第72話:名誉を守る戦い

 市場を歩いてみると、冬だというのに、野菜が結構豊富だったのが意外だった。季節柄、根菜が多いようには思うが、青物も結構多い。寒さに強い作物が多いということなのだろうか。


 売り方は、基本的に量り売りのようだ。選んだものを秤にかけ、その重さで値段が決まるらしい。もちろん、値引きの交渉も可能みたいで、店主と客の攻防が、見ていてなかなか面白い。


 ただ、こうした場所に来ると、翻訳首輪の限界がよくわかる。日本語として聞き取れるのは、おおよそ5メートルくらいといったところか。それ以上になると、もう現地語しか聞き取れない。

 おまけに、工房では多くても四人までしか話す人はいなかったのに対して、ここは雑多な人が行きかう市場だ。現地語に乗せるような形で日本語として理解ができるこの翻訳首輪、要するに会話の音が二重に聞こえるようなもので、そうするともう、すさまじい。頭が痛くなりそうだ。有効範囲が5メートル程度というのは、案外実用的なのかもしれない。


 それはともかく、こうして市を歩いていると、たしかに先ほど街を歩いていたときよりも、こちらに目を向ける人間が増えたことが実感できる。

 もちろん、行きかう人間の数が圧倒的に違うし、大多数はごく普通なのだが、確かにこちらを、好奇の目、あるいは嫌悪の目で見てくる輩が多いのだ。

 視線がリトリィ、次いで俺になるのがよくわかる。あからさまに眉を顰める者も、何人も見かけた。

 彼女も、それは理解しているのだろう。小声で、手を離すように言ってきた。というか、懇願してきたと言っていい。


 もちろん、その願いは却下だ。

 ぎゅっと、握る手に力を込める。

 お前は、俺の連れ合いなのだと、伝えるために。


 ややあってから、その小さな手にも力が込められる。

 俺の想いに応えるように。

 ――それが、とても嬉しい。




 しばらく市場を歩いていると、いくつかドライフルーツを扱う露店があった。そのなかで、特に良い香りのする店があった。人の良さそうなおばさんが、愛想のいい様子で座っている。


 リトリィも足を止めた。こちらを見上げ、微笑む。これまでの店は、露店の先で少々匂いをかぐような仕草をするだけで素通りだったのだが、この露店はそんな仕草をするまでもなく、だ。

 なるほど、良さげな品を扱うの店、ということか。


 俺には、並べられているものがどんな果物なのかさっぱり分からないが、リトリィなら分かるだろう。

 少しずつ試食させてもらって、美味しいものを選べばいい。

 ――そう思ったのだが。


「ちょっとそこのあんた、ケモノ臭い手でうちの商品、触らんでくれんかね」


 一瞬、リトリィが言われたのだと思った。だが、おばさんは真っ直ぐ俺を睨んでいた。


「あんただよ、あんた。ウチは上等な食べ物を扱ってるんだよ。

 獣臭い奴ベスティアールの手なんか握って、そんな汚い手で触って、うちの商品が痛んじまったらどうすんのさ」


 ――なるほど。


 これが、か。

 人のよさそうなおばさんだと思っていたのに。

 リトリィはうつむき、何も言わない。


 だが、俺の大切な人を侮辱されて、ただハイそうですかなどと、引き下がれるものか。


「……ああ、申し訳ありません」


 頭を下げてみせると、リトリィが不安そうにこちらを見上げる。


 ――大丈夫だ。


 目を閉じて深呼吸をする。

 相手は顧客、取引先。

 ――ちょっと横柄なだけの、だが商売の相手。

 大丈夫……!


「――失礼いたしました、ご婦人」


 目を開き、目いっぱいの営業スマイルを展開する。

 さあ、戦闘開始だ……!


「実によい香りでしたので、つい手が伸びてしまったのです。質の良い果実は乾燥させてもなお豊かな香りを保つものなのですね、驚きました。店の品揃えはそのまま主の格を知らしめる、との言葉通り、拝見いたしましたところ、品数も量も豊富、商売人としての心意気を伺うことができます。

