第117話:私が会いたかったんです

 ぽろぽろと涙をこぼし続けるマイセルに、俺は仰天し、どうしていいか分からずうろたえてしまう。


 励ませばいいのか?

 慰めればいいのか?


 いやいや、なぜ泣くのか分からないのに、励ますも慰めるもないだろう!

 そもそも、なぜ急に泣き出した?


 何か俺が、変なことを言ったのか?

 ――え?

 つまり俺と仕事をするのが嫌ってこと?


 ……いや、きっと違う……と思いたい。


 最後の台詞を、脳みそをフル回転して解釈する。


 これは――あれだろうか。

 ひょっとしてマイセルは、何らかの理由があって、大工になることを望まれていないということなんだろうか。

 ――たとえば、兄のハマーが家業を継ぐから、マイセルは大工になってはいけないとか?


 それとももっと単純に、女性で職人を目指すリトリィの方が異端で、女性が大工のような職人を目指すのは、みっともないとか、はしたないとか、そういうことを言われたことがあって、それを思い出して悲しくなった?


 ただ、なかなかそれを聞き出すような気にはなれなかった。

 ぽろぽろと涙をこぼし続ける少女のそばで、ただ、そばにいてやることしかできなかった。




「さ、さっきはごめんなさい!」

「いいよ。いろいろあるだろうし、気にしてなんていないから」


 しばらくして落ち着いた彼女は、袖でごしごしと顔を拭い、まだ赤い目で、しかし笑ってみせた。


「今日は本当に、ムラタさんとお話ができてよかったです!」

「こっちも楽しかった、ありがとう」


 涙のあとが痛々しいが、それでも、なんとか笑顔を作れるだけの心の余裕はできたということだろう。ひとまず、よかった。

 ……傍でずっと何もできずに座ってただけだけどな、俺!


 だってしかたないだろう!? これがリトリィなら何とかしようと思って肩を抱いたり抱きしめたりしてたよ。

 けれど相手は取引先の棟梁とうりょうの子供、それを抜いたとしても十六歳の女の子、なにより赤の他人! 俺に何ができたっていうんだ!


 というか泣いている女の子に掛けるべき最適な答えをだれかホントに教えてほしかった、「女の子なら任せとけ」な三洋や京瀬らがどうして俺と一緒に異世界に来てくれなかったのか、本当に彼らの力が欲しかった!!


 ……と、笑顔の裏で自己嫌悪。リトリィとの関係が前進して変われたと思っていたけれど、やはり俺は何も変わっていないらしい。ヘコむ。


「ムラタさんって、本当に、変わった人ですね」

「……また言ったな?」


 さっきまで泣いていたくせに、もう減らず口をたたくとは。

 まあ、元気を取り戻すことができたのはいいことだ。


「大人をからかうもんじゃないぞ?」


 ちょっと低めの声を出してみせたが、むしろくすくすと笑われてしまった。似合わない、という評価付きで。


「だって、本当に変わってるんですもん」


 まあいいや。彼女が心から笑顔になれたなら、心おきなく家に帰ることもできるだろう。おそらく、あと一刻ほどでお昼の時間だ。彼女も、家で食事の手伝いがあるんじゃないか?


 そう促すと、やはりというかなんというか驚いた様子で、急いで家に帰らないと、と言って、慌ててパンケーキの残りにかぶりついた。こういう姿をみると、やはり微笑ましい。


 パンケーキを食べ終えて、ジャムの付いた指先をなめている彼女の頬に、赤いジャムが付いている。それを手ぬぐいで拭ってやると、少女は恥ずかしそうに顔を伏せて礼を言った。かと思ったら、勢いよくベンチから立ち上がる。


