第543話:二時間の「ご休憩」

 結局、彼女との散策に使われるはずの時間は、二人でしっとりと、木の陰で過ごしてしまった。


 二人きりで、こうしてただ静かに手をつなき、過ごす時間。

 肩を寄せ合い、彼女のよこすふかふかのしっぽと戯れつつ、そっと軽く口づけを交わし合う。


 結婚してからほぼ一年が経つが、こんなふうに、ただのんびりと過ごす時間なんて、あっただろうか。

 いや、そんな時間すらも、俺たちは持てていなかった。


 一応、決めてはあったんだ。

 リトリィとマイセルと俺、いつも三人でいるだけでなく、たまには二人きりになってデートしよう、と。

 それはかならず三人で日付を決めて、平等に、と。


 それなのに結局、俺自身が仕事、仕事で跳び回るばかりで、すっかり忘れていた。


「あなた……」


 やや目を伏せていたリトリィが、俺を見上げていた。その手に、わずかに力が込められる。


「わたし、いま、しあわせです。とっても……」


 何をするでもない、この静かな時間を、彼女は幸せだと言ってくれる。俺と二人きりで過ごすだけの、この時間を。

 ――だったら。


「俺もだ、リトリィ……」


 穏やかな陽射しが作る木陰の下で、俺たちはもう一度、そっと唇を重ねた。




 飯の味がわからない。

 リトリィは山育ちだったはずだが、ものすごくナイフとフォークの使い方がうまい気がする。

 というか、俺が下手すぎる。


 確か落語に「本膳」とかいうのがあった。庄屋さんに、正式な食事会に招かれた村人たち。しかしマナーが分からず、知ったかぶる男の真似をするという話。

 あんな感じだ。高級な食卓の前で何をしていいかわからない俺は、リトリィの真似をして食べる。


 リトリィはナリクァン夫人と楽しそうに話をしながら食べているんだけど、俺は緊張のあまり、味もわからない有り様だった。

 そんなことが本当にあり得るのかと思っていたけれど、本当だった。

 いや、正確には味は分かるつもりなんだ。けれど、食った端から味を忘れていく感じなんだよ!

 もう、食を楽しむなんてそんな余裕まるでなかった。


 くそっ、こんなことなら「日本人は箸で食うから、ナイフもフォークもいらない」とか言っていないで、テーブルマナーをしっかり覚えておけばよかった!




「それで今日この午後からの予定はどうなっているのです」


 口元を拭った夫人は、微笑みながら聞いてきた。


「婦人とのお話が終わり次第、現場に戻る予定でしたので、このあとは『恩寵の家』に向かうつもりですが」


 やっと針のむしろから逃げ出せる――そんな安堵のため息とともに吐き出した俺の言葉に、夫人は一瞬、何やら思案する素振りを見せたあと、すぐに顔に笑みを戻した。


「それでは、今日一日、わたくしとお話し合いを続けるということも、あり得たのですね?」

「まあ、可能性としてはありましたので、そのようには伝えてあります。幸い夫人は私の意図をよく汲んでくださいましたので、お話は短く――」


 言いかけた俺を、婦人は手で遮った。


「お話し合いは、確かに長く続きましたね。そうそう、お食事の後に急に動くのは『健康に』よろしくないでしょうし、難しい商談の後のお疲れもありましょう」


 夫人が目配せをすると、控えていた女中メイドさんがお辞儀をして、部屋の扉を開ける。


「部屋の準備ができています。そうですね……二刻ほど、休んでいきなさい」


 俺は慌ててソファーから立ち上がった。さすがにそこまで世話になるわけにはいかないだろう。ごちそうになった上に、休んでいけなどと言われても!


 が、夫人は落ち着き払って、しかし有無を言わせぬ様子でもう一度、「休んでいきなさい」と言ったのだった。




 景色の歪みがほとんど見られない板ガラスがはめ込まれた大きな窓は、おそらくそれだけでひと財産だ。

 その窓から差し込む陽の光は暖かく、春の訪れを肌で感じさせる。


 食事の後、俺とリトリィは別々の部屋に呼ばれた。俺は部屋に通されたあと、なぜか沐浴もくよくを勧められ、言われるままに体を拭き清めていた。

 たらいの水は、爽やかで、けれどどこかスパイシーな香りが付けられていた。身支度が整うと、俺は案内された部屋で待つことになった。


 そこはそれほど広くはなかったが、アイボリーの地に淡い色遣いの花が描かれた壁紙が美しい部屋だった。調度品も花の意匠をあしらったものばかりで、派手さはないが、落ち着いた華やかさというか、きっとリトリィが好みそうな部屋だろうな、とは思った。


 だが、一つだけどうしても理解に苦しむものがあった。

 それが、天蓋付きの巨大なベッド。


 部屋の半分以上を占めるその巨大なベッドは、薄桃色の生地にやはり淡い色合いの花の刺繍で装飾されたベッドスプレッドに覆われ、なんなら生花の花びらまでちりばめられている。


