第181話:夜の雨の底から

 今夜はめずらしく、しとしとと雨が降っている。

 おかげで、いつもなら差し込んでくる月明かりもない。

 大きな明かり取りの屋根窓の向こうも、漆黒の闇が広がるばかり。

 寝室は闇に沈み、いつもと違って、自分の手元の様子も、何も分からない。


 彼女はめずらしく、ベッドの中で、俺に背を向けている。

 おかげで、いつもなら熱い吐息を交える夜も、静かなものだ。

 大きな瞳に月を宿して微笑む彼女の姿はなく、丸めた背があるばかり。

 寝室は沈黙に沈み、いつもと違って、雨音とかすかな吐息以外、何も聞こえない。




「……リトリィ」


 呼びかけても反応はない。

  たわむれに手を伸ばし、その尻尾を触ってみる。


 ――反応しない。

 尻尾の根元、その裏側――彼女の敏感な場所に触れても、尻尾で払うような事すらしない。


 彼女を背中側から包み込むようにして寄り添うと、すこしだけ体を震わせたが、しかしやはり、無反応だ。


 そっと、その耳の付け根に息を吹きかける。

 初めて反応を見せた。

 やはり、相当に我慢しているのだろう、反応すまいとして。


 抵抗のないことをいいことに、しばらく、無言で彼女の肢体をまさぐる。

 ほとんど反応はなかったが、しかし俺はやめなかった。


 やがて、切なげな吐息を漏らし始める。

 ――嗚咽おえつと共に。




「……ムラタさん」


 結局彼女は、ずっと静かに、泣いていた。


 ……我ながら、最低だった。

 表情もはっきりと読めぬ闇の中、無抵抗をいいことに、彼女を抱いた。

 ――抱いてしまった。


 ようやくこちらを向いて、俺の懐に顔をうずめるようにして、いつもの素直なリトリィになった――そう思ってしまった自分が、本当に愚かだった。


「こうやってお情けをいただけたのですから、……やっぱり、赤ちゃん、欲しいんですよね……?」


 その言葉に、夕方の、けんかじみたやりとりを思い出す。

 マイセルと別れたあと、夕食の準備中も、食べるときも、食後の文字の練習中も、そしてベッドに入っても、リトリィは終始、無言だった。

 俺と目を合わせようとせず、ただ、思い詰めたように黙っていた。


『だったら、リトリィは気にしないっていうのか? 俺がマイセルを抱いても――』


 あの、俺の不用意な言葉が、彼女をいたく傷つけたのは間違いない。

 だが、マイセルを迎え入れるということは、必然的に、彼女とも関係を結ぶということだ。


 先日の一夜で関係がなかったこと――俺とマイセルとの関係は、まだだということを、マレットさんたちは理解したはずだ。


 ならば今度は、子作りとはどういうものか、それなりに含ませて送り出してくるに違いない。


 俺自身、マイセルのことが嫌いなわけじゃない。あの、夢に向かって一生懸命になれる朗らかな少女を、嫌いになれるわけがない。少々体格は子供過ぎるけれど、それでも、もし彼女が一糸まとわぬ姿で迫ってきたら、理性を保たせる自信はない。


 以前の俺がリトリィの豊満な肉体の誘惑に抵抗できたのは、それはを知らなかったがゆえに、女性に対して、ある種の恐怖心を抱えていたからだ。それがなくなった今の俺が、耐えられるわけないじゃないか!


「……別に、耐えなくたっていいじゃないですか」


 リトリィが、鼻を鳴らしながら、か細い声で言う。


「ムラタさんが、マイセルちゃんを選ぶというのなら……それでいいじゃないですか。あの子なら、わたしなんかとより、確実に、絶対に、赤ちゃんが望めますから!」


 ……ああもう! また面倒くさいことを!


「俺は! 君が好きなんだ! それからな、子供をつくるなら、俺は君の子供が欲しいんだ! 誰が相手でもいいってわけじゃない!」


 つい強い口調で言ってしまった俺に、リトリィが弾かれるように身を起こす。


「どうせわたしはあなたと違うんです! わたしはもう、いただいた機会をふいにしてしまっているんです。きっとこれから、何度愛されても、赤ちゃんなんてできません! あなたの赤ちゃんなんて産めません!」


 リトリィの、悲痛な叫び。


「いま、こうして愛していただけたって! どれだけ愛していただけたって! わたしじゃ、絶対に赤ちゃんなんて産めないに決まっています!」


 間髪入れずに俺も身を起こす。

 今の発言は――それだけは言わせっぱなしにするものか!

