第86話:報いるために

「まったく、俺を二十七まで童貞で引っ張ってきたぶん、神様はずいぶんと頼もしい嫁を準備してくれたってことか?」


 もう一度、彼女を抱き上げる。本当はお姫様抱っこがかっこよくて理想なのだが、俺の腕力では不可能。俺の上半身に覆いかぶせるようにして、抱き上げる。


 先ほどと同じようにしだれかかってきたが、起きているのかどうかは分からない。ただ、腕に力が入っていないので、多分起きてはいないだろう。

 ゆっくりと歩き、きしむ階段を踏みしめてゆっくりと二階に上る。


 かろうじて部屋までたどり着き、なんとかして、リトリィの体をそっとベッドに横たえる。

 正直言って、とても重かった。彼女は少なくとも俺よりも小柄なんだが、寝ている人間というのは本当に重い。あと、鍛冶師だけあって筋肉で引き締まった体なのだろう。


 しかし、考えてみれば、夜着を着たままベッドに横になる彼女を、俺は初めて見た気がする。彼女はいつも基本全裸、あの不思議な刺繍の入った、太めの帯を腰に巻き付けるだけ。


 最初に目にしたあの時はただの夜着の帯だったようだが、それ以降、彼女が俺のもとに夜、訪れるときは、かならずあの、何に使っているのかが分からない帯を腰に巻くだけで、基本は全裸だったように思う。

 まあ、柔らかくふわふわな毛で全身が覆われているから、あまり「全裸」というイメージは湧かないのだが。


 明かり取りの窓から、青い月の光が差し込んできている。この角度だと、もう夜半過ぎか。いつのまに、こんな時間になってしまったのか。

 彼女の濡れた目元に、そっと触れる。


 ずっと泣かせてばかりのこの少女を、泣かせずに終わるにはどうすればいいか。


 答えは至極簡単だ。

 安心させてやればいいのだ。

 泣きたくなるような思いになど、させなければいい。

 彼女の献身に報いる行動を、すればいいだけなのだ。

 ――そう、俺の妻に収まることを喜んでくれる、そんな彼女に報いる行動を。


「十分話を聞いて、夜も十分に可愛がって――か」


 俺だって健全な二十七歳、なんだかんだ言っても、動画などによってはできている。――つもり。

 だが、実践経験はゼロ。女性の肌に触れたのも、リトリィが初めてだ。


 結局、俺が彼女を遠ざけているのは、経験豊富であろう彼女に、がっかりされたり笑われたりしないか、その恐怖心があるからだ。


 女性経験のない自分は、当然、間違いなく、だろう。そのことは覚悟している。のコミックのように、最初から女性をよろこばせる、なんてことができるはずがないということも、理解はしている。


 だが、お互い初めてなら、まだいい。お互いに、実地を知らないのだから。

 何があっても、どんな結果になっても、相手は知らないのだから、「そういうものなのかもしれない」と思い込むことができてしまう。上手くいかなかったとしても、それが失敗だとのだ。


