第602話:やってみるしかない(1/2)

 リファルと別れた俺は、フェルミの家に向かっていた。ここしばらくの騒動で、彼女と逢っていなかったからだ。


 で、やっぱり俺が来るなんて思っていなかったらしい彼女は、目を丸くして、そして飛びついて来て、やっぱり俺の胸の中で泣いた。

 フェルミのことを男だと思い込み、男として付き合っていた頃には、こんなに涙もろい奴だとは想像だにしなかった。


「ご主人が悪いんスよ? これでも、サッパリした奴で通ってたんスからね?」


 涙をぬぐいなから、それでも泣き笑いの表情を向けるフェルミをかきいだくと、彼女の唇を奪うようにしてそのままベッドにもつれ込む。


 寂しい思いをさせてしまったわびと、どうしようもなく込み上げてくる愛おしさを込めて。




「そんなことがあったんですね……。ご主人さま、お疲れさまでした」


 俺の胸に頭を乗せ、その指を俺の胸の上で滑らせるようにしながら、フェルミはつぶやいた。


「……『さま』?」


 先日は『ご主人』と呼び捨てのような呼び方だったのにと、あえて意地悪く聞き返してやると、フェルミはぽっと頬を染めて俺の胸に顔をうずめる。


「二人きりの時くらい、甘い呼び方をさせてくださいよ……」

「『さま』付けは甘い呼び方のか?」

「だって、私だけの大切なひとって感じがするじゃないですか」


 そのいじらしさに、思わず彼女の背を滑らせていた腕に力がこもる。

 飄々ひょうひょうとした、線の細い青年だと思っていたフェルミが、こんなにも愛らしい内面を持つ女性だったなんて、あの頃は本当に、全く、かけらも気づかなかった。


「……オンナは、必要な時に、必要な姿に変われるんですよ。ご存じでしょう?」

「知らないよ。リトリィだってマイセルだって、そんなに器用なもんか」


 そう反論すると、彼女はくすくすと笑った。


「本当に、わたしのご主人さまは、オンナと縁なく過ごしてきたんですね」

「悪かったな。俺は二十七まで童貞で、年齢と恋人いない歴が同じだったんだよ」

「……そういうことまで、包み隠さず話さなくてもいいのに」


 少しだけ身を起こした彼女は、俺の手を取って自身の腹に当てる。

 膨らんだお腹はかたく、そして温かく、確かに命が宿っていると実感させる。


「ご主人さまはもうすぐ、お父さんになるんですよ? この子のために、もうすこし見栄を張って、威厳のある姿を保つ努力くらいはしてくださいよ」

「威厳なんて、俺から一番遠くにあるようなものだ。俺は、自分にやれる精一杯のことをやってみるだけの人間だ。そういう主人を選んだと思って諦めてくれ」

「……分かってはいましたけどね、どうせそんな答えが返ってくるだろうって」


 彼女は再び身を横たえると、唇を求めてきた。もちろん、全力で応える。


「……それで、ご主人さま。その……ゲシュツァーさんのことは、これからどうするんですか?」


 今回の騒動に関わっていなかったフェルミにとって、ゲシュツァー氏は俺たちムラタファミリーに親切にしてくれた紳士でしかなかったようだ。だから騒動について語って聞かせたとき、彼女は「あんなに親切にして下さった方なのに……」と、少なからぬショックを受けたらしい。


「フェルミはどう思う? 働きが劣ると判断した女の子を、男への報酬がわりに性的に奉仕させるようにと部下に命じるような男だぞ?」

「それは……。確かに、実際にそんなことをさせられるのは嫌ですけど」


 フェルミはその点は認めつつも、しかし、反論してきた。


「でも、一人ひとりにベッドを与えて、ちゃんと食事をとらせて、しかも週に一度以上は肉料理を出していたんですよね?」

「……まあ、そりゃそうらしいんだけどさ」

「だったら、その……難しいなって」


 突然の国境紛争で血に狂う男どもの凌辱を受け、以後、男のふりをして街を転々として、苦労してきたフェルミにとって、まともな食事が用意され、温かな寝床がある職場というのは、やはり魅力的だということだった。


「やっぱり、女の身でまともに働ける仕事って少ないんですよ。でも、ゲシュツァーさんはちゃんとお仕事ができるように仕込んでくれて、そして行き場がなければご自身の工房で働かせてくれるんですよね? それも、食事も寝床も込みで。やっぱり、私がもし孤児の立場だったら、嫌とは言えないんじゃないかなって……」


 自身が性暴力の被害者だというのに、フェルミはそれでも、ゲシュツァー氏を糾弾するようなことは口にしなかった。信じがたかったが、これがこの世界に生きるということの、リアルなんだろうか。


