第3話:開陳

 これは、あれだろうか。

 異世界というやつなのだろうか。


 いや、死んだ記憶はない。

 足を踏み外して落ちた記憶はあるが、少なくとも神様とか創造主とかクリエイターとか、とにかく超常の存在に出会ってなにかをもらった記憶はない。


 そして目の前には、例の犬人間。いや、ここはカッコよく、ライカンスロープとでも呼ぶべきなのだろうか。惜しげもなくさらした胸をかくすでもなく、ただ穏やかに微笑んでいる。


 ――状況が分からない。

 微笑む彼女の口からこぼれる、鋭い牙の輝き。


 まかり間違ってもその微笑みは、「いただきますをする前に、食べ物に感謝するタイプ」とか、そういう意味でないことを祈りたい。


「どうか、されましたか?」


 鈴の音が鳴るような――とまではいわないが、それなりに涼やかな声に、強烈な違和感を覚える。


「いやその――日本語、通じるんだなって」

「ニホンゴ?」


 きょとんとして、小首をかしげる。

 ああ、そのしぐさ。首から上が犬でなければ、なんと愛らしかったことだろうか。いや、犬でも十分愛らしいのだが。


「あいにく、ニホンゴというものは存じておりませんが、ひょっとして、言葉のことをおっしゃっておられますか?」


 なんと流暢な敬語を話すのだろう。音声が二重に聞こえるという不思議な感覚は奇妙極まりないけれど、完璧な日本語だ。

 所長の言葉にも顧客に対しても「うっす、わかったっす」と平然と口にする後輩ども――三洋や京瀬らに、爪の垢でも煎じて飲ませたいものだ。


「ああ、えらく丁寧な言葉を上手に話すからさ。日本語だよね?」

「分かりません。ただ、わたしは翻訳首輪を身に着けておりますから、どなたにも言葉が通じるものと」

「翻訳……?」

「はい。わたし自身が、この国の言葉をうまく話すことができませんから……こうして」


 そう言うと、犬女は首の毛をかき分けるようにして首輪を見せる。


 ……ほんとうだ。

 気づかなかったが、赤い革ひものようなものを首に巻いている。喉元にはちょうど、ぱっと見で鈴のように見える塊がついている。小指の爪ほどの小さなものだ。


 すごい! そんな機械が実用化されているのか、しかもあんな小型化されて。

 これは便利だ! 日本よりもずっと科学が進んでいるんだろう。

 ――とはいえ。


「……なんだ、その声も、その翻訳機から出てる音ってことか?」


 犬の顔から発せられると思うから違和感のあった涼やかな声も、人工物と思うと興ざめだ。


「声ですか? いいえ? この声は私の声です。翻訳首輪が、わたしの言葉を翻訳して、伝えてくれるんですよ。私の首輪のものはあまり高価なものではないと思いますから、使うマナもオドも少なくて済むかわりに、近くの人にしか伝わらないのですが」


 そう言って、毛並みの中にうまくしまい込む。ああ、それで気づかなかったのか。


「……って、マナ? オド!?」


 いま、確かにそう言ったよな? 空耳じゃなかったはずだ! 二次元オタクの島津ライブラリのひとつだったはずだぞ!?


「は、はい。翻訳首輪は、からだの中のオドを使って動きます。空気に満ちるマナを介して、相手の言葉を聞き取れるようにしたり、相手に言葉の内容を翻訳して伝えたりしているそうです。くわしいことは、わたしも知らないんですけれど」

「マナって、あれだよな? 魔法とか、そういうことができる力だよな!?」

「は、はい、皆さんもご存じの通りの……」


 存じてない! 全然存じてない!!


 ──てことはやっぱり、ここは地球とは違うってことか!? あの日あの時あの場所で、俺は、どうにかなって、どっか別の世界に来ちまったってことか!?


「なあ、あんた! 俺はどうやってここに来た? どうやってこの部屋に来たんだ!?」


 おもわず身を乗り出し肩をつかみ、両手で揺さぶる。


「え──いたっ、いたいです……!」

「なあ、おい! ここはどういうところなんだ!? あんたは何者で、なんで俺はここにいる!?」

「わかりました、わかりましたから……いたいです、離してください……!」


 目を伏せ、辛そうにする彼女に、思わず掴みかかり強く揺さぶってしまった自分を恥じる。


「ご、ごめん……」

「それと──」


 彼女は目を伏せたまま、視線をそらして、ためらいがちにつぶやいた。


「その、あの……も、必要であればと申しつけられておりますが……あの、を、お望み、なのでしょうか……?」


 そのとき、初めて気が付いた。

 男の生理現象は、朝を迎えて、大変な勢いで発揮されていたということに。


 