「あの、ムラタさん! ごちそうさまでした!」


 スカートの裾を持ち上げ腰を落とし、見た目は淑女っぽく、けれど子供っぽい元気な声で礼を言うと、マイセルは街路を駆けて行った。

 道を曲が――りかけて、立ち止まり、少し戻ってくると、こちらを見る。


「また、お話、したいです!」


 そう言って手を振ってくる。こちらも右手を挙げてやると、嬉しそうに両頬に手を当てて飛び跳ね、そして角の向こうに消えていった。


 ああいう元気な少女が落ち込むのを見るのは、こちらも胸が痛い。やはり、元気な姿でいるのが一番だ。

 結局、なぜ泣いていたのか、その理由は分からなかった。けれど、『大工を目指したいと言ったことをおかしいと思わないか』という言葉から、様子がおかしくなってきていた。


 あの元気な少女が、元気をなくす原因。

 誰か、それを取り除いてやれる人がいるといいんだが。




 さて、今日の残り半日、どうしよう。立ち上がって歩き出したところで、そういえば、と気づく。

 なんとなく、翻訳の言葉が無くても、意味が理解できる言葉があることに。


 店主の呼び込みの声、通りがかりの挨拶の言葉。

 日本語の言葉ではなく、現地の言葉が、しみとおるように理解できる部分がある。――理解部分があるのだ。


 ああ、これが。

 これが、言葉が分かる、ということなのか。

 例えば日本人で英語もペラペラの人は、英会話が始まると、して会話をするのだという。

 そして日本語を受けると、今度は脳内を日本語に切り替えるのだそうだ。

 それがいま、ごく自然に感じられたのだ。


 挨拶の言葉。

 客引きの言葉。

 物の数量、値段。


 もちろんすべての言葉ではないが、一部の言葉が、翻訳の言葉を待つことなく、すうっと理解できるのだ。

 リトリィと一緒に、毎晩言葉や文字について勉強してきたことも、大きいかもしれない。


「……これは、面白いな」


 いままでどうして気づかなかったのだろう。

 この翻訳首輪をつけている状態というのは、常に正答を読み上げてもらい続けるリスニングのようなものだ。

 市場にいれば、誰かがまた、同じようなことをしゃべり始める。ランダム再生される英会話の用例集を聞き続けるようなものだ。レッスンの場として、実に都合がいい。


 近くの人物の会話をトレースし、何をしゃべっていたか、現地の言葉を真似て口に出してみる。

 自分の言葉の意味が分からなくても、自分の言葉に翻訳が付いて耳に入ってくる。客がしゃべっていた内容と微妙に食い違うときは、微妙に発音が違うのだろう。


 ――面白いぞ、これ。


 幾度となく繰り返される現地語の内容が、翻訳を待たなくても、少しずつ理解できるようになってくる。

 すると今度は、一拍ほど遅れて頭の中に流れ込んでくる日本語が、妙に煩わしく感じてくるから不思議だ。


 これはいい。

 どうして俺は今まで、これを試さなかったのか。


 ――結局、その日の午後は市場のベンチに座っていた。暗くなって市の片付けが始まるまで、ずっと、人々の会話を聞きながら口真似を続けながら。




 翌朝、相変わらずの抜けるような青空のもと、セルフミュージックラジオ体操。吐く息が白く凍り付くこの寒さの中でも、体を動かすのは気持ちがいい。

 しかも、昨日に比べて今日は体の節々が痛くないような気がする。やはり適度に体を動かしておくと、筋肉痛の治りが早まるのかもしれない。


 しかし、街での生活ならばこんなに早く起きる必要もないんだが、四カ月、この世界で暮らしてきて、もうすっかり体が順応してしまった。夜の明かりの確保にコストがかかるから、日本で暮らしていたよりもずっと早く就寝しているのも大きいだろう。


 両手を絡めて裏返し、思いっきり背伸びをする。

 ああ、健康的な朝だ。散歩にでも出かけよう。




「ムラタさん! おはようございます!」


 とりあえず、昨日美味しかったパニーニらしきパンの屋台で朝食をと思い、門外街の城門前広場まで来たときだった。きょろきょろと何かを探しているような様子だった少女が、こちらに気づいたように、大きく手を振ってきた。


「……マイセルちゃ……さん?」

「はい! マイセルです!」


 少女は元気よく返事をすると、笑顔でこちらに駆けてきた。本当に、子犬のような女の子だ。


「よかった! ムラタさん、探しても全然見つからないから、今日は来ないのかなって思っちゃいました!」

「……俺と会わなかったら、どうしていたんだ?」

「城内街まで探しに行ってたと思います」


 あっけらかんと言う。


「……いや、それはどうして?」

「お父さんの伝言を伝えるためです! ええと、今日はちょっと人と会わなきゃいけないから、打ち合わせは夕方、十二刻ごろに『山犬軒』で、だそうです」

「『山犬軒』……?」

「お食事処です。ちょっとしたお酒もありますよ?」


 肝心なことは伝えた、とばかりに、彼女が満面の笑みで俺を見上げる。


 ……そうか、忘れていた。

 マレットさんと打ち合わせをしたい、そのことを伝えておいてくれと、マイセルに頼んでおいたんだった。だからわざわざ彼女は、ただその返事を伝えるためだけに、この朝の時間を使ってくれたのだ。


 日本ならスマホで、メールなりSNSなりを使って連絡を入れればそれで済んだのだろうが、この世界にそんな便利なものはない。誰かの連絡を受け取ろうと思ったら、直接本人と会って話すか、人を使って伝えるしかないのだ。


 これまでは山で暮らしてきたから、そんなことに不便を感じることは無かった。けれど、街で暮らすということは、人間関係も大きく広がるということだ。画面をタップして即座に連絡完了、というわけにはいかない。電話すらないのだ。


 仮にこの街で事務所を開いても、そういう連絡のためだけにも、人を雇わなければならなくなるのかもしれない。

 これは前途多難だな。


「わざわざマレットさんの伝言を伝えるためだけに、こんなに早起きをしてくれたのか。すまなかったね」

「いいえ?」


 茶色のくりくりした目を見開いて、彼女は不思議そうに首を傾げた。


「私が会いたかったんです、ムラタさんに」

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