 だが、彼女は

 彼女は、そして俺とほかの男とをのだ。


 そうだ。

 その一点――それだけが、恐ろしいのだ。自分との、そのの未熟さ、

 ……つまり、俺のを、彼女を抱いた多くの男たちのと比較されるのが恐ろしいのだ。


 ――我ながら情けない。ものすごく、情けない。


 彼女のため、とかなんとか口では言っていても、結局それだ。

 自分の、ちっぽけなプライドを維持したいだけなのだ。


 彼女は、俺がことを知っている。

 だから、それが原因で失敗なりなんなりしたところで、彼女が俺をわらったり中傷したりするようなことはないだろう。

 それは――それだけは、自信をもって言える。

 彼女は、決して、で俺を嗤うような女性ではないと。


 だが。

 だが、それでも不安になるのだ。


 彼女をがっかりさせるのではないかと。

 自分の未熟さゆえに、彼女に対して優位をとれないのではないかと。

 これほど自分を立ててくれた女性が、失望とともに愛想をつかすのではないかと。


 自分が、こんなにも完璧主義――というより、失敗を恐れる人間だとは思わなかった。

 世の百戦錬磨の男たちも、初めての瞬間があったはず。そいつらは、一体どうやって百戦錬磨にのだろう。


 その初めてを、彼らはどう達成したのだろうか。

 今の俺のような、失敗への恐怖はなかったのだろうか。

 上手くできたのか、失敗はしなかったのだろうか。

 三洋と京瀬らの顔が、思い浮かぶ。

 木村設計事務所の中で、女性の扱いに長けていた二人。

 ……怖いと思ったりなど、しなかったのだろうか。


『村田サン、風俗行くのが一番ッスよ。何があっても酒のせいにできる今が一番っス。女の選び方も教えますから、今から行きません? 村田サンのオゴリで』


 いつの飲み会の後だったか。

 あの二人が、珍しく俺を風俗店に誘ったことがあった。ただし俺の奢りで。

 三人分も払えるか! ――品のない冗談と受け取った俺は、笑いながら提案を却下したが、あのとき、もしも提案に乗って行っていたら。 




「ごめん、俺が、もうすこし、リトリィに釣り合う経験者だったらよかったんだけどな」


 そっと、彼女の唇を覆う。

 無抵抗な唇、舌。

 そう思ったら、わずかに彼女の舌が、俺の舌に応えるように動く。

 起きているのかと思ったが、しかしそれきりだった。


 そっと、顔を離す。

 彼女の、目尻に、涙が浮かんでいる。

 新しい、涙――?


「ムラタ、さん……」


 ……!

 しまった、また起こしてしまったのか。


「ごめん、起こしちゃったか、起こす気は――」

「あなた、ごめん、なさい――」


 起きた、んだよな?

 そっと、彼女の手を握ってみる。

 反応は、かすかに握り返すような感触があっただけで、ほとんどない。


「赤ちゃん……ほしい、です……」


 それは、寝言だったようだった。ただ、見ている夢は――。

 本当に、いじらしい女性だ。正直、俺という人間に釣り合っていない、素晴らしい女性だと思う。


 そっと、握る手に力をこめる。

 月明かりに浮かび上がる彼女の顔――その眉根が、すこし、寄る。


 頬にかかる髪を、人差し指の背で、そっと除ける。

 かすかに動いたその口に――その唇に、もう一度、自分の唇を重ねる。


 その薄い唇は、人のものとは違う。

 ――だが、俺を選んでくれたひとの、そのぬくもりが感じられる、唇。


 本当はしばらくそのぬくもりを堪能していたかったが、しかしやるべきことは片付けなければ。


 そっと体を起こす。

 青白い月明かりの中で、彼女の姿が、銀色に浮かび上がる。


 わずかに身をよじるようにした彼女だが、しかし起きる気配はない。

 昨夜までは、俺が目を覚まして身じろぎすると、彼女もすぐに起きていたのに。


 疲れが、溜まっていたのかもしれない。

 疲れを、溜めさせてしまっていたのかもしれない。

 肉体的なものもあっただろうし、精神的なものもあっただろう。


 彼女をこれ以上、泣かせないためにも、俺は、俺自身が、胸を張って彼女を迎えられる自分にならなければならない。

 そのためにも明日、ペリシャさんにあの図面を見せて、まずは提案だ。

 そして、案が通れば実際に動き出す。通らなくても、それを叩き台に修正案を出せばいい。


 建てる以前に、まず、今建っている小屋を壊す必要もある。もちろんそのための業者を探さねばならない。契約した大工に壊してもらうのもいいが、できなければ専門の業者を探す必要もあるだろう。


 というか、そのためにもまず探さなければならないのは、あの小屋、あの土地の持ち主だ。


 ペリシャさんの依頼である以上、持ち主はあの炊き出しをしていた五人の女性のだれかだと勝手に思い込んでいたが、どうなのだろう。

 万が一、あの五人のだれかではなく別の人物だとしたら、まずその人物と交渉する必要がある。せめてあの五人の身内であればいいのだが。

 そして、話がまとまったら、今の小屋の取り壊しと、そして新しく建てるものについて、役所と交渉せねばならないだろう。


 明日から忙しくなりそうだ。だが、それでも絶対に彼女の想いに報いてやりたい。

 明日こそは、彼女を安心させてやるのだ。


 そのために、今はまず、図面を完成させ、やるべきことをリストアップするのだ。

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