 どことなく甘い香りが漂ってくるこの部屋で、これからナニをしろっていうんだ。

 というか、考えるまでもないだろう。

 与えられた服もガウンみたいなもので、今の時間帯にこの格好で外に出るのもちょっと勇気がいる。


 そして、リトリィは全然やってくる気配がなく、この巨大なベッドの端に腰掛けて、俺は落ち着かない時間を過ごしていた。

 なにせ、腰掛けるとぎしりと腰が沈み込む。

 家にあるベッドよりも、さらに高級感あふれるベッド。

 そんな豪華なベッドのある部屋で、二刻――二時間ほど「ご休憩」って、もうアレなホテルにしか思えない。


 もちろん日本にいた頃には、街の一角や高速道路のインターチェンジ付近に林立する派手な外観のホテルってことくらいしか知らなかった。

 というか、そもそも交際している女性もいなければ行きずりの女性とワンナイトラブなんてこともできるはずもなく、実際に使ったこともないんだけれど。


 そんなシチュエーションに追い込まれているせいなのか、なぜか妙に胸がドキドキし、顔がカッカと火照ってくる。耳の奥で、どっ、どっ、どっと、脈打つ血管がやかましい。

 リトリィと結婚してからもうすぐ一年、数えきれないくらいに体を重ねてもきた。

 にもかかわらずこの状態。中学生か俺は。こんな状態でいつまでも待たされていると、気が変になりそうだ。


 大きく息を吸って立ち上がり、窓辺に立った時だった。

 ――ドアがノックされた。


 返事をすると、女中メイドさんが一人、入ってきた。

 リトリィを連れて。


 ……口がきけなかった。


 昼間だ、今は。

 窓から差し込む光の反射をほどよく受ける彼女は、白い薄衣うすぎぬをまとっていた。

 彼女の体の線が、はっきりと透けて見えるほどの。


 ボディラインだけじゃない。

 彼女の全身を包む柔らかな金の毛並みも、その白い乳房も、サーモンピンクの先端も、そして明らかに煽情的なレースの下着も、はっきりと分かるほどの薄さ。


 ……その服装で、この部屋に来たのか?

 思わずそう思ってしまったが、リトリィのあとから入ってきた女中メイドさんが手にバスローブのようなものを手にしているのを見つけた。

 多分部屋に入る直前に脱いだのだろうと見当をつけ、ちょっとホッとする。あの姿、俺以外の誰にも見せたくない。


「それでは私どもはこちらに控えておりますので、ご入り用があればいつでもお申し付けください」


 そう言って女中メイドさんは、扉の前に二人並んでかしこまってみせた。


 ……え? ちょっと待って、ひょっとして俺たち、この女中メイドさん二人が見ている前で、コトをするのか?


 自分でもよくわかるほどひきつった微笑みを向けると、女中メイドさんたちは感情を一切見せない顔、感情のない声で答えた。


「私どものことは、必要のあるとき以外、お気になさらずとも結構でございます。ごゆるりとお休みください」


 いや、めちゃくちゃ気になるって! できればお部屋を出ていただけると大変助かるのですがッ!


 けれど女中メイドさんたちは、あとは置物か何かのように、無表情で、うつむき加減に、ドアの両隣に立つだけだった。


 リトリィもおずおずと俺のほうに向かって歩みを進めようとして、しかし足が止まる。やはり女中メイドさんたちが気になるようだ。


 だけど、うちではマイセルどころかフェルミも交えて四人で一緒に愛し合ったこともあるんだ。俺は耳の奥でゴーッとうなり声をあげる血流の音を聞きながら、何を今さらと、リトリィのもとに歩いて行った。


 ふわりと、スズランの香りにさらに甘味を足したような、そんな香りが鼻腔をくすぐった。


 一気に心臓が跳ね上がる気がした。


「……スズランの香水だそうです。スズランが好きだって、あなたがおっしゃったから……」


 それまでうつむいていた顔を上げ、上目遣いにそう言ったリトリィ。

 窓から差し込む春の柔らかな陽射しに輝く、透明感あふれる青紫の瞳。


 その瞬間、俺は自分の体の中心が、爆発的に屹立するのを感じた。


 涼やかでかつ甘い香りに、劣情が炙られたのか。

 青紫の瞳の輝きが、俺の理性の薄膜を剥ぎ取ったのか。

 彼女を包む薄衣の下、隠しきれない蠱惑的な体が狂わせたか。


 俺は彼女を抱きしめていた。

 自分の愚かさを呪う。

 俺はなぜガウンなどというものを着てしまっていたのか。

 その一枚の布がひどくもどかしい。

 脱ぐために彼女と身を離す、その瞬間すらももったいない。


「だ、だんなさま、お待ちになって……」

「待てないのは、当たるモノで分かるだろう!」

「で、でも……ひとが……」


 言いかける彼女を、ベッドに押し倒す。

 耳の奥が、首筋が、胸が、体の奥が、屹立するモノが、ひどく熱い。


 それは、彼女も同じだった。俺と同じところが、同じように――いや、それ以上に熱い。


「だんなさま……!」

二人きり・・・・のときは、『あなた』だろう?」

「で、でも――」


 もう、リトリィの声など届かなかった。

 彼女も、ややためらいながら、俺を「あなた」と呼んだ。


 一度そうなってしまえば、もはや二匹の獣は、ひとつになるしかなかった。

 ひとつになるべくして、なった。


 日の光の下で、全てをさらし輝かせる彼女を、一息で貫く。

 すべてをとろかして、おれたちは、ひとつになった。

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