「……それはやっぱり、私も苦労したから、かな……」


 彼女が男のふりをしたのは、性暴力の被害に遭わないようにすることは当然として、もう一つ、働く場を得るためでもあったらしい。やはり女性が働くことができる場は、それほど多くはないのだそうだ。


 だから男装をして、決死の覚悟でもぐりこんだのが、たまたま行き倒れていたところを拾ってくれた、大工の親方の元だったという。そこで、げんこつで殴られながら仕込まれて、大工の技能を身につけたのだとか。それがなければ、野垂れ死んでいただろうとも。


「毎日げんこつやら角材やら差金さしがねやら金槌かなづちやらで、容赦なくボコボコに殴られましたけど、親方のことは感謝してるんですよ? そのおかげで、どうにかこうにか生きてこれたわけですから。一生を捧げるご主人さまにも、こうして巡り逢えましたし」


 ペロっと舌を出してみせる。俺を持ち上げるようなことをさらっと織り交ぜる調子の良さは、さすがフェルミ。


「……確かにそうかもしれないが、金槌でボコボコにって、いいのかそれ」

「いいんスよ。獣人族ベスティリングでこんな歳の私を一発で孕ませた挙句に、妊婦にも平気で手を出す無限の精気あふれる絶倫ご主人さまにとっ捕まったのに比べたら、全然」

「……おい、言い方」


 フェルミはいたずらっぽい笑みを浮かべつつ、上目遣いで俺の胸に舌を這わせながら、そう言った。猫属人カーツェリング特有なのだろうか、ざらざらとした舌がくすぐったい。


 髪をなでてやると、フェルミは顔を上げ、ふっと柔らかな微笑みを浮かべた。思わずどきっとしたところで唇を重ねられ、そしてまた彼女は、いたずらっぽい笑みを浮かべる。


「ご主人さま、私、ご主人さまの仔を頑張ってたくさん産みますから、これからもいっぱい、いっぱい可愛がってくださいね?」

「……おい、それって」

「あ、分かってくれたっスか?」


 分かってくれたかって、もちろんそれ、リトリィの物真似だろ。


「ふふ……ありがとうございます。でも、本気ですよ。ご主人さまは、こんな私の、もう諦めていた夢を、叶えてくれたんです。女の子として生きる、夢を」


 ……まったく、そんなことを言われると可愛がってしまいたくなるじゃないか。

 しばらくものも言えないように、じっくりと唇をふさぐ。


 しかし本当に、何事も「ものは言いよう」だと思う。フェルミを拾った親方のやり方もゲシュツァー氏の所業も、昔の日本ならともかく、現代日本だったら人権侵害で、とても認められる話ではないのではなかろうか。


「ふふ、物は言いよう、ですか。確かにそうかもしれませんね。ただ、ゲシュツァーさんも同じではないですか? あの方も、子供たち一人ひとりに、仕事のやり方を仕込んでいたんでしょう? 男の子にも女の子にも、その子が一生、それで食べていけるように」


 そうやって言われてしまうと、なんだかゲシュツァー氏が、彼の言っていた通りの慈善事業家に見えてしまう。


「確かに、ご自身の事業の儲けのために孤児を利用していた……それは間違いないのでしょう。ただ、目の前の『男の子だけ』を『神の愛』のもとに育てるだけで、子供の健康も、独立させた後のことも考えてなかったどこぞの孤児院より、よっぽどマシだと思っちゃいますけどね」


 ……どこぞの孤児院って、『恩寵の家』のことか。ダムハイトさんも悪い人ではないと思うんだけど、そこまで言うか。まあ……俺が乗りこまなきゃ、子供たちの病の原因にも思い至らなかった人ではあるんだけどさ。


「ご主人さま。確かにゲシュツァーさんは、お金儲けのために身寄りのない子供たちを利用して、女の子を辱めるような酷い命令もしていたんでしょう。私やリノちゃんのために心から怒り、嘆き、そしてキズモノの私ですら愛してくださるあなたですから、それを許せないのは分かるんです。……でも」


 フェルミは、それまでずっと浮かべていたいたずらっぽい笑みをひっこめた。


「……もちろん、辛い思いをした女の子たちもいたでしょうけど、それでも、救われた子供たちって、いっぱいいるような気がします。ご主人さまなら、何かいいお考えがあるんじゃないですか?」

「いや、いい考えって言われても……俺には大したことなんてできないし、買いかぶられても困る」


 突然話を振られて困惑する俺に、フェルミは真剣な表情で続けた。


「いいえ。ご主人さまなら、きっとなんとかできるはずです。だって──」


 ……ほんと、女の子っていうのは存在自体が反則だと思う。

 ずるいんだよ、本当に。


「──私の、自慢のご主人さまなんですから」


 微笑みながら手を握られてそんなことを言われたら、とりあえずやってみるしかないじゃないか。

 彼女が期待をしてくれている、彼女の主人として。

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