第364話:迫る危機

「ムラタさん落ち着いてください。あまり自我を感情を強く持たないでくださいムラタさんの意識が強くなりすぎるとこちらに引っ張られてしまって相手方の場所の探知が難しくなります」


 イズニアにそう言われ、俺は自分を落ち着かせるために何度も深呼吸をした。目の前に映る男――テーブルの向こう側に座る男は、腹が立つくらいに美形で、腹が立つ位に優しげで、腹が立つくらいに落ち着いている。

 その甘やかな美声は、どこのアイドルだよと思うくらいの涼やかさだ。けれどもリトリィから伝わってくるのは、その男に対する虚無の感情。


『ふむ……どうも誤解されているようですが、私は貴女を救いたいのですよ』

『そうなのですか。初めて知りました、お貴族様は愛し合う二人を引き裂くことこそが救いだと考えているのですね』

『……これは手厳しい』


 男は苦笑してみせたが、自信ありげな目は変わらなかった。


『わが館をご覧になられて、お気づきになられたことはございませんか?』


 男は、自信ありげに微笑んだ。

 しかし、気づいたことがあるか、と問われても、俺はたった今、リトリィと繋がったばかり。リトリィが動かす視線を一緒にのぞくように意識を走らせるが、何に気づかせようとしているのかがわからない。


 部屋の壁紙は明るいアイボリーを基調に、細かな花の模様が、淡い色調でうるさすぎない程度に華やかに描かれている。

 調度品も、それほど大きくはないが細部に細かな装飾がびっしりと彫り込まれ、壁紙に合わせてパステル調に彩色されている。


 傍らには、紺の地味なロングドレスに、金糸、銀糸の装飾が要所を飾る、装飾過剰なエプロンを身に着けた女性給仕が控えている。

 周りが明るいパステル調のため、紺の落ち着いたロングドレスが浮いて見えるようにも感じるが、それが真っ白なエプロンを引き立てているせいか、それほど違和感を覚えない。


 取り立てて成金趣味ということもなく、違和感を覚えるようなものもない。

 一体、何に気づけというのだろう。

 首をひねる思いでいると、リトリィが、答えを出してくれた。


『――獣人族ベスティリングが多い……ということですか?』

『ええ、そのとおり』


 男は、満足そうにうなずいた。

 言われてみて、初めて気がついた。

 女性給仕をよく見たら、原初プリムにほど近い猫属人カーツェリングであるペリシャさんのように、やや猫を思わせる容貌の女性だった。人間のようにつるりとした肌ではなく、リトリィほどではないがやや毛深く、頭の上には三角の耳が生えている。


『お分かりいただけたようで、実に喜ばしい。その通りです、私は獣人族ベスティリングたちの理解者として、彼ら、彼女らを保護しているのですよ』


 ……保護・・

 俺は、この男の言葉に、なぜか、言い知れぬ不快感を抱いた。

 

 いや、違った。

 リトリィが不快感を抱いているんだ、俺はその感情に影響されている――


『保護とはどういうことですか』

『貴女も、この街で暮らしているなら感じているのではありませんか? この街の、生きづらさを』


 男は大きく首を振り、両手を広げてため息をついてみせる。


『王都ほどではないとはいえ、この街――特に城内街の、貴女たち獣人族ベスティリングに対する差別感情は根深いものがあります。貴女も、それを肌で感じてきたはずです』


 ……男の言葉に、これまでにこの街で出会った人々とのことを思い浮かべる。


 絡んできた少年たち。

 俺を不審人物として尋問した警吏。

 今はすっかり常連になったとはいえ、それでもリトリィ一人で会わせたくないドライフルーツ売りの女。

 そして、奴隷商人やその一派の連中。


 その他、悪意のあるなしにかかわらず向けられる、大小強弱様々な差別感情。

 「犬の顔を持つ女性プリム・ドーグリングを伴侶に選んだ男」に向ける、興味本位の視線も含めて。


 ざわりとしたものが、胃の腑の下からこみあげてくる。

 気にしないようにしてきた、その感情が。


 その瞬間だった。


 ――あなた、呑まれないで。


 ふと、リトリィの想いが、波紋のように俺の心を揺るがせた。


 ――わたしは、だいじょうぶですから。あなたに愛していただけている、それだけでわたしは、十分すぎるほどしあわせですから。

 ――だから、あなたが呑まれないで。 


『ええ、そうかもしれません。けれどわたしは、わたしを愛してくださるたくさんの方にめぐりあえました。それで十分、しあわせです』

『それは、貴女がこれまで恵まれぬ生活をしてきたから、その程度で幸せだと錯覚してしまっているだけです。本当の幸せではありません』

『どうしてそのようなことをおっしゃるのかが分かりません。わたしはもう、十分なしあわせをいただいています』


 リトリィの言葉に、男は憐れむような微笑みを浮かべた。

 立ち上がると、ゆっくりとこちらに――リトリィに近づいてくる。


『それは錯覚だ、そう言ったはずです。貴女は不幸にも、幸せとはなんたるかを知らずに生きてきてしまった。だからわずかな喜びを、幸せだと錯覚してしまっているのですよ』

『錯覚……』


 胸にもやもやしたものが湧き上がってくる。

 自分が大切にしてきたものを否定された――その不快感。

 たとえようもないほどに渦巻く嫌悪感。


 けれど目の前の男は、勝ち誇ったような笑みを浮かべ、そして自分の――リトリィの顎に手を伸ばす。

 

