第139話:マイセルの決意
俺も、自分のカップに茶を注ぐ。
カップを通して伝わってくる熱。まだ十分に温かい。
「いい香りですね」
カップをあおると、もう一杯いただく。
なかなか美味しい茶だ。紅茶、だろう。
なかなかいい香りがする。茶葉を醗酵させる技術というのが、世界を越えて共有されているというのが面白い。
コーヒーはなさそうなのが残念だが、いっそ、タンポポコーヒーかオクラコーヒーでも作ってみるか? タンポポかオクラ、もしくはそれに似た品種の作物があればの話だが。
「マイセルが
マレットさんが、頬を緩める。
「――実際、マイセルはよくやってくれている」
カップの底の茶をゆっくりと揺らすようにして、マレットさんが独り言のようにつぶやく。
「家事、まだ赤ん坊の弟の世話、母親の世話。俺たちの補助、でもってこっそりと大工の
――もう、十六なんだ。そろそろ娘として……いや、一人の女としての幸せをつかませてやりたい」
そう言って視線を上げ、俺をじっと見つめる。
「もう
そんなアイツが、いつの間にやら見つけた相手だ。それも、大工仕事に理解があるどころか、むしろ大工になることを後押しすらしてくれるときたもんだ……」
そこまで言って、ふっと息を吐く。目尻が下がり、すこし、目元口元に笑い皺が浮かぶ。
「俺は、娘が選んだ男を頭ごなしに拒否するような、心の狭い男じゃないつもりだ。それに今日、あらためて一緒に仕事をしてみてわかった。どうしようもなく不器用だが、誠実さは伝わった」
マレットさんの言葉に、俺は驚く。
マイセルが
今日の現場に来てたのか!?
全然気づかなかった!
一緒に仕事をして分かった、ということだから、その男はきっと今日、応援に呼ばれた大工たちの中の一人だったに違いない。
応援組というと、ツェーダじいさん――は別として、無精ひげのキーファか、ちょっと若いがカスタニーか。あるいはほかの誰かか。
――どうしようもなく不器用なやつなんかいたか? 熟練のマレットさんから見れば、まだまだ未熟という意味なのかもしれないが。
まあ、マレットさんがもう把握しているなら問題ない。よく考えたら、マイセルも好きな男を見落とすわけがない。俺だけが気づいていなかっただけだろう。
――そうか、だからか。
今日のマイセルの態度に、すとんと納得する。
だから、
本当は本人に聞きたかったのだろうが、恥ずかしくて聞けなかったのだろう。あのとき、やたら真っ赤になったり焦ったりしていたのは、現場に来ていた好きな人を思い浮かべていたからかもしれない。
――ん? じゃあなんで、
そしてまた気づく。
プレゼント――おそらく大工道具――を選びたかったに違いない。マレットさん曰くの不器用、ということは、まだまだ半人前なのだろう。自分の道具も十分にそろっていないのではないか。
そんな彼にぴったりの大工道具を見繕いたかったのだろう。道具の選定相手に俺を選んだのは、マレットさんがそいつを認めてくれるかどうかについて、彼女の視点ではまだ分からなかったからに違いない。
……いや、そこはおとーさんに頼ろうよ。俺じゃやっぱり役に立たないぞ。
「……どうかしたかい、ムラタさん」
呼ばれてハッとなる。
そんな俺を見て、マレットさんは小さく笑うと、続けた。
「なあ、ムラタさん。この仕事、少しでいいんだ。マイセルにもやらせてやっていいだろうか? もちろん、俺が責任をもって監督する。アンタも、必要以上に甘やかす必要はない」
……正直、驚いた。
マイセルが大工道具に触るだけでも、マレットさんは雷を落とす、という話だったはずだ。それが、どういう風の吹き回し……?
