第435話:妻へ――おめでとう、ありがとう

 それは、フェクトール公の屋敷の外壁及び屋根の復元がおおよそ終わり、塔のほうの作業に本格的に着手し始めた、ある日のことだった。


 クオーク親方は連日の作業の中でひざを痛め、今では現場で指揮を執るのはだいたい俺の仕事となっていた。

 もちろん、現場経験の豊富なクオーク親方の目は確かであり、俺は一つ一つ、親方にお伺いを立てながら、二十一世紀の建築士としての所見を交えつつ議論をし、二人三脚で仕事を進めていた。


 その日も、昼食を終えた俺と親方は、午前中までの作業の進み具合から進行が遅れている工程の見直しのポイントを洗い出し、計画の変更などについて相談をしていたところだった。


「監督補佐! 大変です!」


 呼ばれて俺は、図面から目を上げる。


「どうした、そんなに慌てて」


 飛び込んできた男は、フェクトール公の館のほうで作業をしている班長の一人だった。荒い息をついている男に、俺は腰の水筒を手渡す。


「何があった、誰か転落でもしたか」


 クオーク親方の質問に、男は水筒から口を離して首を振ると、俺に向かってつかみかかってきた。


「監督補佐! 奥様が倒れた!」




 マイセルの元に駆けつける間に、彼女が急に吐いて倒れたと聞いて、真っ先に思いついたのは食中毒だった。原因はなんだ? ウチの食事か? それとも炊き出しか?


 マイセルが心配なのは言うまでもないが、もしかしたら、マイセルだけでなくほかの職人たちにも影響が出るかもしれない――嫌な想像が膨らんでしかたがない。

 ようやく塔の工事も再開したというのに、職人が一斉に食中毒をおこしてしまうようなことになれば、工事はまたストップしてしまう。


「え? 人払いですか? いや、そりゃ奥様ですから、心配するのは分かりますけどね、そんなこと言ってる場合じゃ――え? 違う?」

「だから、吐いたんだろう? 妻だからという理由で特別視してるわけじゃない。感染したうつったら大変だからだ」


 冬と言えばノロウイルス。感染力が非常に強く、かつ簡単には根絶できない頑丈さを誇る厄介者だ。嘔吐物の処理をうまくやらないと、他の職人たちにも感染してしまう。そうなったら、現場はとんでもないことになってしまう。


感染するうつるって――いや監督補佐、いくら嫁さんだからって、そりゃちょっと心配しすぎっていうか……」

「何事もいろいろな場面を想定していた方がいいんだ。それより、マイセルはどこなんだ?」

「あ、ああ、もうすこしです。こっちでさァ」


 それは、廃材を焼いている焚火のそばだった。

 炊き出しの後片付けはもう終わったのか、そばにリトリィが一緒に座っている。なぜか、フェクトール公のそば付き――実質、愛人のような存在のはずのミネッタもマイセルの隣にいて、リトリィと二人でマイセルを囲んでいるように見える。


「あ、だんなさま。おはやいお着きですね?」


 リトリィが嬉しそうに微笑む。マイセルが中身を飲んでいたカップを受け取りながら。


 嘔吐したなら、たしかに水分補給はした方がいい。だけど、万が一ノロみたいな感染症だったらどうするんだ。


「リトリィも、――ええと、ミネッタ……さんも、すぐにマイセルのそばを離れるんだ!」


 だが、二人とも実に不思議そうな顔をした。


「どうか、なさったんですか?」

「マイセルが吐いたんだろう!? 念のために――」

「はい。でも、もう私たちで綺麗にしましたから。マイセルさんももう、大丈夫です。ムラタ様、安心して――」


 ――よりにもよって妊婦ミネッタが!?

 俺は慌てて駆け寄った。


「え、ええと、ミネッタ……さん! 手は、手はきちんと綺麗に洗いましたか?」

「ええ、洗いました。それがなにか……?」

「いや、万が一があっては……」

「だんなさま、それはどういう意味ですか?」


 すこし、とげのある含みを持たせて、リトリィが声をかけてきた。

 見ると、表情が妙に険しい。


「どういう意味って、そりゃもちろん――」

「気分が悪ければ、はいてしまうこともあります。その後始末をすれば、よごれることだってあるでしょう。でもその言い方では、まるでマイセルちゃんがよごれたものみたいに聞こえます。おことばには気を配ってください」


 ……明らかに怒っている。

 俺の配慮が足りなかったと。


 ため息が聞こえたので振り返ったら、俺を呼びに来た班長だった。


「ええと……監督補佐! 汚れるとかそんなこと、気にするときじゃありませんや。まず奥様にお声をかけてやってくださいよ」

「いや、汚れとかじゃなくてな……」

「あなた」


 今度こそ、リトリィの声は怒気を孕んでいた。


「り、リトリィ……?」

「そちらのおかたのおっしゃる通りです。わたしから申し上げてもいいのですが、まずマイセルちゃんから、お話を聞いてあげてください」


 ……怒ってる! 間違いなく、疑いようがなく、リトリィが怒っている!

