第436話:有頂天

 クオーク親方には、すぐに報告に行ったが、親方には「だからなんだというんだ」という顔をされてしまった。


 噂によれば昭和の親父というやつも、子供や家庭なんてほとんど顧みずにひたすら働くモーレツ社員とかいうやつだったらしいから、頑固一徹な職人の反応なんてこんなものなんだろう。


 だが、俺にとっては初めての子供だ。呆れる親方を尻目にマイセルのもとに飛んで帰った。


 戻ると、女性たちは何やらそわそわしていた。どうも、ミネッタが気を利かせて、人を使って医者を呼んでくれたらしい。そのため、医者が来るまで館の応接室で待つことになった。


「……そういえば、チビ三人はどうすればいいんだ?」


 ヒッグスとニューとリノはまだ現場にいる。俺たちがいなくなった現場で、子供たち三人だけを残していくのは気がかりだ。連れて行くべきだろう。


「だいじょうぶですよ。わたしが見ていてあげますから」

「いや、でも――」

「お医者さまにみていただくだけでしょう? だんなさまは、マイセルちゃんのおそばにいてあげてください。マイセルちゃん、それでいいですよね?」


 マイセルは、それでもどこか不安そうな表情を見せたが、リトリィは微笑んで続けた。


「こういうことは、夫婦そろって聞いた方がいいと思います。だいじょうぶですよ、マイセルちゃんは、ちゃんとだんなさまといっしょにお話を聞いてきてください。――あとで、わたしにもおしえてくださいね?」


 最後にいたずらっぽく笑ってみせるリトリィは、つまりマイセルに余計な気を遣わせたくなかったんだろう。彼女の細やかな思いやりには、本当に頭が下がる。


 俺たちはその言葉に甘えて、ミネッタについて行くことにした。

 だが、医者の到着を待つ間、俺はいったい何を話せばいいのか、さっぱり浮かんでこなかった。


 おめでとう?

 うれしいよ?

 でかした?


 今まで気づいていなかったくせに――そう思ってしまうと、どんな言葉をかけようにも、今さらしらじらしいように思えてしまって、言葉がしぼんでしまうのだ。


 男がいいか女がいいか、そんなこと聞いたって生まれてくるまで分からないんだし、今さらどうにもならないことだ。それにどっちがいいかなんて聞いて、もし俺の希望が外れたら、彼女はきっと俺の希望通りにならなかったと思ってしまうだろう。彼女から聞かれたならともかく、こちらからいうのはよくない気がする。


 じゃあ名前か? それはそれで気が早すぎる気がする。生まれる前から「男なら、女なら」などと決めておけば、いざとなって慌てずに済むメリットはあるだろう。だが、やっぱり生まれた我が子を見てから、その感動を表す命名をしたいとおも思ってしまう。


 で、結局、一体何を話しかければいいのかが分からず、何度も話しかけようと思いながら、しかし言葉を飲み込むという時間が続いた。

 マイセルはマルセルで、時々こちらをチラチラと見てきたのだが、照れくさそうにまたうつむいてしまう――そんなことが繰り返された。


 ミネッタは慣れたものらしく、あのときよりさらに大きくなったお腹を、静かになでさすっている。なのに俺は、声をかけたいのに、ねぎらってやりたいのに、何と言えばいいかわからない――悶々とした時間が、どれだけ続いただろうか。


「やぁミネッタ様。ご機嫌麗しゅう。息災ですかな」


 ドアが開いて、腰の曲がった爺さんが一人の青年を連れて現れた。

 ――助かった、その想いがあふれてしまった俺を責めることができる男親は、そういないんじゃないだろうかと思うほど、沈黙の待機時間は辛かった!


