第331話:重み

 額を流れる汗を、リトリィがぺろりとなめる。


「暑いですか?」

「……大したことないよ」

「暑いんですね」


 リトリィが微笑みながら水差しを手に取り、差し出してくる。

 彼女こそ、そのふわふわな毛並みは暑いだろうに。


 シェクラの花の下での誓いから、もうすぐ三カ月。

 日本で言えば六月下旬、といったところか。こうして子作りのために体を重ねるのも、ちょっと億劫な季節になった。ただ、日本と違ってからりとした暑さなのが救いだ。


「さすがに三人で愛し合うってのは、大変だな」

「ふふ、初めてのことでしたけれど、マイセルちゃんも楽しんでいたみたいで、よかったですよ?」


 リトリィが、先に寝入ったマイセルに微笑みかけながら、俺の首筋に舌を這わせてくる。


「明日も――ううん、これからずっと、ああして三人で愛し合っていきたいですね」

「……勘弁してくれ。マイセルまで今日みたいに積極的になったら、俺、本当に干からびて死にそうだ」

「だいじょうぶですよ。そのために夕餉ゆうげはいつも、奮発しているんですから。明日から、もっと奮発しますね?」

「いやホント大真面目に言うんだけど手加減して?」

「いやです♪」


 抱き着いてきた彼女によって、俺はベッドに押し倒された。

 彼女のふわふわな感触と重みを、心地よく受け入れる。

 そして彼女は、実に楽し気に鼻面をこすりつけながら笑った。


「わたしたち二人をめとっていただいた以上、『だんなさま』としてのお役目、しっかり果たしていただきますからね?」

「……もう無理」

「ふふ、しかたのないだんなさま。――あなた、いらして?」


 俺にまたがるようにして尻を高々と掲げ、そのしっぽを挑発的に持ち上げてみせるリトリィに、俺はもう一戦だけ、と念を押して、重い体を引きずるように起こすと、彼女の腰を掴んだ。


 藍月らんげつの夜――発情日を間近に控えたリトリィの要求が、もう一戦だけで終わるはずがなかった。




 俺は例の貴族の執事、レルバートさんから鍵を借りて、塔の中に入った。入ったその瞬間に、ぱらぱらと、上から石の欠片が落ちてくる。なるほど、これは危うい。建て替えもやむなしと思いたくなる。


 見上げれば薄暗い内壁の一部が大きく裂け、空の青さがのぞいて見える。四角な内壁をぐるぐるとめぐって頂上まで行く階段も、その途中の裂け目で一部崩落しているのが見て取れる。

 崩れている部分にはしごが渡してあるが、本当に気休めでしかなさそうだ。


 レルバートさんの話によると、この塔は建てられてから三百年以上経っているらしい。当時はたくさんの塔が建てられていたそうだが、街の過密化に伴って一つ、また一つと取り壊され、今ではこの塔とあと三つを残して、残っていないのだという。


 本当は崩落の危険があるこの塔に入るのは俺一人にしておきたかったんだが、当然のように二人は反対した。自分も連れて行けと。


「あぶないなら、なおさらです! そんなところにだんなさまだけ行かせるような、そんな薄情な女だとおっしゃるんですか」

「わ、私だって大工の端くれです! 自分の目で見て確かめたいんです!」


 あとは、何を言っても無駄だった。まあ、俺が言って簡単に引き下がるような女の子だったら、そもそも俺と結婚するようなことはなかっただろう。俺はそれ以上言うのを諦めて、二人の望むようにした。


 俺は、手すりも何もない、幅が五、六十センチほどしかない急な階段を、ゆっくりと上り始めた。すぐ後ろにリトリィとマイセルが続く。


 階段は、石造りの壁に差し込まれるようにした、木製のものだ。幾度となく補修しているようで、一段ごとの幅は不揃いだし、水平じゃないものが多い。古くて傷んでいるものもあれば、比較的新しいものもある。

 そして。


「ひやっ!?」

「だいじょうぶですよ。マイセルちゃん、おちついてね?」


 踏むたびにギシギシと、嫌な音できしむ。

 特に壁に穴が開いている壁面の下の部分は、降り込んでくる雨水の影響があるのだろう。あからさまに傷んでいて、踏むのが怖い。

 そんなわけで、四隅の踊り場にたどり着くたびに胸をなでおろす俺がいた。我ながら、情けない。


 塔の壁面は、外から見ると乱杭歯のようにでこぼこしていたが、内壁は意外なほど平らで、綺麗なものだった。外壁の、一見粗雑な石組みは、そういう意匠だったのだと分かる。当時の流行だったのかもしれない。


