第698話:街に還る
山を下り、滝の崖を下り、崖の途中で一泊する。
「ここで、滑り落ちた俺が止まったんだよな」
「あのとき、だんなさまをかかえながらしずんでいく夕日をみていたときは、ほんとうに、だんなさまのからだのあたたかさが、うれしかったです」
なんてリトリィと二人で笑ってたら、マイセルには驚かれ、フェルミにはやっぱりおちょくられた。ニューには「おっさん、怖かった?」と目をきらきらされながら聞かれ、リノには「だんなさま、落ちたときのおケガ、痛くない? ボク、よしよししてあげるよ?」とやたら心配された。
二人で歩んできたことなら、どんなことだっていずれは思い出だ。成功はもちろん、失敗だって。
……でも、失敗はやっぱり反省して、記憶して、そして活用すべきだと思いました。
『やっと帰って来たのかい。待ちくたびれちまったよ』
『肉、取ってくる。焼いてくれ』
山のふもとの森で、やっぱり出会った魔狼親子。
今回はこちらの人数が多いからと、この二頭の一角狼、でっかい猪と鹿みたいなのを狩ってきたんだ。もちろん豪快な「ぶん回し血抜き処理」のおまけつきで。さらには、焚き火用に枯れ枝まで集めておくという周到ぶり。
これで早く肉を焼け、とせっつかれ、俺たちは巨大な狼と焼き肉パーティを開くことになってしまった。
いや、楽しかったよ? チビたちもすっかり打ち解けて、楽しかったのは間違いなかったんだ。シシィもヒスイも、手を伸ばしてこの巨大なもふもふを触ろうとしていた。フェルミだけだよ、最後まで緊張してたのは。
『……それで、ライトの奴ときたら、この姿を恐れるどころか、艶のあるこの美しい鼻先を見て、「ハナちゃん」と呼ぶようになったのさ』
「あはは、呼び名にしちゃうくらい、綺麗だったのね!」
『そうさね。これは少しばかり物わかりのいい人間だと思って、少し話を聞いてやろうと思ったのだよ』
「昔話だと、賢者さまの威厳にハナちゃんがひれ伏したことになってるけど、本当はそんな馴れ初めだったんだ!」
『アレが威厳ある賢者? そんなわけがあるものかい。少しばかりモノを知っているだけの、調子のいい若造だったよ』
「長く生きてるハナちゃんと比べちゃったら、みんな子供みたいなものじゃないですか! それに、その『若造』にハナちゃんも惚れちゃったから、一緒に暮らすようになったんでしょ? ハナちゃんも可愛い!」
マイセルが、巨大な一角狼と、実に楽しそうに会話をしている。
百年を軽く超える時を生きてきた存在に、友達みたいな口調で話すマイセル。恐れを知らない自分の妻に、苦笑がもれるばかりだった。
それに対して、チビたちの相手をしているのは、ハナちゃんの娘の「メイちゃん」だ。ハナちゃんよりは小柄だから、チビたちがよじ登って遊ぶには最適なんだ。というか──
『ほら、落ちるぞ』
「えへへ、大丈夫だよ! こう見えてもボク、木登りが得意で──」
言ったそばから、リノが足をずるりと滑らせる。硬い木の幹やレンガの壁などと違って、巨狼のふわふわな毛並みは、踏ん張るには不安定過ぎたんだ。
けれど、それをふわりとしっぽで受け止めるメイ。よろこんでもう一度よじ登り始めるリノ。
こういう小さなナマモノに群がられるのは彼女にとっても新鮮な経験らしく、不器用なりに「お姉ちゃん」をやっているのが、なんとも微笑ましかった。
で、やっぱり「背中に乗れ、送ってやる」になったわけさ。実に上機嫌に。
赤ん坊の藤籠も器用にくわえて、前回よりはゆっくり、そのかわり優しく走ってくれた──のだろう。
だけど怖いものは怖いんだよ!
なんでニューとリノはそんなにも楽しそうなんだっ! ヒッグスも「すっげー!」を連呼して平気そうだし!
ていうか耳元でうなる風切り音にまじって、どう考えてもハナちゃんの口元あたりから、赤ん坊の楽しそうな笑い声が聞こえてくるんですけどっ! なんで泣かないんだよ俺のベイビーたちはっ! この世界の女子供、タフすぎるだろ!
