閑話⑬:新しいセカイ (2/2)


※ 飛ばしても、208話以降を読むことに支障はありません。


――――――――――





 唇が押し当てられるだけの、初々しい口づけ。

 マイセルの柔らかい唇。

 ムラタとは違った、小さいけれど、みずみずしい唇。


 ――ああ、そういえば。

 ムラタと初めてキスした時のことを、リトリィは思い出す。


 ――あのひとも、そうだった。

 そうだ。

 あのひとは、すべて、自分が初めてだったのだ。

 口づけも。

 愛撫も。

 ――お互いが、お互いを愛し合う方法、その、すべて。


 胸がいっぱいになる。


 ムラタの愛を奪われる――

 そんなことを、どうして自分は、今さら恐れるのだろう。

 あのひとのはじめてのすべてを、自分は、すでにもらっているのだ。

 今の自分の体で、彼の指が、唇が触れていないところなど、どこにもない。

 それくらいに、愛されているのに。


「……マイセルちゃん、今夜、ムラタさんのを、いただくつもりですか?」


 リトリィは、あえて、尋ねる。

 マイセルは軽く身を正すと、緊張した面持ちで、しかし、小さくうなずいた。


「ふふ……大丈夫ですよ。きっと優しくしてくださいますから」

「……えっと、でも、友達は、……は、痛いって……」

「そうね……たしかに、ですね」


 微笑みつつ、リトリィはしかし、そこは肯定した。


「やっぱり、お姉さまも痛かったんですね?」

「痛かったですけれど、でも、ムラタさんを愛しているなら、それも我慢できる傷みですよ? ううん――」


 あのときのこと――廃屋での一夜を思い出す。

 どちらも必死だった、あの夜を。


「それ以上に、求めてもらえた歓びの方が、わたしは大きかったです。ずっとずっと、欲しかったものだったから」

「ずっとずっと欲しかった、ですか?」

「そう……ずっと、ね?

 だってあのひと、ほんとうに――ほんとうに奥手で、はだかで抱き合っても、自分から指を動かすことすらしなかったんですよ?」

「……ほんとうに?」


 目を真ん丸にするマイセルに、リトリィも苦笑する。


「ほんとうです。どんなに好きってうったえても、全然信じてくれない人で。女の人が、自分を好きになるなんて、信じられなかったって」

「……そんなようなこと、そういえば、言っていたような……?」

「だから、そのぶん――初めての夜は、とっても大変だったの。おたがい、知っているけれど知らない、そんなふたりでしたから」


 リトリィの思わせぶりな言葉に、マイセルが首をかしげる。


「知っているけど、知らない?」

「そうよ。――こういう、ことを」


 その指が肌を滑る。

 吐息が耳にかかる。


 そのたびにマイセルの背筋に、ぞわりと、なにかが走る。

 悲鳴を上げるマイセルに、リトリィは小さく微笑んだ。


「かわいいですね、マイセルちゃん?」


 ――これが、さっきまで泣いていた、あの姉さまと、同じひとなの……?


 マイセルは困惑していた。

 リトリィ以外ではついぞ見られない、神秘的な青紫の澄んだ瞳が、伏せがちに、あきらかにつややかな色をうかべて、マイセルを見つめる。


「……じゃあ今夜は、あたらしいせかいを、いっしょにのぞきましょうね」

「あ、新しい、セカイ……?」

「こわがらなくていいですよ? 夫婦になるおとこのひとと過ごす夜――それを知るというだけですから」




 吐息が、指が、舌が。

 上半身、その山すそから頂きへ。

 さらに、下へ下へと。

 奥へと。




「――だいじょうぶですよ? 少しでも受け入れやすくする、そのお手伝いをしているだけですから」


 息も絶え絶えなマイセルに、リトリィが小さく微笑む。


 いつもなら、じぶんが、こんなありさまだったのか。

 こんなにも身をふるわせるわたしを、あのひとは、きれいだと、可愛いと言ってくださっているのか。

 自分を客観視するというのは、なかなかに恥ずかしい。


 ああ、これが、愛する者を愛するよろこび、そんな視点なのだろう。


 彼女を思うがままにする――そんな感覚が脳裏をよぎり、背筋にぞわりと、感じたことのない歓びが走る。


 ――もう。ムラタさんたら、わたしで自信をつけたって、こういうことなの……?


「しっかり準備をして、だんなさまをお迎えしましょうね。――いっしょに」




「……お姉さま、あったかい……です……」

「マイセルちゃんも、あたたかいですよ……?」

「……ねえさま、ふわふわ……。お日様の、香りがする……」


 リトリィのふかふかの毛並みの中で、目をとろんとさせたマイセルが、うわごとのようにつぶやく。

 それを抱き寄せ、小さな子供をあやすように、頭をなでているリトリィも。


「ムラタさん……もうすぐきてくれるかな……」

「そうね……。十分に潤いましたから、たくさん、愛してもらいましょうね……」

「うん……いっしょに……。ねえさま……も、……わた……し……、も…………」


 あたたかなリトリィの胸の中で、マイセルはまどろんでゆく。

 まるで母のよう――それが、マイセルの、最後の意識だった。




 可愛らしい寝息が、リトリィの胸元をくすぐる。

 そのリトリィも、彼女の頭を撫でながら――




 ▼ ▽ ▼ ▽ ▼




 ムラタは、体を拭いたあと、どうにも気が進まなかった。

 上から何やら時折、かすかに、だが甲高い声が聞こえてきて、気にはなるものの、なにやらそこに割って入るのがためらわれたからである。


 なかなか二階に上ることができなかった彼は、しばらくソファに座ってどうしたものかと思案しているうちに、ついうっかりうたた寝をしてしまった。


 ますますもって苦しい立場になったムラタが、意を決してベッドにたどり着くと、彼の愛する女性と、これから愛していこうと決意した女性の二人は、共に一糸まとわぬ姿で、毛布だけを被って、互いに重なって丸まるようにして眠っていた。


 ――まあ、仕方ないよな。


 苦笑しながら、ムラタは二人の寝顔を愛おしく思う。今さら起こしてどうこうする気にもなれず、二人を起こさぬよう、慎重にベッドに入ることにする。


 ――いずれは、二人が自分の妻になる。


 そんな器でもないのに、と内心自嘲しながら、それでも、彼自身が誓ったことを、うやむやにしてしまう気はない。


 ――彼女たちの居場所は、俺が作る。

 ――俺を支えてくれた――これからも支えてくれる、二人のために。

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