「もうお婿に行けない……」

「は、はあ……」


 股間に布を当て、顔を覆って涙する。

 村田誠作27歳童貞。

 女性と付き合いなどただの一度の経験もない。


「見られた……親にしか見られたことないのに……」


 ああ、親以外の異性になど見られたことも見せたこともない俺の純潔は、今、会ったばかりの犬女によって辱められ──

 馬鹿なことを考えながら浸っていると、容赦なく犬女の声が降ってくる。


「あの、? わたしでよろしければ──」

「ちっがーう! そうじゃない、そうじゃないんだ!」

「では、さきほどのご立派様は、いかがなさいましょう?」

「もうやめて……俺のライフはゼロよ……」


 しわくちゃのカッターシャツを着て、ごわごわのスーツに、腕を通す。

 ずぶぬれになったまま干した、まさにそんな感触。ネクタイのくしゃくしゃ具合は、もうぶら下げる気にもならない。丸めてポケットに収める。


 一方、彼女──リトリィと名乗った──は、真ん中に穴の開いた薄手の布を手に取ると、そのままタオルをかぶるようにして穴から首を通し、腰のあたりで帯を巻いてそれで終わりという、実にシンプルな服を着た。


 歴史で貫頭衣かんとういとかなんとか習った気がする。縄文人が着ていたとか、そんなような。


 あとは白い黒猫くろねこふんどし──調べたい人はご自由にどうぞな、一方ほどき紐Tバック──のような下着を履いて──そう、目の前で履いて、終わり。

 なるほど、太いしっぽが腰と尻の間あたりから生えているから、そうならざるを得ないということなんだろうか。


 なんと簡素な服なのだろう! 正面から浮き出る先端に、横から見えるふくらみがすばら──もとい! 寒くないのだろうか!


 考えて馬鹿なことだと思いなおす。自前の毛皮があれだけあれば、よほど雪でも降らない限り、寒くもないのだろう。


 さて、リトリィの話によれば、俺は二日間、眠ったままだったという。「親方」と呼ばれる人間が、川岸に打ち上げられていたのを拾ってきたのだそうだ。


 氷のように冷え切った、だが死んでいなかった俺を引き上げた「親方」は、「昔から男を温めるのは女の仕事」ということで、リトリィに添い寝させたのだという。


 お役目をいただいた、ということで、リトリィはあおむけに寝る俺の上に覆いかぶさるようにしたり、横から絡みつくようにしたりと、あの手この手で俺を温め続けてくれたらしい。


 もちろん、服を身に付けず。


 ……ああ、俺の馬鹿! なんでそんなおいしいシチュエーションで起きなかったんだ! いや毛深いし顔が犬みたいだけど!

 

「……で、俺は結局、どっから来たか、分からないってことか」

「はい。親方様が川で拾ってきたということ以外は、なにも」

「……よくおぼれず生きてたな、俺」


 拾われた後はともかく、気を失って沈んでいたとしたら、死んでいてもおかしくない。いや、たとえ生きていたとしても、酸欠で脳が破壊されていたことも考えられる。


 もしそんなことになったら、たとえ体は生きていても脳死──現代医学を駆使した延命装置が無ければ、目を覚ますことなく結局は死んでいただろう。我ながら悪運の強さにゾッとする。


「親方様は、蘇生術にもたけた方ですから」

「蘇生術!? え、ひょっとして俺、死んだの!? ザオなんたらとかで生き返ったとか!?」

「いえ、こう、口から息を吹き込んでこう……」

「……親方ってさ、せめて、女性?」

「いえ? お髭の似合う、それはそれは力強い男性です。私たち鍛冶師見習いのあこがれなんですよ」

「Oh……Nooooooo……」


 俺の唇の初めては、むくつけきおっさんにものになったというのか……。


「……あの、何をお嘆きになられているのかはよく分かりませんが、せっかくですし、お外に出てみませんか? その、……お天気もいいみたいですし」


 言われて、そういえば明るい日差しが入ってきていることを思い出す。

 ──そうだな、まずは、今の状況を知ることだ。


「でしたら、その……お名前をお伺いしてもよろしいですか?」

「あ、……ああ、俺は村田誠作。ひとまず、よろしく」

「ムラタセェサク……さま、で、よろしいですか?」


 どこか発音しづらそうな、ちょっと妙なイントネーションで復唱される。特に名前の部分。


「……村田、でいいよ」

「ええと──では、ムラタさま、と、お呼びさせていただきますね?」


 そう言って、彼女は目を細めると、「どうぞ、こちらです」と、先に立って、出口の方に歩き出す。


 ……仮にも女性なのだ。苗字よりも、名前を呼んでもらうようにした方が良かっただろうか。

 でも、名前の方が発音しづらそうだったし、女性に名前を呼ばせるのもなんだか敷居が高くて、でもって訂正を求めるのもなんだか悪いような気がして、結局言い出すことができなかった。


 くそっ、どうせ俺は童貞だよ!



――――――――――

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