると負のイメージに沈みかけていたときだった。

 背後に控えていた黒服の男が、俺の肩にぽんと手を置いたのだ。


「あまり欲をかくな」


 強面こわもての黒服が、いわおのような表情を崩さないままにそんなことを言われると、なかなか背筋が寒くなる。


「……欲をかくな、とは?」

「自分は主人にお仕えするようになって長いが、色々な人間が主人のもとにやってきては、浮き沈みしていった」


 なにかを思い出すように遠くを見ながら、黒服の男は静かに続けた。


「沈んでゆく者というのは、たいがいが欲をかきすぎた者だ。我が主人のそばにいることで己の力量に過大な自信を抱いてしまった結果、どうにもならずに、自身の抱いた過大な欲に押しつぶされていった」

「欲に、押しつぶされ……?」

「人間は誰しも、自身の力で成し遂げられること、どうしても自身の力では届かないことがある」


 黒服は、楽しげなリトリィを見守るように微笑む夫人を見つめながら続けた。


「今、手に届かないことは、今の力ではまだできないだけのことなのかもしれない。そうではなく、できぬこととして天命で決まっているのかもしれない。だが、それを見通すことは、矮小わいしょうな人間たる我々には難しいだろう」


 黒服は、ふっと表情を和らげてこちらを見た。


「お前も今、手の届かぬ何かに焦がれるような顔をしていた。何か思うことはあるのだろう。今、足らぬこと、今、手が届かぬこと――それは天命としてできぬことなのか、それとも、今の自分に足りぬものを満たせば手が届きるのか。それを切り分けることが肝要だ」


 強面こわもての黒服男からそんなことを言われるなんて、思ってもみなかった。


 あらためてリトリィを見る。

 彼女は今、花壇の前でしゃがみこんでいた。そこは花が咲いていなかったが、リトリィはまだ小さな緑がまばらに生える花壇を指差しながら、ナリクァン夫人と何かをやり取りしている。

 しっぽが大きく左右に振られていて、とても楽しそうだ。


「……子供みたいだ」

「我が主人はジルンディール様と懇意ということもあって、リトラエイティル嬢のことも孫のように可愛がってこられた。当然だろう」


 俺は家で、彼女のあんなに無邪気で楽しそうな姿など見たことがない。

 マイセルと楽しげに料理を作ったり、刺繍をしたりする姿は確かに見るけれど、あのような姿は見られないのだ。


 俺の妻としての立場に恥じぬ姿を示すため?

 マイセルやチビたちの姉たる立場にふさわしくあろうとするため?


 そういえば、リトリィは母親を知らないのだ。母親代わりに彼女を育てたジルンディール親方の奥さんも、何年か前に亡くした。以後、彼女はずっと親方の奥さん――母親がやってきたことを引き受け、山の家を切り盛りしてきた。


 つまり、彼女は、甘える相手がいなかったんだ。自分を一人の少女として甘えさせてくれるひと――それがナリクァン夫人だということなのだろうか。


 だとしたらどうあがいても、あの家にいる限り彼女の無邪気な姿を引き出すことなんてできないじゃないか。うちでは、彼女はずっと「頼れる大人の女性」扱いなのだから。


「それでいいのではないのか? だからこそ、我が主人を祖母のように慕い、あのように甘えることができるのだろうに」

「……だからこそ、というのは?」

「いつもいつも身近にあるものではないからこそ、たまにはああやって羽を伸ばすように楽しめるのではないか? なんでも自分ができるなどと思わないことだ」

「それはそうなんだけどな……。あんたは、大切なひとにとっての一番になりたいって思わないか? ささいなことであったとしても」

「思わんな」


 黒服はあっさりと言った。つまらない話を切り捨てるように。


「今も言っただろう、我が主人の立ち位置は彼女にとっての祖母のようなものだと。お前は自身の立場を何だと思っている。ひとは自身に与えられた役割をまっとうすべきだ。他者の天命をうらやんで成り替わろうとしても、いずれ必ず破綻はたんするだろう」

「……自身に与えられた役割、か」

「リトラエイティル嬢は、お前との未来を望んだ。我が主人に、お前という男はふさわしくないと明言されてもなお、だ」


 ……多分、あの時の話――リトリィが奴隷商人にさらわれる直前のころのことだろう。


「あの夜の憔悴しょうすいしきった姿は見ていて痛々しかったが、それでも彼女はお前を選んだ。寸毫すんごうも迷うことなく、真正面から我が主人の言葉を否定したのだ。それほどまでにお前は彼女に慕われている。些事さじまどうな、今の立ち位置で満足しておけ」


