第251話:贅沢なのかもしれないけれど
太陽が顔を出し、それまで赤かった東の空が一転、さわやかな青空に変わる。そんなダイナミックな天を仰ぎ見ながらの、水浴び。
家の側に生えている木にロープを渡して布を垂らしてこしらえた、即席のシャワールーム。
そこで俺とリトリィは、覆いをしているとはいえ、外で、互いに全裸で水浴びという状況、そして水の冷たさに、きゃあきゃあ騒いでいた。
一晩かけ全精力を注ぎ込んだというのに、今度はそれを洗い流さなければいけないのだから、なんというか、もったいないというか。
だが、今日はこれから人間よりも鼻の利く女性のところに仕事に行くつもりなのだから、仕方が無い。
まあ、昨夜は藍月の夜、そしてこちらは結婚間近のカップル。ときたら、一夜をどう過ごしたかなんて考えるまでもないことだし、当然先方も分かってはいるだろう。だが、少しでも取り繕う努力は必要だ。
などと言いつつ、お互い、冷たいだのなんだの言い合いながら洗いっこしている最中に、突然沈黙して水の掛け合いがなくなって、そんな、もぞもぞうごくタオルの壁の奥で何が行われたかなんて……。
いや、うん……追加の洗いっこが必要になっただけだ。
「あの……、本当に、お仕事に行くんですか?」
俺の前にパンを置きながら、リトリィが気遣わしげに言う。
「……その、今日はむりにおしごとをされなくても、きっとあちらは、なにもおっしゃられないと思いますよ?」
「いや、あのごたごたで、しばらく顔を出していなかったからなあ。とりあえず、顔を出すだけでも、と思ってさ」
「で、でも……」
「行かなくてもいい理由でもあるのか?」
「……その、藍月明け、ですから」
リトリィは恥ずかしげに身を縮めた。
……なるほど。よく考えたら、獣人カップルはどこも、アツアツの夜を過ごした次の日だ。みな、そういうものだという理解の元で生活しているのだろう。
「
……なるほど。
イベントには誰もがちゃっかり乗っかるわけだ。
でも、そうするとやっぱり欲しいものがある。
そう、人目を気にせずにそれができる、あれ。
「――風呂が欲しいな」
「おふろ……ですか? 今朝みたいに、お庭で水浴びでは、だめですか?」
「いちいち外に体を洗いに行くの、面倒じゃないか。今の時期は多少あったかくなってきたといっても寒いし水も冷たいし、第一、人目も気になるだろう?」
「で、でも、そんなぜいたくな……」
浴室の便利さを、俺は改めて痛感していた。
やっぱり、身だしなみを整えるためにも、最低限、シャワールームは欲しい。シャワー自体は難しくても、水を浴びることができる、耐水性能と排水機能を備えた部屋。
そう考えると、山で暮らしたあの館の、浴槽も何にもない「浴室」――あれがあるだけでも、随分と助かるものだと思い知らされる。
使いたいと思ったときに、「それ」がある。いつでも熱いお湯が出る。なんと便利な暮らしだったのだろう、日本という世界は。
「体を洗うだけじゃなくて、清潔さも保てる。街の商売人には必要な設備だと思わないか?」
「そ、そうでしょうか。わたしには、ぜいたくすぎるように──」
ぱたぱたと不安げに耳を動かすリトリィ。これはいけない、やはり共同経営者にも理解を深めてもらわないとな!
