第541話:知と幸せと

 今日の「幸せの鐘塔」工事の昼食はマイセルとニュー(&フェクトール公の愛妾としての地位を確立したミネッタさん)に任せ、孤児院の修繕はリファルの指揮に任せて、俺たちがどこにいるかといえば、

 ――ナリクァン夫人のお屋敷だ。


「……それで? わたくしを説得できる理由を見つけたのかしら?」


 どこか、今の状況を楽しんでいるかのような表情の夫人。「目的のためならば手段を選ばない」というナリクァン夫人の恐ろしい一面を知っているからこそ、どうしても威圧されがちな俺だが、今は強力な味方がいる。

 そう、リトリィだ。


「お久しゅうございます、夫人」


 リトリィがスカートを広げてみせながら、膝をつかんばかりに腰を沈め、静かに挨拶をする。

 夫人はそれを見て、実に満足気にうなずいた。


「まさか、わたくしがお気に入りの娘の前でなら甘い判断をする――そんな姑息な話ではないことを祈りますわ」

「ふふ、わたしの夫はそんなひとではないということ、夫人もよく分かってらっしゃるのではありませんか?」


 うおっ⁉ リトリィがそんな返しをするとは!

 驚いてリトリィのほうに振り向くと、ナリクァン夫人が小さなため息をついた。


「……夫をよく盛り立てるように――よく理解しているようですね。リトリィさん、貴女は合格です。それにひきかえ、ムラタさん。貴方はせっかく自分の妻が上手く切り返したというのに、それを台無しにする狼狽ぶり。見ていて情けない限りですよ」


 あんたのせいだっ! いやそんなこと絶対に面と向かって言えないけど!




「……なるほど。健康は、たしかに誰もが求める価値でしょうね」


 ナリクァン夫人は落ち着き払った様子で、ティーカップを傾けた。


「ですが、それは本当なのですか? カビが目に見えないほどの細かな種を飛ばし、その種を吸い込むことで胸を病むなど……」


 聞いたことがない、と夫人は首を振る。


「……それは、ニホンではよく知られたことなのですか?」

「多くの人は、カビの害を知っています。日本は雨が多く、そして気候も温暖なのでカビも生えやすい国です。家族の健康を守るために、家を守る多くの女性たちにとって、カビ対策は比較的関心が高い事柄ですね」


 ナリクァンさんはカップを戻すと、後ろに控えている黒服男に何か話しかけた。黒服は首を小さく横に振る。

 夫人は小さくため息をつくと、仕方ない、といった笑みを見せた。


「貴方の口からニホンを持ち出されると、どうにもこちらとしてはやりづらいですわね? でも……」


 夫人は、黒服が持ってきた白い布をテーブルに広げた。

 ――以前にも、見たことがある!


「……なるほど。これを使って、以後の俺の発言が本当かどうかを確かめようというのですね。いいでしょう。これで私の言葉を信じていただけるなら、願ったり叶ったりです」

「なにをおっしゃっているのかしら?」


 いや、これは嘘をつくと黒く染まっていく魔法陣だったはずだ。以前、俺が前ギルド長をやり込めるときにも使わせてもらったものだから、覚えている。

 夫人が俺の言葉を信じられないというのは想定内だ。なにせ生きてきた世界が違うのだから。むしろこれが、俺が偽りを述べていない担保になる。


 ところが、夫人はテーブルに広げたそれを指して、苦笑いを浮かべてみせた。


「それは確かにそうなのですけれど、少し話が違いますわね」

「話が違う?」

「この話し合いが始まる前から、これはずっと効力を発揮しているのですよ?」


 そう言って、夫人は俺と魔法陣の書かれた白い布を、交互に見比べてみせる。


「どうしてこう、見事に真っ白なのかしらね? 話を盛ったり大袈裟に言ったり、それくらいはしてもいいでしょうに。なぜそういったことすらしないのかしら、貴方という人は」