 その時、黒服が何かに気がついたようだった。

 どうもナリクァン夫人に何かを言われたようだ。

 小さくうなずくと、俺に向き直った。


「奥様のお呼びだ。いつまでもお前がこんなところでぼんやりしているから、痺れを切らされたのだろう。行ってこい」




 駆け足で向かうと、夫人はにっこりと微笑んだ。


「お昼を準備させています。あと半刻ほど経ちましたら館にいらっしゃい。そこで一緒にいただきましょう。それまでは、わたくしの庭を楽しんでいってちょうだいな」


 そして、交代だと言わんばかりに俺と入れ違いに館に戻って行った。すれ違いざまに、「遅かったですわね」と、少々怖い笑顔でささやいて。




「……リトリィは、花が好きなんだな」

「はい、好きです」


 リトリィが、花開くような笑顔で答える。思わず「そうか、綺麗だもんな」と相槌を打つと、リトリィは「はい!」と俺の手を取った。


「ナリクァンさまに庭のこと、いろいろと教えていただきました。お昼をいただく時間までもうすこしあることですし、見て回りましょう? だんなさまはお花、お好きですか?」

「そうだな。やっぱり、綺麗な花かな。大きくて自己主張の強い派手なやつよりは、楚々とした可憐な花がいい」


 そんなことを、リトリィを見て、リトリィを思い浮かべながら答える。


「ふふ、こんなわたしをえらんでくださった、だんなさまらしい好みですね。なにか、お好きな花はありますか?」


 ……問われて困った。花と聞かれて真っ先に思い浮かべたのは深紅のバラだけど、今しがたそういう花は好きじゃないと言ったようなものなのに、それを真っ先に挙げるってどういうことだよ俺。口から出まかせを言っているのがバレバレじゃないか!


 かといってあまり長く悩んでいても口から出まかせだと悟られそうだ。リトリィは俺の好みが知りたいだけなんだ、なにも深く考えなくても、「嫌いじゃない花」を挙げれば、それが何であっても喜んでくれるはずだ。

 それが、俺の果たすべき役割なのだから。


「……そうだな。スズラン……とか、かな? 家にあるシェクラも好きだけれど」

「スズラン、ですか?」


 リトリィが、俺の顔を覗き込むようにする。

 ……しまった、ひょっとしてこの世界には無いとか?


 一瞬、言い直そうかと思ったが、その前にリトリィがにっこりと微笑んだ。


「スズランですか。私も大好きです。あの小さくて、下を向いた白くて丸い花が可愛らしいですよね」


 嬉しそうに答えるリトリィの姿に、俺も胸を撫でおろす。よかった。リトリィの口ぶりだと、こちらにもほぼ俺の思い浮かべるイメージと似た形で存在するんだな。助かった。


「スズランがお好きなのでしたら、こちらにいらしてください! このお庭にも、スズランが植えてあるんですよ?」


 はしゃぐリトリィに手を引かれ、俺はナリクァン夫人の庭園の中をあちこちと歩き回る羽目になった。


「ほら、こっちこっち。こちらです」


 リトリィに引きずられるようにしてやってきたのは、爽やかないい香りの、色とりどりの花が植えられた寄せ植え花壇だった。その一角に、確かにスズランらしき花があった。


 ……スズランといっても、俺の知っている真っ白なスズランではなく、やや大きくて、花の根元辺りが桜色のものだった。

 でも、確かに、スズランと言われればスズランと言えた。


「ふふ、あなたがスズランっておっしゃったとき、ちょっと意外でした。だって、男のひとって、もっと派手で大きな花がお好きでしょう?」

「……さっきも言ったけど、派手な花よりは、淡い色の、楚々とした感じの花のほうが好きだな」


 俺が答えると、リトリィはまた笑顔になった。


「そうでしたね。ふふ、いつもひかえめな、あなたらしいおこのみだと思います」

「いつも控えめなのは、君だろう?」

「そんなこと、ありませんよ?」


 そう言って、リトリィはそっと、体を寄せてきた。


「わたし、いま、むねがとってもどきどきしています。あなたのこと、ひさしぶりに、ひとりじめにしてる気がして――」

「……リトリィ?」

「ほんとうなら、いまもあなたはお仕事中なのに……。こうしてあなたをひとりじめにしちゃっていること、いけないって思うのに……」


 そう言って、少し潤んだ目で、俺を見上げる。


「……でも、でもあなたとこうして、ひさしぶりにふたりきりでいられるのが、うれしいんです。ひかえめなんて、わたしは、そんな――」


 皆まで言わせなかった。

 結婚式以来だろうか。日の光の下で、彼女の輝く黄金きんの毛並みを堪能しながら、彼女の薄い唇をむさぼるように重ね、舌を絡め合わせる。


 こんなにも、俺のことを思ってくれている女性がいる。

 『ひさしぶりにふたりきりでいられるのが、うれしいんです』だなどと言わせてしまうなんて。


 最初は恥じらってみせた彼女が、俺の背に手を伸ばしてすがりつき、しっぽまでも絡めてくる。

 ――ああ、涙まで浮かべて。

 すまない。

 寂しい思いをさせて。


 愛してる、リトリィ……!

 

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