 おそるおそるマイセルの顔を伺うと、やはりと言うかなんというか、傷ついたような、そんな顔で俺を見ていた。


「……あ、いや……。その、ごめん。その……体調は、大丈夫か?」


 そうだ。

 まずは彼女の体調だ。

 嘔吐して倒れたのだ。処理してくれたまわりの人たちも当然心配だが、まず彼女のことを考えてやれなかった、数分前の俺をぶん殴りたくなる。


「……病気ではないですから、大丈夫ですよ?」


 マイセルがうつむいて、お腹を撫でながら言う。

 リトリィを真似て長く伸ばした、その艶やかな栗色の髪に遮られて、彼女の表情は見えない。


「だけど、吐いたんだろう? 病気じゃないなんて、どうしてそんなことが言えるんだ。すぐ医者に――」

「ですから大丈夫です、ムラタ様。大抵の女は経験することですから」


 ミネッタが、マイセルの背中をゆっくりさするようにしながら言う。


「私もこれには苦しみましたけれど、これはですから」

「授かった、証……?」


 言われたことの意味が分からず、俺は頭の中で病気にかかって喜ぶマイセルという、奇妙な幻視がぐるぐるとめぐる。

 マイセルは黙ってうつむいたままだ。


 そんな俺に、とうとう呆れたように、ミネッタが大きな声で言った。


「おめでたですよ! マイセルさんのお腹に、赤ちゃんができたんです!」




 一瞬、頭が真っ白になった。

 なにを言われたか、理解が追い付かなかった。




「あ、……赤ちゃん? マイセルに……か?」


 マイセルはそっと顔を上げると、喜んでいるのか、それとも悲しんでいるのか、微妙な表情でうなずいた。


 え……?

 あ、いや、もちろん毎晩、子作りはいたしておりますから、当然心当たりは山ほどあるんですけれども!

 いや、その……だからといって、急に子供ができたと言われても、なんだか実感がわいてこないわけで……!


「ここ最近、パンを焼くときの匂いが辛かったみたいです。つわりがくるのは少し早いようにも思いますけど、前にがきた日を考えれば、そろそろきてもおかしくありませんから」


 ミネッタに言われて、そんな素振りを見せてこなかった……というか、マイセルのそんな体調不良に全く気づいていなかった自分の不甲斐なさに愕然とする。


「すみません、わたしもお母さまに、仔をさずかったときのからだの不調についてはきいていたんですけど、わたし自身はその……そういうことを感じたことが、なかったものですから……」


 リトリィが、さっきとは一転して、申し訳なさそうな顔をする。いや、俺だって昨夜も彼女を抱いているのに、全く気づいていなかったんだ!


「一応、お医者様にもおせしたほうがいいと思いますが、たぶん、間違いないです。本当は医療師様に、法術で診ていただくのが確実なのですけれど、……とても、お高いですから」


 ミネッタは、どこか申し訳なさそうにしていた。

 おそらく医療サービス、特に高度な魔法のサービスを受けるには、魔力ってやつが枯渇しているこの土地では、高額の費用が掛かるんだろう。


 ミネッタ自身はフェクトール公の屋敷で暮らしているだけあって、そのあたりのサービスは十分に受けることができているのだろうが、俺たちはただの庶民。恵まれた自身の境遇に、引け目を感じたのかもしれない。


「……ムラタさん、その……ご迷惑をおかけして、ごめんなさい。私、みんなに迷惑、かけちゃって……」


 マイセルまでひどく落ち込んだ様子を見せたものだから、俺は慌てて彼女を抱きしめた。


「ごめん! 俺、マイセルが吐いて倒れたって聞いただけだったから、てっきり食べ物に当たったか病気になったかって思ってたんだ。もし病気だったら妊婦さんに、リトリィに感染させうつしてしまわないかって思って……」

「ムラタ、さん……?」

「苦しかったのはマイセルのはずなのに、マイセルのお腹に俺たちの赤ちゃんがいたなんて、俺、気づきもしなくて……!」


 胸が痛かった。

 えぐられるような思いだった。

 あのフェクトール公を散々罵っておきながら、自分自身が妻の妊娠に気づいていなかった。それも、毎日そばで生活していて、毎晩肌を重ねていながら、だ。


「そ、そんな……。だって、私だって確信はなかったんですよ? ムラタさんがそんなこと、気にしなくたって……」


 マイセルが、俺の背中を撫でながら慰めてくれるが、それでとても赦されるようには思えない。そもそも確信がなかったということは、多少なりとも彼女の中で、妊娠しているかもしれないという自覚はあったわけだ。


 ……だが俺は気づいてやれなかった。

 もう一度謝ると、今度は辛そうにされた。


「……ムラタさん。私、ムラタさんに謝ってほしいなんて、思ってないですよ?」

「でも、俺は、俺は……」

「だんなさま?」


 なおも謝罪しようとした俺に、リトリィが微笑みながら声をかけてきた。


「だんなさま、マイセルちゃんがほしいものは、だんなさまの謝罪ではありませんよ? マイセルちゃんはがんばったんです。――ううん、これからもっと、がんばるんですよ?」

「――あ? あ、ああ……!」


 そうだ。

 やっと気づいた。

 俺が、妻にかけるべき本当の言葉に。

 今さらだけど、かけなきゃならない言葉……!


 彼女の華奢な肩に回した腕に、力を籠める。


「マイセル、おめでとう……ありがとう!」

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