「それが、わたしのご主人さまですから」


 にこにこして答えたリトリィに、夫人がふっと笑う。


「……あなたも、面倒なひとを主人に据えたものね」

「そうでもありません。いつもわたしのことを本音で愛してくださるかたにお仕えできるのですから。わたしは、毎日がとてもしあわせです」

「このわたくしを相手にそれだけ惚気のろけられるのですから、貴方の想いは筋金入りですわね」

「はい。すべてはナリクァンさまにいただいた教えのおかげです」


 ……なんだか、穏やかに見えてバチバチさや当てをやっているようにも見えるのは、俺の気のせいだろうか。


「ですから、ナリクァンさまにもムラタさんのお話をよく聞いていただきたいと思っています」

「……これまでの話に一切の偽りがないのは、これを見れば分かりますよ」


 夫人はテーブルの上の魔法陣の布を指して、微笑んだ。

 ……つまり、これまでの話でも効果を発揮していたのに全然黒くならないので、ある意味であきれられた、ということか。

 ――いや、ナリクァン夫人相手に話を盛るとか、あとが怖くてできないよ!


「ですが、カビの種が病の元になるなど聞いたこともありません。もしそれが本当なら、カビの多い家に住む者は、体にカビが生えるということでしょうか? わたくしはそのような話など、聞いたことがないのですけれど」

「カビそのものが体から生えるわけではありません。私も医者だったわけではありませんから、一般人としての知識で申し訳ないですが――」


 俺は、できる限り自分の知っている知識を話した。

 幸い、日本には学校で学んできたことや健康に関するテレビ番組、人体をひとつの都市のように見立てて働く細胞を擬人化した漫画など、様々な情報源があった。

 それらの情報のなかで、信頼性が高いと思われる情報をピックアップして伝える。


 といっても、夫人に言った通り、俺自身は医者だったわけでもなんでもない。ただの二級建築士だ。そのため専門的なことは言えなかったが、こんな病気がある、ということを伝えることに注意を払った。


 体が健康を保つために、病気の元と戦う仕組み。

 その暴走であるアレルギーと、アレルギーを引き起こす各種アレルゲン。


 土壌やハトなどの野鳥のフンに含まれる菌による、健常な人にも感染する恐れのある真菌症。

 老人や慢性病を抱えて免疫が低下しているときに罹患しやすい真菌症。

 そして、水虫を代表とする白癬はくせん菌感染症。


「まあ……。水虫もカビなのですか!」


 何に食いついたかって、水虫がカビの一種だって話だ。庶民と違って金持ちは靴を履くため、一種の金持ち病のような扱いをされているらしい。

 なるほど、この世界でも靴を履く人間は水虫とは無縁ではないということか。


 ただ、残念ながら俺は病気や症状を伝えることはできても、治し方を説明することができない。


 カビは真菌、つまり抗生物質が効く。だが俺は青カビから採れるペニシリンという物質があるということを知っているだけで、その抽出方法など知らない。医者が江戸時代にタイムスリップする漫画で作っていた気もするが、その複雑な工程なんてはっきりとは覚えていない。


 だから俺にできるのは、感染しないように自衛する方法を説明することだけだ。

 日本ならば治療の選択肢がいくらでもあるのに、この世界では病の原因が分かっても、水虫一つ治すことができないのだ。


 知識があっても、ひとを幸せにできない。なんとも歯がゆい思いだが、それが俺という人間の限界なのだろう。


 ……待てよ? この世界にはいわゆる魔法――法術があった。

 法術ならそれで治せるか? いわゆる回復魔法ってやつなら……!


