第68話:いたしますか?

 聖人君子でいられたのは夜だけでした。

 ええもう、朝は男の生理現象がございますから。


「――いたしますか?」


 嬉しそうに言うなよリトリィ、そういうつもりじゃないんだって!




「なあ、リトリィ」


 俺は、リトリィがこしらえてくれたスープに、非常食として固く焼き締めたパンを浸しながら尋ねた。


「リトリィは、その……例の軍人の家を、知ってるのか?」

「はい。城内街にお住いの、タキイさんですよね?」


 改めて聞くと、確かに日本人っぽい。


「ヤサブロー・タキイさんとおっしゃる方です。野菜や、畑の土の改良に、すごく貢献された方だってうかがっています」


 ……滝井たきい冶三郎やさぶろう、といったところか? 名前がずいぶん時代がかっているが、まあ、戦前の人間だしな。


「タキイさんが改良を手掛けられたお野菜は、病気に強くて、しかも大きくて美味しいって評判で。だから、タキイさんが興された種や苗のお店は、今では王様の保護はもちろん、街の議会の保護も受けてらっしゃるんですよ。

 たしか、うちの親方様と一緒で、貢献者ディールの接尾名を賜っているはずなんですけど、なぜか名乗られていません」


 ……あー、うん。日本人の名前には、ちょっと繋げづらいな。ヤサブロウディール。うん、無駄に長くなるだけだ。接尾名を名乗らない、そのことに、ちょっとだけ共感する。


 それにしても、残虐非道で悪名をとどろかせた旧日本軍の軍人が、野菜の品種改良? イメージが全然浮かばない。


 まあ、終戦時にはたしか三百万人くらい海外にいたそうだし、それだけいれば少しはエリートもいただろう。よく知らないが、ゼロ戦を作った技術者は、その技術で新幹線を作ったんだっけ? 腕を一本失くして帰ってきた妖怪漫画家もいたっけ。タキイとかいう軍人も、そのわずかなエリートの一人だったのかもしれない。


 ……まあ、どれだけエリートでも結局は軍人ってことに違いないけどな。なんたって、鉄砲をこの世界に持ち込んでいた。俺が、肩に掛けていたカバンすら持ち込めなかったのにだ。

 ということは、武器を肌身離さず持ち歩いていたってことに違いない。つまり、そういう人間だということだろう。


「リトリィ、気を付けろよ。そいつは野菜の品種改良が得意なのかもしれないけどさ、結局は軍人なんだ。それも、世界有数の凶悪な軍の、だ」


 しかし俺の注意に、リトリィは首をかしげる。


「どうしてですか? わたし自身はあまりお会いしたことがありませんが、とてもお優しい方ですよ?」

「それでも……いや、だからこそだ。いつ本性を現すか、分かったもんじゃない」


 俺の言葉に、リトリィが居住いずまいを正す。

 どこか、俺を見つめる目がきつくなった気がする。


「分かりません。どうしてムラタさんは、タキイさんを悪く言うんですか?」

「……だって、旧日本軍の軍人だぞ? いい人間なわけがない」

「軍人さんだって、ひとですよ? 会う前から決めつけるのは、よくないと思います」


 俺は――驚いていた。

 『リトリィはおめぇの言うことだけは聞くはずだ』とはアイネの言葉だったが、彼女はその透明な青紫の瞳をまっすぐに向けて――ややもすると厳しいまなざしで――俺を見つめている。


 間違っているのは俺の方だと――その間違いを正すのだという、強い目で。


「……ごめん。リトリィの言うとおりだ。会う前から決めつけはよくない、確かにそうだな」

「いえ……。わたしも、ムラタさんをたしなめるような言い方をして、ごめんなさい」


 俺が頭を下げると、リトリィも頭を下げた。


 ……なるほど。また一つ、彼女のことを知ることができた。

 彼女は、盲目的に俺を受け入れているわけじゃない。悪いことは悪いと言い、そして正そうとしてくれる。たぶん、それが俺のためになると信じて。


 どうしてこんな素敵な女性が、俺なんかに惚れてくれたのか。さっぱり分からない。

 ……ただ、彼女をもう、泣かせてはいけないとは思う。本当に。




 俺が昨日、頭に怪我を負ったからと言って、リトリィは毛布まで自分が持つと主張した。彼女にばかり負担を強いていることもあってさすがに抵抗したが、無駄だった。


 彼女はてきぱきと毛布をたたむと自分の荷物に詰め込んでしまい、代わりに「しわにしたくないので」と言って、彼女の服――屋敷では着ている姿を見たことがない服だった――を俺のリュックに詰めた。「だって、わたしの身なりが原因でムラタさんが軽んじられたらいやですから」だそうだ。なんという愛というか、いたわりというか。


