第697話:希望は未来に

「結局は置かれた場所であがくしかねぇんだよ。人間、置かれた場所で、歯を食いしばって前を向くしかねぇんだ。未練がましくいつまでも故郷にすがるな、すっぱり忘れちまえ」


 ジルンディール親方おやじどのは、鎌を研ぎながらぶっきらぼうに言った。


「故郷自体にはもう、未練なんてないんですがね。これは、故郷で愛用していた技術書と、実際にしてきた仕事の覚書おぼえがきなんですよ」

「だったら、今、身に染みついている分を、覚えている分を磨け。過去に頼れないなら、今の己を磨くだけだ」


 研いだばかりの鎌をランプの火にかざしながら、親方は続けた。


「手が届かないモノになっちまったのなら、すっぱりと諦めてしまった方が、ずっと建設的だ。何人も嫁と子供を持つ男が、過去なんかに囚われてどうする」


 親方の言葉ももっともだ。

 俺の限られたリソースを、どこに割くのか。

 復元できるかどうかも分からない物か。

 それとも自分の今ある知識を、鮮明なうちにありったけ吐き出して記録し、体系化しておくことか。



「ムラタさん、がっかりしてますか?」


 マイセルに問われて、俺は素直にうなずく。


「鞄を見つけたときには、本当に嬉しかったからなあ」

「逆に、二年も前からずっと森の中で雨ざらしだった本が、無事だって思う方が無邪気すぎだと思うんスけどね?」


 背後からしなだれかかるフェルミが、苦笑しながら言う。

 それを言われるときつい。確かにフェルミの言う通りなんだけどさ。

 いずれにせよ、おそらくこの腐ってしまった本もアイデアノートも、復元は厳しいだろう。親方の言う通り、捨ててしまったほうがいいのかもしれない。


 でも、もし……もし、また見ることができれば。

 そのときは、きっと役に立ってくれるはずなんだ。なにせここには、ググって何かを調べるような、そんな手立てがないのだから。


「……私たちじゃ、だめなんですか?」


 マイセルが、ちゅぱ、と口を離して俺を見上げた。

 月明かりのなかで、瞳が揺れている。

 マイセルにしてみれば、大工である彼女を頼らず、ぼろぼろになって開くことすら難しいありさまとなった本に執着している俺のことが、歯がゆく思われるんだろう。


『人間、置かれた場所で、歯を食いしばって前を向くしかねえんだ』


 親方の言葉が追いかけてくる。

 俺の前には今、俺のために、共に生きてくれる女性たちがいる。

 色々と思うことはあっても、付いてきてくれるひとたちが。


 あの本を捨てる気にはなれないが、俺が一番に向き合うべきなのは、過去ではなく現在──つまりは、彼女たちだ。

 今は、回収できたことだけでいい。もしあの本が必要な時が来たら、そのときになんとかすればいいだけだ。なんともならなければ、俺の手に余る、というだけなのだから。


「そうだな。君たちがいる。俺には」


 そっとマイセルの髪をなでる。

 妻たちのなかでは小柄な体を抱きしめると、初めて体を重ねたころとは違う、命を生み出した包容力のような、ふっくらとしたものを感じる。


「……太ったって言いたいんですか?」


 ほっぺたを膨らませる彼女が可愛らしい。


「そんなこと、大したことないスよ」


 フェルミが、俺の後ろからしなだれかかりながら言う。


「ご主人はおっぱいが大きければなんだっていい生き物なんスから。多少お肉がついてたほうが、おっぱいが大きくなって好いてもらえるっスよ」


 お前な、俺を何だと思ってるんだ。

 けれどフェルミは、俺の抗議など聞こえなかったかのように、背中に胸を押し付けてくる。


「ふふ、ご主人さま。お姉さまが、今夜は譲ってくださるっておっしゃったんですから。ご主人さまをお慕い申し上げる二人分の花びらと蜜の味、たっぷり召し上がってくださいな」


 くっ、卑怯だぞ、フェルミ。おちょくりモードから急にお色気モードに切り替えやがって。俺が抵抗できるわけないと思ってるだろ。

 ……お前の読み通りだよ!