「いいや、贅沢なんかじゃないぞ。これは必要な投資だ」
「と、投資──ですか?」
きょとんとするリトリィに、拳を固めて力説してみせる。
「そう! 清潔な姿は印象に響く! 身だしなみは営業成績に響く! つまり俺たちの今後の浮沈にかかわる重要事項なんだよ!」
「は、はあ……」
「あと、さっきと違って、人目を気にせずに君と洗いっこができるようになれるし」
「洗いっこって……。やっぱり、そっちが目的なんじゃないですか。もう……いつもいつも、あんないたずらはしないでくださいね?」
「えっ?」
「えっ?」
俺は天を仰ぐように大げさに嘆いてみせ、立ち上がると、その手を捕まえ握りしめる。
「リトリィは嫌だったのか!?」
「あ……いえ、えっと──」
「嫌だったのか!?」
「い、いや……では、ない、です、けど……」
頬を染めて目をそらす彼女がまた、可愛らしい。
「じゃあ決まりだ。作ろう、浴室」
改めて両腕で彼女の肩を抱くと、全力で宣言する。
「またひとつ、リトリィとイチャイチャできる場所を増やすために!!」
「か、からだを洗うためですよね!?」
慌てて俺を見上げる彼女の、いつもと違った動揺の仕方も愛らしい。
ただ、冗談ははともかくとして、浴室自体はあると便利だ。
「こうして俺たちの愛の巣が充実していくわけだ!」
「あ、愛の巣って……。ここは、ムラタさんのお仕事場でしょう?」
「誰もいなくなった職場で愛を確かめ合うのか。所長と秘書の秘められた恋が燃え上がるってかんじで、いいね」
笑ってみせると、リトリィは頬を膨らませる。
「む、ムラタさん! おはなしが、ずれていますよ! そ、それにおふろを作るって、どこにこしらえるんですか」
「ほら、パントリーが無駄に広いだろう? そこを改造してさ」
「おうち、建てたばかりですよ? 大工さんに、おこられませんか?」
「なに、使いやすいようにリフォームするのに、時期なんて関係ないさ。それに……」
目は怒っているように見せているが、ぱたぱたと落ち着かない耳と、ぶんぶん動く尻尾が、彼女の内心を物語っているようで面白い。なんだかんだ言っても、
「だ、だめ、ムラタさん、やめて? ……
結局、リトリィにはさんざん叱られてしまった。テーブルの上に置かれたパンは、盛んに振られたリトリィの尻尾で薙ぎ払われて床に転げ落ちてしまっていたし、キッチンの鍋の中にあったスープもすっかり冷めてしまっていたためだ。
「もうすこし、わきまえをもってください! わたしだって、おこるときはおこるんですからね!」
はい、ごめんなさい。もう一度、洗いに行きましょう。いえ、ちゃんと洗って差し上げますとも。
……あ、いらない? 俺に任せるとまた洗わなきゃいけなくなるから、自分で洗うって?
そんなこと言わずに。
──そしてまた、洗い直しが必要になったと、怒られたのだった。
「ムラタさん、
図面を引いていると、リトリィが茶菓子と茶のポットをもって部屋に入ってきた。
もう午前のお茶の時間か。時間がたつのが速い。
「もう……。あなたがあんなにするから、
デスクに茶と茶菓子を並べる彼女に、いつものように伸ばした手を、いつものように尻尾で払われる。
──至福。
このふわふわの尻尾で払われる感触がたまらないから、こうやって手を伸ばしているようなものだ。
「それで、昼餉には何が食べたいですか?」
「リトリィ」
このやりとりも、今ではお約束だ。なんだかんだ言って、結局彼女が俺に食べさせたいものを準備してくれる。俺の手をあしらいつつ、わざわざ、手に尻尾を擦りつけるようにしてくれるリトリィの余裕も、また愛おしい。
「はいはい。それで、ムラタさん。その図面って、ひょっとして……」
「ああ、浴室。といっても、今あるパントリーの一部を、防水タイルで囲った部屋に改造するというだけなんだけどな」
「ほんとうに、浴室を?」
「造るって言っただろう?」
リトリィは、ため息をついた。しかしその顔は、やんちゃな少年に手を焼きつつも慈しむ姉かなにかのような微笑みを浮かべている。
「もしお造りになられるのでしたら、お水を運ぶくらいは、手伝ってくださいね?」
「まかせろ。君といちゃいちゃするためなら、なんだってする」
「いちゃいちゃじゃなくて、水浴びでしょう?」
「いちゃいちゃしてから水浴びだ、問題ないだろう?」
さらに呆れるようなため息をつかれた。
い、いや! この世界では贅沢に感じるかもしれないけど、家の中で水浴びができるって、結構いいものなんだぞ!
今考えてるアイデアはさ、オーブンや煙突の予熱で水を温めて、それを使って……!
おい、リトリィ!
「はいはい」なんて軽くあしらわないでくれ!
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