 ともかく、これで俺の荷物はさらにコンパクトに、そして軽くなった。

 もちろん、それに逆比例するように、リトリィの荷物はさらにかさばり、重くなったはずだ。


 それをひょいと担ぎ上げて、「あと半日ですから、がんばりましょう?」と手を差し伸べてくるのだから、男――というか、俺の存在意義について、またしても真剣に悩んでしまう。本当に、リトリィにはかなわない。




 山道を何度もふらつき、そのたびにリトリィが支えてくれて、情けない思いをしながらふもとの森にたどり着いたころには、昼をとうに過ぎていた。

 リトリィが足のマッサージをしてくれながら、チーズをくいちぎり、その欠片を俺の口に放り込んでくれる。


 口にくわえたままのそれを、俺の口に押し付けるのだ。いたずらっぽく微笑みながら。


 こんなこと、屋敷では絶対にできなかったし、そもそもしようとも思わなかった。なにせ、互いに口を付けたものを分け合うのは、妹背いもせみという、結婚をするための三儀式の一つなのだ。おいそれとできるものじゃない。


 にもかかわらず、彼女はマッサージのついでに、俺にそれを仕掛けてくる。


「だって、もう済ませているのですから。あとは何度しても、変わりませんよね?」


 そう言って、くすりと笑う。本当に、彼女にはかなわない。


「森を抜ければ、あと一刻ほどで街に着くと思います。ゆっくり行きましょう?」


 そう言って彼女は、俺の足をもみほぐしていく。強くもなく、しかし弱くもない、絶妙の加減だ。


「なあ、リトリィ――」


 話しかけようとしたとき、リトリィがそっと唇をふさいできた。

 そのまま、押し倒される。


 いや、そりゃ森の中だし、誰の目があるわけでもない。だが、いくら薄暗いとはいえ、真昼間に、こんなところで?

 するとリトリィが、今まで見たことも無い険しい目で、ただ一言、言った。


「お静かに。魔狼が、こちらを窺っています」


 ――魔狼。


 そう言えば親方が言っていたな、青く光るたてがみを持つ、巨大な狼がこのあたりにはいる、と。


「こんなこと、初めてです。普通は、こんなにじっと見つめてきたりしません」


 急に背筋に冷たいものが走る。


『魔狼は、ひとを襲わねえよ』


 親方は確かにそう言っていた。だが、それはあくまでも向こうの気まぐれで、実際にはひとを襲うのだとしたら?


「大丈夫です。わたしはあのたちを知っていますから。向こうもわたしのことを知っていますから、襲われることはないはずです。ただ、あちらはムラタさんのことを知らないでしょうから、様子を見ているのかもしれません」


 そう言って、再び俺の口の中に、舌を押し込んでくる。

 ――キスは、関係ないんじゃないか?

 そう問うた俺に、リトリィは少し、頬を緩めた。


「だって、こうするのが、あなたとの関係をあちらに見せつける、一番の方法ですから」


 ――役得です。

 そう微笑んで、俺の上で尻尾を、腰をくねらせ、そしてまた、俺の口の中を蹂躙する。



 時間にして数分程度のことだったのかもしれないが、その数分間、たっぷりリトリィの舌を味わわされることになった。その間に、視界の端で、青白い光が遠くに飛び跳ねるように小さくなっていった、あれが魔狼のシルエットだったのだろうか。大きく、しかしうすぼんやりした光と、やや小さいが鮮やかに輝く青白い光が一つずつ、視界から消える。


 ――助かった、のだろう。


 だが俺は、朝に続いてまたしても、ズボンの内側から硬く首をもたげたソレを熱く見つめられながら、「いたしますか?」とリトリィに聞かれる羽目に陥ってしまった。

 違うんだリトリィ、そういうつもりじゃないんだよ……。

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