 「あなた、おつかれさまでした」


 川まで降りて水浴びをしていたら、聞き慣れた声がした。振り返るまでもない、リトリィだ。


「マイセルちゃんは、なにか言っていましたか?」

「お姉さまが望んだことだから仕方ないんですって言って、最後は自分から俺の上に乗っかってきた」

「ふふ、あの子、はずかしがり屋さんですから。ちゃんと理由をつけてあげないと、なかなか自分を出せませんよね」


 そう言って、彼女も川に入ってくる。


「……そういえば、あなたとこうして川に入った冬の日のこと、覚えていますか?」


 背中にふわりと覆いかぶさる、ふかふか。

 覚えているさ、忘れるものか。

 左腕に残る、引きつれたような傷痕。

 君の絶望を思い知らされて、自分の身勝手さに気づかされた日だ。


「あれからもう、二年近くになるんですね」

「そうだな。時間っていうのは、過ぎてしまえばあっという間だって思うよ」


 本当に、あっという間だ。

 できれば二年前に戻って、自分の愚かな頑なぶりを説教してやりたいところだが、でも、いろいろと積み上げてしまった失敗もみんな、彼女との思い出だと思えば。


 ……うん、どれだけ土下座してもやっぱり駄目な気がする。リトリィだからゆるしてもらえているだけで。


「そんなこと、ないです。あなたに受け入れてもらえたから……あなたに愛していただけているって思えたから、だから、わたし──」


 もう、それ以上は不要だった。

 言葉なんて不要だ、なんて言わないけれど、やっぱり冗長だ。


 ついでに言うなら、ムクゥロの言葉、あれも無粋だ。

 「愛し合う」って、子供を作るためだけでなくていいんだから。




「じゃあ、この絵図面、もらっちまっていいんだな?」

「ええ。ただ、この『傘歯車』は、街で購入したほうがいいと思います。鉄工ギルドで発注できますから」


 俺は、親方が太陽熱温水器の設計図を丁寧にたたんで懐に入れるのを見届けると、改めて深々と礼をした。


「次は、リトリィとの子を見せに来ますよ」

「もう来なくていい。次はオレが墓の下に入ってからで構わねえ、お前さんはお前さんの暮らしを生きろ」


 親方はそう言ったが、もちろんそんなつもりなど無い。リトリィが切望してやまなかった俺との子を、なんとしてでも見せに来る。


 俺は頭を上げると、街に向かって歩き出した。リノが俺の右手をつかむようにして前を行く。左隣は安定のリトリィ、リノの右隣にマイセル。後ろにヒッグスとニューが手を繋いで歩き、最後尾をフェルミ。


 誰にだって過去はある。

 けれど、いくら振り返ったって、その過去にはもう、手は届かない。


「ムラタさん、なんだか、表情が生き生きしていますね?」

「そうか?」

「はい。帰ってきたときは、疲れたってだけじゃなくて、すごく、落ち込んだ様子だったから……」


 マイセルに言われて、俺は「いや、未来に希望があるっていうのはいいことだと思ってさ」と笑う。


「未来に希望、ですか?」

「とりあえず、あのじいさんに子供たちを見てもらっただろ? 次はリトリィの子を見せに行くのが楽しみでさ」


 俺の言葉に、マイセルも微笑む。


「次は、二人目を抱えているかもしれませんよ?」

「二人目……ふふ、ではだんなさま。がんばらないといけませんね?」


 リトリィが、自身のお腹をなでてみせる。

 つまり、自分にも二人目をくださいね──そう言っているのだろう。

 おいおい、気が早いって。


 すると、リノが目を輝かせた。


「じゃあ、ボクボク! リトリィお姉ちゃんが赤ちゃん産んだら、ボクも赤ちゃん、欲しい!」


 そっちはもっと気が早すぎる。せめてあと三年は待ってくれ。


「……でも、未来に希望があるっていいよな」


 背負うリュックの中の、傷んだ資料やアイデアノート。

 それを蘇らせる日は、来るのだろうか。


 だが、たとえ来なくたって、もういい。

 ただの日本のメモリアルとなるだけだったとしても。


 俺は、この世界で生きる、この世界の未来に希望を見出す人間になったんだから。



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