第558話:デートへGo!withファミリー(4/9)
『子供が落ちたぞ!』
その言葉を聞く前に、俺は走り出していた。
見ていたのだ、俺は。
ヴァイシィが、そばを歩いてきた女の鞄に顔をぶつけ、よろけて隣のフェルに倒れ掛かり、フェルがそのまま空中に押し出されてゆくさまを。
リノが悲鳴を上げ、フェルを引き戻そうとしてなのだろう、その肩をつかんだものの、そのまま引っ張りこまれるように体をかしげさせてゆくさまを。
橋から投げ出された二人の少女が、水の中に消えてゆくさまを。
ヴァイシィの腕をつかんでいたヒッグスが、しりもちをつきつつ何かを叫びながら手を伸ばす。
だがその先――リノは岸壁の向こうに消えていく。
まるで、スローモーションの動画を見ているようだった。
それなのに、少女二人分の水柱が立ち、音を認識するまで、俺は、まったく動けなかった。ようやく動けたのは、リノが一度顔を出し、一瞬だけこちらを見て、また沈んでしまったのを認識したときだ。
「リノっ⁉」
川といっても、両岸をレンガで固められた用水路のようなものだ。川幅は三メートルほどしかないが、川のほぼ真ん中に落ちた二人に、両岸からは手が届きそうにない。迷う間もなく、俺は川に飛び込んだ。リノとフェルが、絡み合うようにして沈みながら流されてゆくのを必死に追いかける。
幸い流れはゆっくりで、川の深さ自体も胸ほどまでだったのだが、ひざ下あたりの深さまで溜まったやわらかな泥が、極めて厄介だった。
柔らかいくせに絡みついてきて、歩こうとすれば足を垂直に抜かなければ動けず、ならばと泳ごうとしても脚に絡みついた泥で浮くこともできず、脚を抜くためにはもう片方の脚で泥を踏み抜き踏ん張るしかない。
そうこうしている間に、リノたちは流され、沈んでいく。
「くそっ――くそぉっ! リノ! リノ、顔を出せっ!」
遮二無二足を引き抜きながら、俺は必死に追いすがった。足元の泥を踏んで踏んで踏み散らかして、ようやく両脚を引き抜いた時にはすでに二人は沈んでいて、氷の塊でも背負ったかのようにぞっとした瞬間は、一生忘れられないだろう。
緑と褐色の、見通しのきかぬ水中で目を開けて、すりガラスを通したような視界の中で、リノの白いワンピースのおぼろげな輪郭を認識した瞬間、俺は無我夢中で水をかき分けた。
春の水は冷たく、重い。どれだけかき分けても進まないような気がして、リノの体に指が触れるまで、俺は永遠にリノに追いつけないのではないかという恐怖に囚われていた。だから指の先がリノのワンピースに触れたとき、「何があっても離すものか」という恐ろしいまでの執着心で、無理矢理に彼女を手繰り寄せた。
リノはフェルを、背後から抱きしめるようにしていた。その体をかき
少女二人を流れに逆らって確保するのは本当に大変だった。流れはとてもゆっくりだったのだが、それでもだ。
おまけに、抱き寄せた途端に二人がものすごい力でしがみついてきて、俺はたちまち体の自由を失った。もう少し――ほんの少しでも水位が高かったり、流れが速かったりしたら、俺は間違いなく、一緒に流されていただろう。
「リノ、大丈夫か?」
俺の胸にしがみついていたリノの背中に腕を回し、落ち着くまで頭をなでてやっていると、ややあってからいくぶん落ち着いた様子で、顔を首にこすりつけてきた。フェルの方も、俺の肩にしがみつくようにして咳き込みつつ、どうにか落ち着いた様子だった。
「怖かったな。でも、もう大丈夫だ」
本当は、自分自身がリノを失う恐怖に震える思いだった。けれど俺は、あえて微笑んでみせる。
するとリノが、急にぼろぼろと泣き出した。無事を確認した今になって、恐怖が湧いてきたのかもしれない。
「大丈夫だ。もう、大丈夫だ。リノ、よく頑張ったな。この子を助けようとしたんだろう?」
俺が抱き寄せる腕に力を入れると、リノは泣きながら何度もうなずく。いじらしいその様子に、俺は彼女を胸に抱き寄せた。
「……怖かったか? もっと早くこうしてできたらよかったな、悪かった」
しかしリノは、泣きながら顔を寄せ、しゃくりあげながら言った。
「だんなさま……だんなさま! ボク、こわかった……。でもだんなさま、きてくれた……。だんなさま、ボク、怖くて泣いてるんじゃないの……。ボク、うれしいの、うれしいの……!」
そう言って、頬をこすりつけてくる。それがあまりにも愛おしくて、それで――
――初めての深い口づけが泥の味というのは、なかなかない体験には違いないだろう。だが、それがのちのちまで残る思い出になるというのもなかなかあるまい。彼女には可哀想なことをしてしまったかもしれない。
それでも彼女は俺の肩に腕を回し、嗚咽を漏らしながら、俺の唇を受け入れてくれた。
橋の上のギャラリーによる拍手やどよめきに気づいたのは、しばらくたってからだった。
まずフェルを押し上げ、そして次にリノを押し上げる。水面から岸の上までは十センチほどしかないし、フェルはゲシュツァー氏が、リノもリトリィとマイセルがそれぞれ引っ張ってくれたから、大した問題はなかった。