「アルツ先生、いつもありがとうございます」


 ミネッタが、立ってスカートの端をつまむようにすると、腰を下げて挨拶をしてみせる。ああ、この爺さんがお抱え医師というわけか。

 ……いやいや! なにボーッと座ってるんだ俺! 慌てて俺も、ミネッタに続いて立ち上がると、マイセルの手を取って立たせ、一緒に挨拶をする。


「ほう、ご丁寧に。私はこちらのお屋敷で世話になっております、アルツディオクトルと申します。アルツとお呼びくだされば」


 アルツと名乗った爺さんの隣で、青年が黒い鞄を開けた。何かいろいろ入っているが、やはり目を引いたのは聴診器。日本で見たことがあるアレと、形はよく似ていた。ああいう道具というものは、最終的には同じかたちに集約していくものなのかもしれない。


 医者の往診と言うと、その聴診器で内臓の音を聞いたり、触診で感触を確かめたりするようなことを、医療系に限らず様々なドラマなどで見かけるけれど、この世界ではどうやってやるんだろう。


 興味津々で眺めていると、さっきまで好々爺といった感じだったじいさんが、なんだかこちらを冷たい目で見てくる。

 何か粗相でもしたのだろうか――そう思ったら、助手の青年から退出を命じられてしまった。


「いや、俺はこの女性の夫で……」

「女性の診察を行います。ご配慮願います」

「でも――」

「女性の診察を行います。ご配慮願います」


 ――そうだ、ミネッタ! 診察を受けるのはマイセルだけじゃないんだ!

 うっかりしていた。俺は慌てて非礼を詫びると、部屋から飛び出した。




 いつ話が終わるのか――

 全く見当がつかず、そして居ても立っても居られず、俺はひたすらに廊下をうろうろウロウロ徘徊していた。

 三十分くらい経っただろうか。

 医者が廊下に顔を出てきたので駆け寄ると、「お待たせしましたな。さ、お入り下さい」と、医者の先生はニコニコしながら言った。


 やっと部屋に通され、俺はマイセルの隣に座る。

 アルツ先生は、紙に何かを書きつけながら言った。


「まだ触診でわかるような話ではありませんので、推測にはなりますが……お話を聞いた限りでは、まず間違いなくおめでたでしょう。奥様がお腹を冷やさないように、お大事になさってあげてください」

 

 まかり間違っても寒空でお仕事をさせないしないように――何度も念を押された。


「こんなときに縁起でもないことを、と思われるかもしれませんが、出来たばかりの子は、大変流れやすいものです。奥様には安静にしていただき、部屋を暖かくしておあげなさい」


 ――やばい。今日も昨日もその前も、寒空の下で働かせていたぞ?

 いや、今までずっと、本人がそうしたいって言っていたからなんだが、もう午後からはやめさせよう。


「それからですね――」


 アルツ先生は、日常生活の細々とした注意点について、様々な助言をくれた。俺は腰から直角に身体を曲げ、礼を述べた。


「あー……ただ、旦那様。奥様のことが大事だからと言って、何もさせないのもこれまた体が衰えてしまってよくありません。家事は重いものを持ったり高いところのものを取ったりといったことを肩代わりするくらいで、基本は奥様にお任せしても構いませんよ?」

「……安静にするんじゃなかったのですか?」


 俺のとんちんかんな問いにも、アルツ先生は真面目に答えてくれた。


「体を動かすことは体を丈夫にし、ひいてはお子様の健康につながります。それに、体を動かせば気晴らしにもなりますので……」


 では、お大事に――そう言って医者が退出すると、俺は我慢の限界を超えてしまった。思わず、隣のマイセルを抱きしめる!


「マイセル!」

「あ……ムラタさん……?」


 戸惑いつつも嬉しそうに、俺の背中に手を回すマイセルが愛おしくて、俺はますます抱きしめる腕に力を籠める。


 この俺が父親になる――

 そんな実感はまだ湧いてこないけれど、少なくともこの女性が、俺の子供を身ごもってくれた。

 そう考えるだけで、わけもなく気分が高揚してくるのを感じる。


「む、ムラタさん、苦しい……よ?」

「ごめん! でも、今だけ! 今だけは!」


 日本にいる時には、彼女ができることすら夢のまた夢だった。

 そんな俺に、子供が出来たのだ!

 そりゃ、毎晩子作りをしてきたのだから、いつかは子供が出来て当然だろう。

 だがそれでも、やっぱり嬉しいものは嬉しい!


 さっきまで、確かに温かい微笑みを浮かべていたミネッタが、こちらをひどく生温かい目で生温かい微笑みを浮かべているのに気づいて、俺は咳払いをしてマイセルから身を離す。


 だが、子供ができた――ずっと望んでいたことが、ついに実現した。その喜びに、俺はまさに有頂天になったのだった。

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