「こう言っちゃ悪いが、今回の仕事は、素人でもある程度なんとかなっちまうくらいの内容だ。
――だが、だからこそ、好都合だ。こっちとしてもある程度任せてやれるし、アイツとしても、いずれ完成したあと、好いた男との初仕事として思い出に残してやれる」
なるほど。それなら納得、むしろこちらとしても願ってもないことだ。マイセルが聞いたら喜ぶだろう。
「ええ、もちろんです。安全面にさえ気をつけていただければ。彼女にとっても、いい経験になるでしょうし」
マレットさんは
「わがままを言ってすまねえな。
だが、ムラタさん。今回、まるでアイツのために用意してくれたかのような仕事を回してくれたこと、本当に感謝する」
深々と頭を下げられ、こちらが慌てる。ただの成り行きだ。そこに感謝されるいわれはない。
ワタつく俺に、マレットさんは薄く笑った。
「……あんた、本当にお人好しだな。そういう時は、どんと構えて鷹揚にうなずいておけばいいものを。だが、嫌いじゃないぜ、あんたの不器用な誠実さは。
――だから、娘を任せられる」
マレットさんが退出したあとの部屋は、なんだか妙に広く感じる。
結局、彼も娘さんの将来を案じていたのだ。今回請け負った仕事をマイセルにも経験させ、彼女の歩む道を支えてやりたい――娘を任せる、という言葉は、そういう思いだったのだろう。
窓から差し込む月の光から、青い月がだいぶ高くまで登ってきていることに気づく。ずいぶん遅くまで話し込んでしまったものだ。
とんとん。
唐突にノックされて驚く。マレットさんがなにか忘れ物をしたか、あるいは伝え忘れたことを言いに来たのか。
返事をしてドアを開けると、そこに立っていたのは、
――マイセルだった。
「ええと、……こんな夜中に、申し訳ありません。水差しを、お持ちしました」
そう言って水差しを見せる。
マレットさんが退室してから、大して間を空けずにやってきたから、部屋の様子を窺っていたのかもしれない。
しかし、その訪問を受ける俺の頭の中は、混乱の極致にあった。
ここにいるのがリトリィなら理解できる。
だが、今、目の前にいるのは、十六の若い娘さんだ。
あの、ほっそりとして凹凸が控え目な体つきがよくわかるダークグリーンのロングドレスに、栗色の髪を結い上げた、その細い首筋が妙に
その少女が、こんな夜更けに、水差し一つをもって、わざわざ男の客の部屋に、一人でやってくる。
――いやいや、考えすぎだ。純粋に彼女は、客に不自由な思いをさせないようにやって来ただけだ。これも、マレットさんの言うところの「仕事」なのだろう。うなずいてみせて、部屋に入れる。
マイセルは部屋に入ると、カウチソファーの横にあるテーブルの上に、水差しとカップを置く。
そのまま出て行くかと思いきや、マイセルはトレイを胸に抱くようにして、月明かりを背に、ふわりと微笑んだ。
窓を背にした彼女の表情は、逆光のため、表情はよく見えない。
だが、たしかに、微笑んでいる。リトリィの柔和な笑みとはまた違った、快活な笑み。
「今日は、本当に、ありがとうございました!」
そう言ってマイセルは、すこし腰を落として会釈をして見せた。
――礼を言われるようなことなんて、何かあっただろうか?
真剣に考えてしまって、ああ、と思い至る。そういえば、牛車の暴走を止めたとか、座席から落ちそうになった彼女を支えたくらいのことはしたっけ。
まあ、彼女がけがをしたりしなくて良かった。
すると、マイセルはまた、なにやら傷ついたような顔をした。
「……違います。それだけじゃありません」
言われて戦慄する。
女性は、何気ないことも記念日に仕立て上げて、恋人や旦那を追い詰めるのが得意だと聞いた事がある。
――ヤバい。つまりリトリィも、そういうことをしかねないわけだ。
これはアレだな、リトリィとの円満な結婚生活を送れるかを占う重要な試練だ。思い出せ、俺、なにか礼を言われることを、ほかにしただろうか。
思い出せ、思い出せ俺――!
……ダメだっ! 何も思い浮かばないッ!
いい加減な返事をしていて「大工の話なんかしていない」と突っ込まれたこととかは覚えているが、マジで彼女に感謝されるようなことが思い出せない!
だが、いい加減なことを言えば傷つけてしまうのは既に昼間に実践済み。潔く謝ろう――そう思ったときだった。
「ムラタさん。私、ムラタさんのために、頑張ります。父から聞きました、明日から、現場に立たせてもらえるって」
……ああ、そっち?
「私のこと、そこまで認めてもらえてたなんて、思ってませんでした。とっても嬉しいです。
だから私、ムラタさんのために早くお仕事を覚えます。大工も、家事も、……その、こ、子育ても、任せてもらえる女になります! よろしくお願いします!」
「……ああ、期待してるよ。頑張ろうね」
「――! はい!」
彼女が部屋を出て行ったあと、盛大にため息をつく。
ああ……よかった。助かった!
思い出せないイベントじゃなくて、ついさっきの話のことだったなんて。
それにしても、大工仕事も、
――母親が病で臥せっているだけに、家事もしなければならないし、まだ乳児の弟の世話もしなければならない彼女の境遇を思いやる。大変だろうに、それを、あんな笑顔で。
最後の返事なんか、目を大きく見開いて、涙まで浮かべて。
本当に健気でいい子だ。報われてほしい。
神様なんて初詣くらいにしか祈ったことのない俺だが、思わず何かに願わずにはいられない。
あのいい子が、幸せになれますように――
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