第327話:塩対応(物理)
寝室は天井裏の部屋、一つきり。ベッドも、クイーンサイズをさらに上回る巨大なものが一つきり。
それがどんな夫婦生活をもたらすかというと、一日ごとに寝る相手を変える、などというようなことはできないわけで、毎晩、二人を相手にするわけだ。
ただ、妻二人の間では、結婚後数日でなにやらきまりができたらしい。
一回目はリトリィ、二回目はマイセル。これが大原則となった。で、それ以後は状況に応じて臨機応変に。
――といっても、淡白なマイセルと、積極果敢なリトリィとでは、必然的に回数も圧倒的に変わってくるわけで。
マイセルは大抵、一度で満足し、あとは妙に寝付きが早いことも相まって、ぐっすりと朝まで寝ている。隣でどれだけリトリィが嬌声を上げようとも、ベッドがきしもうとも。
それをいいことに――と言っていいのだろうか、マイセルが寝たあとはリトリィの独壇場だ。大体、青い月が中天に差し掛かるころまで、延々と。
「……どうか、しましたか?」
リトリィが、そっと身を起こす。月明かりの逆光の中で、ふわふわの体毛による、銀の輪郭をまとうようにして。
「いや、コンペ――公募のことを、ちょっとね」
「そのお話は、もう、お受けすることで決めたのではなかったんですか?」
そう言うと、目を細めてぺろりと俺の頬を舐める。
「わたしのことを大事にしてくださるのはうれしいですけれど、わたしは、あなたがおしごとをがんばっているのを見るのが好きなんです」
「……そうか」
そのまま唇にまで舌を伸ばしてきた彼女の顎に手を添えると、改めてこちらから唇を重ねる。
彼女は期待してくれているのだ、俺が活躍することを。
正直言うと、不安が大きい。なにせ、未知の仕事だ。それを、一から設計する。
いっそ、マレットさんに弟子入りするくらいの覚悟で臨むほかあるまい。
だが、その経験はきっと、今後の俺の役に立つはずだ。だったら、多少回り道をしてでも、リトリィの期待に応えるのが、男ってもんだろう。
「――じゃあ、頑張らないとな」
「……はい、がんばり、ましょう……?」
目をとろんとさせる彼女にもう一度口づけをすると、今度は俺が身を起こし彼女を抱きしめ、その毛布のようにふわふわな体を、もう一度組み伏せた。
「……でかい屋敷だな?」
「だって、お貴族様ですよ?」
「うちの百倍は入りそうだな」
「百は言い過ぎかもしれませんが、でも広いですね」
教えられた住所にやってくると、延々と続く青銅の格子に、まず驚かされた。
その奥には、手入れの行き届いた緑の庭園が広がっている。幾何学模様に刈り込まれた茂みと、高さを揃えられた並木。
「きれいなお庭――ムラタさん、見て! 噴水ですよ!」
屋敷までまっすぐ伸びる白い石畳。
その先には大きな円形の池、その真ん中には噴水が見える。
その池から何本も放射状に延びる
さらにその奥には、これまた大きな石造りの屋敷が建っていて、素晴らしい景観を作っている。説明しきれない自分のボキャブラリーが貧相なのが悔やまれる、白い壁に赤い屋根が美しい館だ。
マイセルが目をキラキラさせて見入っているのは、奥の屋敷だ。
何もかも同じようなサイズ・間隔で作られている統一された外観、何より、先端の尖ったアーチ状の外壁と大きな窓がずらりと並ぶデザインが、かっこいい。
「ムラタさん、ご存じですか? このお屋敷、今から百五十年くらい前に建てられたお屋敷なんですよ! ガーティッシュ様式――あの、先端の尖ったアーチと、屋根に並ぶ小さな尖塔が、あの時代の流行だったんです」
百五十年前!
なるほど、さすが石造りの建物だ。風雪を耐え、今なお現役というわけか。
さらに、その屋敷の向こう側に見えるのは、高さにしておよそ三十メートルほどだろうか。無骨な石造りの塔がそびえ立っている。
城壁にくっついているわけでもなく、独立して立つその塔は、装飾もほとんどなく、他の建物と比べてみても明らかに年代が古いように感じられる。
塔というと、城壁の要所要所に設けられたものとか、あるいはピサの斜塔のような丸みを帯びたデザインを思い浮かべるのだが、見たところ、ただの直方体のブロックを立てたような姿だ。
てっぺんの鐘のある場所だけ、先端の尖ったアーチ状の構造物と小さな尖塔が並んでいるところを見ると、きっとあそこだけ、後の時代――おそらく、この屋敷が建てられたころに増築されたんだろう。
そう、一番上の増築されたと思しき部分には、大きく傾いた鐘が見える。かなり大きい。
なんだ、あの塔はこの貴族の館のモノだったということなんだろうか。
自分のうちのものだから、いい加減、直したくなったということか?