「ところで、もの知らずを晒すようで恥ずかしいのですが、この街では使えない法術というものならば、原因がわかれば病を治すこともできますか?」

「……法術で治せる病というのは、ごく限られたものですわ。わたくしが元いた土地でも、基本的に怪我は治せても、病はほとんど治せないものでした」

「治せる病というのは?」


 俺の質問に、夫人は力なく笑って首を振った。


「ある、ということを聞いたことがあるだけで、わたくしが目にしたことはありませんわ。大変高度な術であるとしか。貧乏男爵家程度の者には、縁のないものだったのでしょう」


 ……いやいや! 領地持ち貴族に縁がないなら、そりゃもうほとんどのひとには縁のないモノだってことだろうし、それなら実在だって疑われるレベルかもしれない。

 こう言っては何だけど、信仰を集めるために「ある」とだけ言っておく奇蹟のようなものなのかもしれない。穿ちすぎかもしれないけれど。


「……なるほど。法術でも、基本的に病気を治すことはできないんですね」

「そうですわね。天が定めた試練なのでしょう」


 ……ますますもって、健康と安全を保つ意味が重要になってくることを思い知らされた気分だ。


「ならば、今お話をしたこと――健康を維持するための環境づくりが、いかに大切であるかがご理解いただけるのではないでしょうか」

「……そう、ですわね」

「だからこその、環境の改善です」


 孤児院の壁――漆喰を一度剥がし、アルコール消毒等を経て塗り直すことでカビを抑え、気管支喘息を患っている子供たちの症状がもし改善すれば、それは間違いなく宣伝につながるのではないか――それが、昨夜、リトリィたちと共に考えたことだ。


 ナリクァン夫人は、俺に協力する気がないわけじゃない。

 夫人は言った、自分を納得させることができるかと。

 つまり、商会の利益になるような根拠を示してみせれば、協力してくれるのだ。


 知は力なり。孤児院の壁を塗り直し、カビを抑えることで病気の発生を抑えることができると示すことができれば、新たな商売の種になる。

 壁紙を貼ってごまかすのではなく、病の元を絶つという新しい発想で、「リフォーム」という新しい需要を掘り起こすのだ。


 リフォームができるのはやはり金持ちだけだ。庶民には縁遠い話だろう。

 だが蒸留酒はあるのだ。その技術を利用すれば、日本でよく使われていた濃度七十五パーセントという消毒用アルコールのレベルに高めることもまた、可能なはず。

 そこに、「消毒」という新たな需要を起こすことができるのは間違いない。出産で命を落とす女性も多いと聞くから、消毒は間違いなく需要があるはずだ。


「……孤児院の補修を、その代表事例とするわけですね? お年寄りが胸を病むというのはよく聞くことですし、誰しも健康に、かつ長く生きたいと思うもの。新しい需要の開拓――夫の好んだ冒険ですわね」

「大きなお金の動くことですし、それがどれほど商会の利益になるかは分かりませんが、しかし眠っているだけで、確実に掘り起こせる需要だと思っています。それに、壁の塗り替えとまでいかなくとも、濃度の高い酒精でカビを退治できることを広めれば、街の衛生環境の向上にもなり、ひとびとの幸せな暮らしに繋がります」


 俺の言葉に、夫人の目が一瞬、険しくなる。

 ……しまった、たしか夫人の旦那さんが、商売を通してひとびとを幸せにする、とかいうのを口癖にしていたんだっけ。


 ――嫌な地雷を踏んでしまったかもしれない!

 一瞬焦ったが、夫人はすぐに、表情を和らげた。


「……なるほど、ひとびとの幸せに……ですか」

「そ、それから酒精の濃度にも、よく効く値というものが存在します。もちろんそれを商会が独占的に扱えば、大きな利益を得られるでしょう」

「そうなのですね。本当に、ニホンという国は大した国ですこと。どうやってそのような知識を蓄えたのでしょう、きっと誰もが、幸せに生きているのでしょうね」


 どっと噴き出してきた嫌な汗を拭きながら続けた俺に、夫人は笑ってみせた。


「あらあら。何を焦っているのかわかりませんが、それでもなお、この魔法陣が真っ白ということは、少なくともやっぱり偽りはないのですね。どこまでもまっすぐなかたですこと」


 からかうように言った夫人だが、しかし、最後には真面目な顔に戻って、約束してくれたのだ。


 ――孤児院の壁の補修、その資金面でのバックアップを。

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