「それにしても、 高さが百尺もあると、なかなか 高さを感じるな。 壁の破れ目がなかったら、怖くて登れなかったかもしれない」


 俺の言葉に、マイセルもぶんぶんと首を縦に振る。

 リトリィが理解できないといった様子で首をかしげるので、俺は壁の破れ目を指差した。


「壁の破れ目のおかげで、けっこうな光が差し込んでくるから、まだ足元が見えるんだ。あれがなかったら、ちょっと登る勇気はなかったかもしれない」


 リトリィが、申し訳なさそうに顔を伏せる。おそらく、彼女はこの薄暗い塔の中でも、はっきりと物が見えているんだろう。感覚の鋭い獣人族ベスティリングならではのメリットだな。


 一段一段踏みしめるようにして上ってきて、いい加減うんざりしたころ――いよいよ塔の上部、壁の破れ目の、すぐそばまでやってきた時だった。

 高さにして二十メートルほどまできただろうか。壁の破れ目あたりの階段は、ところどころ抜けたり抜けかけたりしていて、危険極まりない。梯子が階段の上に乗せられていて、その上を渡るようになっている。


 南極などの極地の、氷河の亀裂に渡したはしごの上を渡る映像が、頭をよぎる。

 ただ、はしごの下には、若干歯抜け気味だとはいえ、階段がちゃんとある。


 だから、俺は、はしごがかけられているその意味を、俺はあまり深刻に考えていなかった。

 だからそれは、唐突に訪れた。


 はしごではなく、その下の階段の板を左足で踏み、体重をかけて上ろうとした、その瞬間。


「ムラタさん、だめぇっ!!」


 悲鳴が聞こえたのと、

 脆いものが砕ける音、

 そして今の瞬間まで、

 確かに足元にあった、

 それが消滅する感触!


 声を上げる間もなかった。


 あの、体が想定外の自由落下を始める瞬間の、ぞわりとした感触。


 俺の服の裾を誰かが掴もうとし、一瞬、確かに背中に何かが引っ掛かったような感覚のあと、しかしそのまま無情にずるりと落ちてゆく感触。


 俺はそれを、終生、忘れることはできないだろう。




 床で砕け散る、腐った木材。

 ぱらぱらと零れ落ちてゆく、石材の破片。

 そして宙づり状態の、俺の足。


 腐った木材は、俺の重みに耐えられなかったのだ。

 だが、腰に差していた、リトリィから貰った短刀が、かろうじてはしごに引っかかる形で、俺の命はまだつながっていた。


 泣き叫ぶリトリィに引っ張り上げられ、俺は助かったことに礼を言うと、今度は泣きながら怒り出した。


「どうしてあんな真似をしたんですか! 踏めば木が傷んでいたことくらい、わかったでしょう!」

「……ごめん、分からなかった」

「分からないはず、ないじゃないですか! あんな嫌な音を立てていたのに! ムラタさんは鈍感すぎます!」


 ……ギシギシいうのはどの階段も一緒だし、つい、油断を――

 言い訳をしようとした俺に、リトリィはさらに金切り声を上げた。


「つい!? ついってなんですか! わたしたちは、あなたを信じてあなたに嫁いだのに! 三カ月でわたしたちを未亡人にするところだったんですよ!!」


 実に全くその通り。

 おまけに中空の塔の中で、リトリィの金切り声がわんわんと響き渡るのが、余計につらい。


「……それは、悪かったと――」

「悪かった!? うそばっかり! そんなこと思っていないから、あなたはいつもいつも――!!」


 そう言いかけて、そして、リトリィは、俺の胸のすがり付いてきた。


「わたしの手がとどかなかったとき、わたしが、どんな思いだったか……!

 すぐ目の前にいるのに、あなたに手がとどかない、あなたを助けられないって思った、その怖さを、絶望を、どれだけおしはかってくださっていますか……!?」


 ……そうか。

 さっきの背中の感触、あれはリトリィが、やっぱり俺をとっさに助けようとしてくれた感触だったんだ。

 でも、服は結局つかめず、俺は彼女の目の前で、彼女の手をすり抜けて、落ちて行ってしまったのだろう。


 ――腰の短刀が引っ掛かることで、かろうじて俺は助かった。もしこの短刀を身に付けていなかったら……そう考えると、改めて背筋が凍る。

 だが、それ以上に、俺を目の前で失いかけたリトリィの、その衝撃は、いかばかりだったろうか。


 もはや声にもならず、俺の胸にすがりついて泣きじゃくる彼女。

 マイセルが、俺とリトリィを交互に見ながら、何かを言おうとして、でも言いづらそうにしている。


 俺の命はもう、俺だけのものじゃないんだ。

 あらためて、自分の命の重みを思い知った。


 ……ごめん、リトリィ、マイセル。

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