 彼女を抱きしめ、その耳元に、俺の想いを届けるように。


「いいや、できる! 絶対に産める!」

「無理です!」


 そう叫んだリトリィの口の端が歪んだ。

 首筋に感じる彼女の口の端は、歪んでいた。

 ――笑っていた。いびつに、ひくつかせるように。

 首筋を伝う熱い感覚は、――彼女の流す、涙だろう。


「だって、あなたはヒトで……。わたしは、獣臭い女ベスティアールで……。ムラタさんだって、それくらい、分かって――」

「知るかよっ!!」


 反射的に彼女の両肩を掴むと、揺さぶるように俺は叫んだ。


「俺が君を選んだんだ! 生涯をかけて君を愛すると誓ったんだ!! どうしてそれを分かってくれないんだ!!」


 ほとんど表情の見えぬ闇の底で、しかしわずかな光を宿す瞳が、歪む。

 ――ああ、その美しい瞳が、また、涙の泉の底となって沈んでいく。


 どうして俺は、彼女の涙を、愛する人の悲しみを、止めてやれないのだろう。


「……だって、わたしじゃ、赤ちゃんなんて――」

「だからそれが違うんだ!」


 彼女の柔らかな躰を、折れよとばかりにかきいだく。

 

「――俺は、俺の隣に、君にいて欲しいんだ! ずっと君と一緒に、生きていきたいんだよ! 頼むよ、分かれよ! 分かってくれよ!!」


 苦し気に首を振るリトリィに、俺は、自分でもつたないと思いながら、それでも、必死に声を絞り出す。

 ――それなのに。ああ、それなのに。


「分からない! 分かりたくない!」


 リトリィは、俺の言葉など受け入れようとしなかった。首を振り、絶叫する。


「わたしは産みたいの、大好きなあなたの赤ちゃんを産みたいの!! なのに産めないの、わたしは! だってわたしはベスティ――」

「いい加減にしろっ!!」


 泣き叫ぶ彼女を組み敷いて、そして、抱きしめて。

 リトリィと、二人して、泣きながら。


 ――二人して、泣きながら腰を振っていたさまは、はたから見れば、実に奇妙で、滑稽なありさまだったんじゃなかろうか。




 とんとんとんとん。

 軽快な包丁の音が、キッチンから聞こえてくる。

 ことことことこと……スープの鍋からは、沸き上がる軽やかな音。


 最近完成した、フリルとレースがたっぷりあしらわれた、愛らしいエプロンだけを身に着けた彼女の尻尾が、楽しげに揺れている。

 雨上がりの明るい朝日の中で、エプロンのたっぷりのフリルに縁どられるようにしている彼女の豊かなヒップが、彼女の鼻歌に合わせて揺れている、その調子に合わせて。


「あ、おはようございま――」


 振り向きかけた彼女の口をとらえて、それを、自分の唇でふさぐ。

 ――たっぷりと、時間をかけて。


「――おはよう」

「……もう、いつのまにそんなに、お上手になったんですか」

「優秀な教師を相手に、毎日励んでいるからな」


 そう言って、まな板を覗き込む。


「おっ、ベーコンじゃないか。今朝は奮発するんだな」

「一昨日の炊き出しの、残り物ですよ?」


 くすぐったそうに、胸元の俺の手を払う。


「そうか、役得だな」

「ふふ、そうですね」


 微笑んだ彼女が、ぴくりと耳を震わせる。


「……もう。いまは包丁を持っていますから――」


 言いかけた彼女の唇を、もう一度ふさぐ。

 ゆっくり、右手の包丁をシンクに置かせる。

 彼女の尻尾が、俺の腕に、からみつく。


「……パンが焦げちゃっても、知りませんよ?」

「香ばしいのも、悪くない」

「もう……が当たっていますよ? 本当に朝からお元気なんですから」


 下着くらいはいてください、と少し膨れてみせた彼女は、しかし尻尾をゆらゆらと持ち上げてみせた。自身も、何も着けていない尻を、見せつけるように。




「昨夜、あれだけ泣いたのにな」

「あなただって」


 リトリィから渡された、すこし焦げてしまったパンをちぎってスープに浸しながら、ともに笑い合う。


 山の工房で暮らしていたころ、互いを想い合っていたはずなのに――否、想い合っていたからこそのすれ違いで、傷つけあってしまったひと月間。


 昨夜も、下手をすればその再来のような、そんな口論だったはずだ。

 それなのに、こうして、朝には笑い合いながら食事ができる。


 山にいたころは、彼女が何を考えているのか、知りたかったにもかかわらず聞くのを恐れていた。そのくせ独善的な考えで行動し、そして彼女を泣かせた。


 しかし、今は違う。


 どんなに口論をしても、彼女の想いを聞き、彼女と肌を重ねることで、お互いに愛し合っている、それを互いの肌で、ぬくもりで、確かめ合うことができる。

 互いに愛し合っていると確信できるから、こうして朝にはまた、共に笑顔を交わすことができる。


 おそらく、子供ができるまでは、彼女はずっと不安を抱え続けることになるだろうし、同じような口論を重ねることになるのかもしれない。泣かせてしまうことも、何度だってあるのだろう。


 この、焦げのぶんだけ苦みのあるパンのように、これからも、苦い思いを重ねることはあるのだろう。

 先の見えぬ闇の中、雨に打たれるように途方に暮れる日々も、あるかもしれない。


 けれど焦げの奥に甘みがあり、そして明けぬ夜も、上がらぬ雨も無いのだ。


 もう、以前の俺たちではない。

 どんな困難があろうとも、立ち止まらねばやがてその先にたどり着く。

 そうだ。自信をもって、言える。


「リトリィ」

「はい?」

「――愛してるよ」


 ぶじゅ。


 熱々のスープにパンを浸そうとしていたリトリィが、スープ皿に、微笑みを浮かべたまま、パンを突っ込む。

 ――指ごと。


 一瞬の間ののちに。


 彼女の甲高い悲鳴と、水差しを取るために慌てて立ち上がろうとして椅子から転げ落ちた俺のヒキガエルが潰れるような悲鳴が、重なった。

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