第116話:情熱
結局、化粧板の件についてはまだなにやら納得しかねるものはあったようだが、それでも理解はしてくれたようだ。
ところで、実は合板は接着剤を使う関係上、接着剤の性能が極めて大きな意味を持つ。
特に日本の家の外壁に使われる「
いいことづくめのように見えるが、無垢材と違って合板は、接着剤が劣化するとばらばらになってしまう。木材は、水に濡れさえしなければ千年でも耐えうる素材なのだが、接着剤はそうはいかない。必ず木よりも早く劣化する。現状では、接着剤の寿命は、環境にもよるが二十~三十年ほどだと言われている。
だからこそ、合板は高品質の接着剤が欠かせない。今も、研究が進められているのだ。
「……じゃあ、さっきの製材屋さんの合板は?」
「水に弱い接着剤である
「思っていたものと違うっていうのは、そういうことだったんですね?」
耐久性がある接着剤といったら一応、心当たりはある。山の家の屋根修理に使った、あのアスファルト接着剤だ。アスファルトは道路に使われていることからも分かるように、過酷な環境に耐えうる性能を持つ。
だが、問題がある。
「アスファルトのにおいって、かいだことあるかい?」
「はい、ええと、家の屋根材を接着したりするときに使うものですよね?」
どうやら、山の家が特殊なのではなく、一般的なもののようだ。よかった、話が早い。
「……えっと、ツンと鼻を刺すようなにおいがします」
「そうなんだ。毒性は低いが、だからといって体にいいというものじゃない。それを外壁に使う板、全部に塗りたくると、どうなると思う?」
「……ええと、いつも、そのにおいがする……ということですか?」
大正解だ。
道路に使う程度なら風が吹き散らしてくれるだろうが、家の壁に使うとなると、常に家の中に有毒成分がこもることになる。シックハウスの出来上がりだ。
「……だから、期待したんだけど……構造用合板の夢は消えた。どうしようかな、ってね?」
「む、難しいことを考えてるんですね、ムラタさんは」
「難しいわけじゃないさ。ただ、できること、できそうなこと、できないことを切り分けているだけで」
歩きながら太陽を見上げ、ああ、お茶の時間を逃したか、と気づく。製材屋であれこれ見て回っているうちに、もうそんなに時間がたってしまったのか。
……マイセルがとても楽しそうに見て回っていたから、まあいいか。やはり大工の娘だ、ああいう工場のような場というのは、興味を惹かれるらしい。
ドレスが
「マイセル……さん、何か食べるかい?」
屋台で、ジャムやらはちみつやらといったものをたっぷりのせた、パンケーキのようなものが売られているのを見て、声をかける。
彼女もすぐに気づいたようで、目をキラキラさせながら嬉しそうにうなずいた。
「可愛らしい彼女さんだね」
「いえ、取引先の娘さんです」
「なるほど、接待かい?」
「そんなところで」
屋台のおかみさんは、まかせときなとウインクしてみせ、パンケーキに半分溶かしたようなバターをベースに、はちみつと、色とりどりのジャムをたっぷりとのせ、クラッシュナッツをパラリとかけてくれた。
俺の分には、何もつけずにもらうことにする。
はちみつやジャムが零れ落ちそうなボリュームに、マイセルはきゃあきゃあと大はしゃぎだった。おかみさんに全力で礼をしてみせるのがまた、子供っぽくはあるが微笑ましい。
「ありがとうございます! こんなの、はじめて!」
あれだ、日本でいうならでっかいパフェみたいな感じだろうか。フルーツも生クリームもアイスクリームもないけれど、とりあえずなかなかのボリュームがあることだけはよく分かる。
ストリートのベンチに腰掛け、どこから食べたらいいかと迷いながらかぶりついているマイセルに礼を言う。
「今日はありがとう、いろいろ参考になったよ」
「な、なにがですか?」
驚いたようにこちらを見上げる彼女に、俺は正直な気持ちを伝える。
「いや、家や街の特徴。街の歴史、法的な話。ためになる話を聞くことができたからね。何より、将来は自分で、理想の家を建てたいという夢の話――」
ぽかんと俺の顔を見上げていたマイセルの頬が、徐々に赤く染まっていく。
「マイセルちゃ……さんは、
「え? ……あ、ええと、……はい!」
大きく、嬉しそうにうなずくマイセル。
「俺も、あの造りは結構好きなんだ」