 このような質の良い品を、これほどまでに豊富に取り扱っているという誇り高いお店なのに、不用意に手を伸ばしてしまった不躾なわたくしをお許しください」


 一気にまくし立ててみせると、おばさんはポカンと口を開けて固まっていた。

 相手を取引先と思えば、こんな具合に立て板に水を流すが如くペラペラ喋れるのだから、年齢=いない歴の業というものは深い。


「ところでご婦人、わたくしは、さる高貴なお方に上質な乾燥果実を献上したいと願っており、こちらの女性はそのお方に大変近しいお方なのでございます。

 そして、こちらのお方が、この質の品ならば是非にと足を止められましたのが、こちらのお店といった次第でございます」


 おばさん、ぽかんとしてリトリィを見る。よしよし。


「……さきほどは、わたくしの不躾により、わたくしの清潔でない手が、この香り高い果実を汚さんとしてしまったこと、改めてお詫び申し上げます。

 ところで、何やらさきほど、私の耳に、そう、ケモノがどうとか……

 まさかこのような素晴らしい品を扱う店でそのような言葉が聞かれるなど、わたくしの聞き違いだと思うのですが……?」


 そして、ちらりとリトリィを見る。

 リトリィも、呆気にとられた様子である。まあ、いつもは俺の、しどろもどろな様子しか見てなかっただろうからな。


 だが、この目配せはなかなか効果的だったようだ。おばさん、俺とリトリィとを忙しく見比べている。

 そして、何やら頭の中での計算を終えたようだ。


「――イヤだねぇ、そんなの、聞き間違いに決まってるじゃないか! あんた、若いのに耳が遠いなんて、この先、お仕事するうえでも困っちまうよ!」


 やたらにこやかな愛想笑いを浮かべている。


「それで? 何が入り用だい? じっくり見とくれ、うちの乾燥果実はどれも一級品なんだから!」


 この、鮮やかな手のひら返し。

 腹が立つことこの上ないが、リトリィが良しとしたこの店で手土産を調達できるなら、それに越したことはない。


「では、今後につながるご縁をいただけたと考えまして、ご婦人がぜひにとおすすめいただけるものを取り混ぜていただけると、大変にありがたいのでございますが。

 こちらのお方は、もし、値段、質ともに、さるお方に気に入っていただけたのであれば、今後も末永く贔屓にするのもやぶさかではないと……」


 そう言って、再びリトリィに目配せする。

 二度目となると彼女も心得たもので、すましてうなずいてみせるものだから面白い。


 おばさん、何やらまた考えを巡らせたようだ。彩り、香り、粒の大きさ。なにやらああでもないこうでもない、といろいろかき混ぜ始める。

 予算も伝えると、さらになにやらぶつぶつ言いながら、草皮紙の袋に詰め込んだ。


「……多分、渡した金額の分の、倍くらい入っています」


 リトリィがそっと耳打ちする。


「さあ、持って行っとくれ。ああ、お嬢様! そのお方に、どうぞよろしくと、言っといてくださいよ!」


 そう言って、さらに別に取り分けた小袋を二つ、俺に押し付ける。


「こいつはあんたらの分だよ! また寄っとくれ!」


 どうやら俺たちへの小遣い代わりらしい。そこまでしてでも「掴んでおきたい客」扱いになったようだ。最初の言動とは、えらい違いだ。


 リトリィは、俺が袋をうやうやしく受け取るのを見届けたうえで、わずかに微笑を浮かべながら、澄まして答えた。


「……ええ、必ずあのお方に、乾燥果実ならば街一番の素晴らしいお店があると、紹介させていただきますね」




「……とまあ、こんなもんだ」


 広場に戻るまで、わざとゆっくり歩きながら、しかしもう、笑いをこらえるのに必死だった。二人共が。


 やっとのことで広場に戻った俺は、大爆笑を開放する。リトリィも、目に涙まで浮かべて笑っていた。

 それにしても、我ながらよくもまあ、あれだけ舌が回ったものだ。リトリィを侮辱された怒りをなんとかごまかしながら、イヤミったらしく、しかし礼を失さない程度に。


「気に食わないやつでも、腹が立つ相手でも、上手く利用すればこちらの利益になる。商売だと思って、相手から利益をかっさらえ!」


 交渉の末に「やっぱりいらない」とおちょくれば、相手は失望し、それを見て留飲を下げることもできただろう。しかしそれでは、一時的な感情を慰めるだけで、俺たちに利益がない。


 今回はこちらが利益を手にしつつ、相手はおそらくぎりぎりの利益、もしくはやや赤字計上になったはずだ。少なくとも、こちらは当初のドライフルーツを購入するという目的は達成できた。それも、予算の範囲内で、想定以上の質、量のものを。

 損はまったくない。リトリィの名誉を守る戦いは、完全勝利をおさめたと言っていい。


 まあ、いつも上手く行くわけじゃないが、これも処世術と考えればいいのだ。

 仕事と割り切れば、それなりにうまくできる。


 ……仕事でない場面でこのメンタルを保てたら、これまでリトリィを失望させないようにできたんだろうけどな。世の中、うまくいかない。

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