『そう、錯覚です。貴女がいま感じている感情は、言うなれば精神的な疾患の一種。しずめる方法は私が知っている。私に任せなさい』


 そう言うと、男はリトリィの顎をくいっと持ち上げた。まっすぐ男に目線を合わせられる。


 ――ムラタさん……!


 唐突に、激しく強い感情がなだれ込んできた。

 これは……この感情は!


『あのような力のない男の元に送れば、貴女が不幸になる。私が貴女を必ず幸せにしてみせよう』

『ケダモノのメスに手を差し伸べて悦に入ることが楽しみだ、の間違いでは?』


 ――たすけて、ください……!

 

 ……恐怖!

 この男に、リトリィは恐怖を抱いている!

 気丈な台詞を浴びせかけつつ、けれども彼女は、この男を強く恐れている!

 くそっ! 俺はこんなにもいま、リトリィの恐怖を感じているはずなのに、どうすることもできないなんて!


『あれからずっと、貴女を手に入れることを夢見てきた。この半年近く、ずっと』

『や、やめて、くだ、さい……!』


 顔を背けてみせたが、しかし強引にまた、男のほうに顔を向けさせられる。

 抗おうとした手は、やすやすとつかまれた。


『貴女はもう、私のものだ。貴女がどのように私をじらそうとも、私もこれ以上、待つつもりはないのだよ』

『わたしはあのひとの妻です! すでにあのひとに全てを捧げた身です! あなたのものには――』

『ああ構わないよ。戸籍局も神殿も、寄付金ひとつでどうとでもなるものだしね。それに――』


 男の口の端が、いびつに歪められる。

 ああ、どうして、どうしておれはこう、いつもいつも、何もできないでいるんだ!

 こんなにも、こんなにもおびえるリトリィの感情が流れ込んでくるというのに!!


『そうやって気丈に振舞う淑女を下すのは、なににもまして楽しいもの。特に、すでに相手がいる女性を下すのは、ね。君はいつまで、そうしていられるかな?』

『わたしは、ぜったいに――』

『本当の幸せを――これから私が与える真の悦びを知れば、どんな女性でも自分から私のもとで生きることを選ぶ。ああ、きっと貴女もだ』


 やめろ……やめろ! やめてくれ!


 男の顔が迫ってきた、そう思ったとき、視界が唐突にブラックアウトする。リトリィが目を閉じたのだ――そう理解したときだった。

 

「わかりました!」


 出し抜けに、耳をつんざく声が我に返らせる。

 イズニアだった。


「分かりましたよ! ムラタさんのお相手の場所が!」 


 その瞬間だった。


 ――ごめん、なさい、ムラタさん……


 悲鳴にも似た悲痛な衝動と、唇に違和感を覚えたその直後、無理矢理何かを頭から引き剥がすような感覚と衝撃が、俺の体を貫いた。


「って、なにやってんのさァムラタ! 急に机から転げ落ちるみたいな真似なんか……!」

「なにをしてるんですか! せっかく場所が分かったっていうのに!」


 気がついたら俺は、アムティとマイセルに抱きかかえられるような状態になっていた。目の前には、妙なテンションで悔しがっているイズニア。


「なにって……なにか無理矢理、引き剥がされたような、突き飛ばされるような、そんな感触がして……」

「……お相手が、感覚を遮断したってことですか!? お相手のかた、法術の心得があるんですか?」

「……分からない……多分、そんなものは使えない……」

「法術が使えないのに感覚を遮断してきたって……」


 イズニアが絶句する。


「そんなこと初めてです……ふつうは――」

「そんなこと、どうでもいい……場所は! 場所はどこなんだ!」


 無理矢理黙らせるように、俺はふらつき考えがまとまらない頭で叫んだ。


「あ……え、えっと!」


 イズニアが、下手くそな地図のようなものを書き始める。

 リトリィとつながっていれば、本来はそんなもの必要なかったそうだが、リトリィのほうから遮断されてしまった以上、仕方がない。


「……おい、これは――!」


 イズニアが描き上げる前に、俺はその紙を取り上げる。


「ああっ! まだ、書き終わって――」


 これ以上描く必要などなかった。

 俺はこの場所を、十分に知っていたからだ。


 四角い断面の塔のそばにある、広大な屋敷。


「……あの貴族の家だったのかよ!」

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