俺の言葉に、「本当ですか!」と、マイセルが身を乗り出す。
「まあね。一軒一軒表情の違う、あの木骨と
「ですよね! だから私、この街の街並みが大好きなんです!」
そう言って、少し離れた家を指さす。装飾としての×型の木骨が並び、なかなかおしゃれな家だ。
「あの家、何年か前に、お父さんが補修したんです。火事で一部焼けちゃって、いっそ壊そうかって話になったんですけど、お父さんが、『俺の爺さんが建てた家だ、俺が直す』って」
――火事で焼けた? とてもそうは見えない。しっかりとした家に見える。
「ほら、二階の西側半分くらい、木骨の色が少し、違うのが分かりますか? あの部分が、お父さんが直した部分です」
なるほど、たしかに二階の西側半分くらいは、木骨の色がやや明るく感じられる。木が若いということか。
「お父さん、焼けて壊れちゃう前の形通りに直したんですよ。曲がった木を使ったカーブのところも、同じような曲がり具合の材木を探してきて」
その時のエピソードを、実に楽しそうに話す。トラブルになったことも含めて、彼女にとってはよい思い出になっているようだ。父親に対する誇り、家造りへの興味――建築への情熱。
聞きながら、俺がパンケーキの残りを口に放り込むと、マイセルは初めて、自分がずいぶんと長く語っていたことに気づいたようで、真っ赤になってうつむいてしまった。
一生懸命、パンケーキにかぶりつき始める。
「――さすが大工の娘さんだと、感心したよ」
いずれ、もしかしたら君と、君のお兄さんと一緒に、仕事をする日が来るかもしれないね。そう言って笑いかけると、彼女は驚いたように俺を見上げた。
「……私が、ムラタさんと、お仕事を、ご一緒に……ですか?」
「俺がこの街に事務所を開いたら、という仮定だけどね」
彼女が大工で、俺が建築士として設計をして。
家に対するこの情熱。彼女もいずれは、兄に負けない大工になるのだろう。この元気な少女が、小生意気な兄と共に金槌をふるっている様子が目に浮かぶ。
いや、大工になるころには、二人とも、もっと大人びているのだろうけれど。
マイセルは、なぜかついてもいないジャムを拭うように、急に何度も口元に指を滑らせ、その指先を確認しはじめる。安堵するように肩で息をし、そして、また俺の方を見る。
「あ、あの!」
マイセルが、何かを言おうとして、しかし言葉にならなかったようで口をぱくぱくさせ、そしてまたうつむき加減になる。
「ああ、
彼女の手元のパンケーキを指しながら笑ってみせる。
これはお世辞でもなく本当だ。興味・関心の志向が似ている人と話をするというのは、それだけでも楽しい。
まして、自分の姪っ子を思い起こさせる女の子。同世代の女性だと緊張して話せないかもしれないが、こう、たいして女性を意識しなくて済むような女の子が相手だと、いろいろと微笑ましくていい。将来の夢についても、つい応援したくなる。
リトリィ相手にはいろいろと上手くいかなかったものだが、彼女はやっぱり年齢が推測しにくい見た目のうえ、言葉遣いが丁寧で大人っぽいところがあるから、どうしても緊張してしまっていたのだ。
こうして子供だと分かり切った相手なら、緊張しないのがいい。
彼女は、俺の顔と手元のパンケーキを忙しく見比べ、そして、もう一度、俺を見上げる。
「……そ、そうじゃなくて……。あの……」
何か言おうとして、瞬時ためらい、しかし今度は続けた。
「お、女の子が建築とか、大工の話とか……。みっともないとか、はしたないとか、思わないんですか? 職人を目指したいって言ったこと、おかしいって、思わないんですか?」
――今度は俺が固まる。
どういう意味だ?
リトリィは獣人で、女性で、そして兄貴二人も親方――親父殿も認める、優秀な鍛冶師見習いだ。城門の門番も、彼女には敬意を払っていた。つまり職人という道は、女性にも門戸が開かれているはず。意味が分からない。
「……ごめん、どうして、そう思うんだい? 素敵なことじゃないか」
マレットさんだって、自分の娘が「父親のような大工になりたい」と言ったら嬉しいだろうに。
しかしマイセルはぽろぽろと涙をこぼし始めると、うつむいてしまった。
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