リノを押し上げるときに、太ももにかけていた手が滑り、彼女の可愛らしいおしりで顔を押しつぶされるようにして再び俺が川に沈んだこと以外は。
問題は、俺自身が川から上がれないことだった。レンガは藻や苔でぬめり、足が掛からない。
加えて、リトリィが仕立ててくれた上等な服がたっぷりと水を含んで、どうしようもなく重くて俺の腕の力では這い上がれない。
加えて、この水路の深さの四分の一くらいが泥だったことも問題だっだ。
子供たちはかろうじて泥に足が付く程度の水深なんだけど、この泥が曲者だったのだ。
泥は柔らかく、立つこともできずに沈み込む。そのまま足は取られ、流水の力に呑まれて体は倒れ、しかし足はすぐには抜けず、結果として顔が沈む。リノたちが浮くこともできず沈んだのは、おそらくこの泥のせいだ。
泳げない上に、泥で足を取られて顔を浮き上がらせることもできない――リノの恐怖はいかばかりだっただろうか。毎朝俺と頭から水を被っているというのに、リノは俺が抱き寄せた途端に、ものすごい力でしがみついてきた。
リノとフェルの二人がかりでしがみつかれたあの瞬間、俺自身も「泳げない恐怖」をたっぷりと味わった。足が付く、胸までしかない川で、あやうく俺まで沈むところだったのだから。
日本にいたころは、夏に川で親子が溺れるというニュースをよく聞いたが、こういうことだったのかと理解できた。
やっぱり、学校にプールは必要だよ。最近は着衣水泳体験で「水に落ちたときに助かる方法」ってのを学校でやるらしいが、正解だ。
それはともかく、この泥が足を捕らえるから、思い切って川底を蹴ってジャンプ、なんてこともできない。水に濡れた重い服を着たまま、腕の力だけでぬめるレンガの垂直の壁を上るのも、容易ではない。だから、一向に上がれない。
どうしたものかとため息をつく。春とはいえ、水はとても冷たく、震えも止まらない。早く上がらないと、風邪をひいてしまいそうだ。
「どうにかならないんですか⁉」
リトリィもマイセルも、岸の上でひどくうろたえている。フェルミが俺を引っ張ろうとしてくれたが、お腹が膨らんできている彼女に、重いものを引っ張り上げさせるような仕事なんてさせたくない。
するとヒッグスが駆け寄ってきて、手を差し伸べてきた。
「おっちゃん、つかまってくれよ!」
だが大人の力でも、俺と水を含んだ服の重さを考えれば逆に引きずり込んでしまいかねない。だからリトリィたちに手を借りるのを
笑って断ると、「オレ、なんにもできなかった……!」と泣き出してしまった。
「オレ、妹が落ちたってのに……! おっちゃんはこんなになってんのに、オレ、なんにもできなくて……!」
「いや、ヒッグス。お前、ちゃんとすごい働きをしたじゃないか。俺は見ていたぞ、ヴァイシィも一緒に落ちそうになっていたとき、お前がつかまえていたところを。よくやった」
「でも……でも、せめてあのオバサンをつかまえてれば!」
「いい。気にするな。今は二人が無事だったことだけ喜べ」
リノともう一人の女の子が落ちる原因を作った女の方は、「私じゃないわ!」などと悲鳴を上げながら、一緒にいた男と逃げたそうだ。ヒッグスからそれを聞いたときには、そいつを探し出してぶちのめしてやりたい思いに駆られた。
……だが、その前に俺が川から上がれない。うーむ、どうしてくれよう。
「どうしてくれよう、じゃないって! おっちゃん、どうするんだよ!」
「春とはいえ水も冷たいしなあ。池まで流されてから岸に歩いて上がるしかないか? やりたくはないが……」
ちらりと、池の方に目をやる。
池を縁取る岸は、ヨシだかアシだかがわさわさと生えている。あれ、絶対に深い泥で覆われているに違いない。あの泥の中をのたうちながら岸に上がるなんて、想像もしたくない。
――そのときだった。
「――申し訳ない、娘の恩人をいつまでも水に浸けておいてしまって……!」
ゲシュツァー氏だった。娘さんがようやく落ち着いたのだろう。彼の服は娘さんを抱きしめたせいかすっかり濡れてよれよれだったが、気にするふうでもなく、俺に手を差し伸べてきた。
彼とリトリィに襟首辺りを引っ張られるようにして、ようやく俺の体は水の中から持ち上がり、かろうじて水中から脱出することができた。
だが、リトリィとマイセルが丹精込めて縫ってくれた服は川の水と泥ですさまじいありさまとなっていた。
おまけに泣き叫ぶようにリトリィが飛びついてくるものだから、せっかくの彼女のドレスまで、水と泥で酷いことになってしまった。
ヒッグスはともかく、ニューもリノに飛びついてやっぱり酷いありさまになっていた。だからまともなのは、ヒッグスと、一歩引いていたフェルミだけだった。
間違いなく、最初にして最悪を踏んだ結婚記念日だろう。ため息をつく俺に、ゲシュツァー氏が申し訳なさそうな顔で提案してきた。
「娘を助けてもらって本当に感謝する。私の家はこの近くだし、ぜひうちに来てくれないか。湯も着替えも用意させよう」
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