それとも、自分のうちの近くに壊れかけの塔があってはおちおち寝ていられないから、建て直す気になったということか?
それにしても、こんな城壁に囲まれて土地利用の制限も厳しそうな城内街で、これほど大きな庭園を抱えることができるなんて。
お貴族様ってのは、相当な金持ちなんだな。
「……ムラタさん、こちらのお屋敷に住んでるかたは、お貴族様ですよ?」
俺の言葉に、マイセルが不思議そうな顔で答えた。
「お貴族様なんですから、お屋敷も大きくて当然でしょう?」
当然のように言われて、そんなものかと頭をかく。
城壁に囲まれたこの街の中で、まるで美術館だか博物館だか、そんな建物を前にすると、この屋敷で人が暮らしているなど、どうにも信じられない気分だ。
だが、考えてみれば、昔の宮殿とかをそのまま使った美術館や博物館なんて、ヨーロッパはもちろん、日本にだっていろいろあるじゃないか。
日本にいたときの俺にとっては「昔」の建物でも、かつては現役だった時代があったわけだ。つまり俺は、その「現役」の時代にいる、というだけだ。
「おかしなムラタさん」
マイセルの笑顔に、これがこの世界でのリアルなのだと、改めて自分に言い聞かせる。
カネはあるところにはあるもんだ――差をまざまざと見せつけられる思いだが、気を取り直し、俺は兵隊が立っている、詰め所のようなもののある門に向かった。
「門衛が大変失礼をいたしました」
頬の痛みは、一応、さっきよりは引いている。腫れていてしゃべりにくいのは相変わらずだが。
「ムラタ様に暴力を振るったかの者は、後ほど厳重に処分いたしますゆえ、どうかお気を悪くすることのなきよう」
目の前に立っているのは、なんだか身なりのいい騎士風の男。多分、さっきの門番の上司に当たるんだろう。
「いえ、彼は職務を忠実に果たそうとしたのでしょうから、厳重な処分なんて不要です」
「しかし――」
「以後、同じような過ちがなければ、それで結構ですから」
右手を挙げてみせると、騎士風の男はほっとしたように右手で応えてみせると、深々と頭を下げた。
「寛大なお言葉、感謝いたします」
「いえそんな、
当然腹は立っているさ。あの門衛の野郎。
『ケダモノをこのお屋敷に近づけるな。どなたのお屋敷だと心得る。
門衛の、口の端をひん曲げるようにして見下す視線が、実に鮮やかに脳裏に再生される。
――なにがケダモノだ、飼い主だ。あのクソ野郎め。
こっちはあくまでも紳士的に対応していたのに、面倒臭そうにぶん殴りやがって。
塩対応の上に物理対応と来たもんだ。絶対に許さん。
でも、コンペの発注元に対して居丈高に臨んで、いいことなんてあるわけがないからな。丸く収めてみせるさ。だから、せめてこれくらいの嫌味は言わせてくれ。
「いと高き方々にしてみれば、いち庶民の、それも連れ合いなど、吹けば飛ぶようなチリあくたでございましょうが、こんな
――小さなネズミであっても、ときには猫に噛みついてみせるもの。ご容赦いただけると幸いでございます」
口では卑屈なことを並べながら、胸元の大工ギルドの紋章を見せつけるように胸を張ってみせる。
ギルドは、庶民が貴族に対抗しうる、一つの手段だ。ギルドのエンブレムをもつ者には、たとえ王族であっても、ある程度の譲歩を見せるという。たとえ一人でも不必要にないがしろにすれば、ギルドの報復が始まるからだ。
マレットさんの話によれば、エンブレム無しの徒弟とエンブレムありの親方では、だから扱いが天地ほども違うらしい。
果たして、俺の皮肉は理解してもらえたようで、騎士風の男はすこし困ったような笑顔を浮かべた。
「……分かりました。処分はともかく、かの者には厳重に注意をしておきましょう」
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