「あはははっ! たーのしーっ!」
「もうだめっ! ご主人さまっ! こわいっ! 降ろしてぇっ!」
実に楽しそうにメイちゃんの背中で笑っているマイセルの隣で、フェルミが、メイちゃんにしがみつきながら泣きわめいてるのを見て、かえって安心しちゃうくらいだよっ!
ああもう、なんで俺は、魔狼親子に出会った時点で、挨拶即スルーをしなかったんだ!
「ハナちゃんさん、夫が怖がっているようなので、もうすこしだけ、ゆっくり走っていただけますか?」
『まったく、情けないオスだねえ。チビ共はこんなに楽しそうにしてるってのに』
なんとでも言えっ!
怖いものは怖いんだよっ!
「ハナちゃんさん、ありがとうございました。またいずれ、ゆっくりと」
「ハナちゃん、メイちゃん! また遊ぼうね! ボク、また遊びに行くから!」
リトリィやリノたちが別れを惜しんでいる間、動かない地面にキスせんばかりにへばりついて、そのありがたみを堪能する俺とフェルミ。いや、ほんとに慣れないし怖かったんだって!
『ああ。今度はお前さんの腹の仔を見せておくれ。きっとお前さんによく似た、綺麗な金色の仔が産まれるだろうさ』
「できるだけ、夫に似ているとうれしいのですけれど」
『こればかりは、産み月まで待たないと分からないねえ。楽しみにしておくんだね』
いや、できれば会いたくないです。どうか遭いませんように。二度と狼の背中になんて乗りたくありません。
そう祈っていると、リノがハナちゃんの鼻先に飛びつくようにして、とんでもないことを宣言する。
「お姉ちゃんが赤ちゃん産んだら、今度はボクが赤ちゃん産むんだよ! だんなさまとの約束なの!」
『おやおや。リノ……といったかい。そんな
「うん!」
いや、あの、リノがそーいうことになるのは、早くても数年先だからね?
君はまだ、子供を産むにはちょーっと早いんだって!
おぼろげに光る青いたてがみの光跡が、長い筋を描くように、音もなく闇に消えていく。それを見送った俺たちは、くるりと街に向かって振り返った。
月はすっかり傾いていて、あと数時間後には夜が明けるだろう。
街は何も変わっていない。
けれど、俺たちを黙って迎え入れるかのように、静かに闇の中にたたずんでいる。
「……ああ、帰ってきたんだな」
「はい、だんなさま。……わたしたちの家のある街に」
リトリィが、そっと左腕に腕を絡めてくる。
「だんなさまの街……ですよ。ここが」
「俺の街──か」
「はい」
彼女は、そう言ってにっこりと笑ってみせる。
「だんなさまが心をくだいて直してくださった街です。だからここは、だんなさまの街、ですよ」
数カ月前の地震で、屋根という屋根がダメージを受けた街。あれからすっかり屋根の修復は終わり、どの家も屋根だけはずいぶんと若返った。瓦が剥がれ落ちたあとの屋根の
実は屋根の修繕に当たって、俺は一つの提案をしていた。
それは、屋根瓦を釘で固定すること。
日本でも、防災・減災の観点から、全ての屋根瓦を釘で固定することが義務化された。二〇二二年の一月から施行されている。全部の瓦を釘で固定するのは主に台風対策だが、震災に対しても有効だろう。
だから、瓦の重なる部分に釘穴をあけることを提案したんだ。全てとは言わなくても、たとえば数枚に一枚の割合ででも固定してあれば、あれほど綺麗さっぱり、ほぼ全ての瓦が滑り落ちて無くなる、なんてことにならなかったはずだ。
けれど、瓦の穴自体は採用されたが、釘で打って固定するまでには、ほとんどの家が至らなかった。釘の分だけ、コストがかかるからだ。
結局、意識の高い、ある程度小金持ちの家しか、釘での瓦の固定はできなかった。
でも、万が一……あってほしくはないけれど、万が一の時に、きっと釘は役に立ってくれるだろう。
それは何十年──いや、百年以上先の話になるかもしれないけれど。
「さあ、みなさん、帰りましょう。わたしたちの仕える、だんなさまの街──わたしたちの、おうちへ」
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