第250話:未来を望む君に

「……君に宿るのが誰の子になるのかなんて、そんなこと、これっぽっちも考えてなかったけど……」


 俺は正直に言った。

 今日、正式に求婚し、そして婚約の証――今も彼女の首に、俺の首に巻かれている、チョーカー・ネックレス――で結ばれた俺たちだ。


 彼女は、俺を信じると言ってくれた。

 ずっとそばにいると、そう言ってくれた。

 俺との未来を、望んでくれた。


 だったら、ごまかしたくない。


「……その、あの夜だ。君が出て行ったあの夜、君は一晩、どこで、だれと、逢っていたのかって、ずっと、気になって……」


 これを聞いてしまったから、俺とリトリィとの間に、あの夜、大きな溝が生まれた。そして、そこを付け込まれた。


 誰と逢っていたのか――確実に、男性だろう。

 彼女のあの時の動揺を思い出せば、間違いない。


 ペリシャさんは言った。

 女の秘密を過度に暴こうとするなと。

 それで俺は疑心暗鬼になってしまった。

 それで彼女を失いかけたのだ。


 それなのに、無事に彼女が戻ってきたら、またそのことを気にかけている。

 なんと気の弱いことだろう。


 でも――それでも、聞くと決めたのだ。


「だめ、なんだ。気になってしまって。君がどんなにつらい思いをしたか、誰かを頼りたいと思ったか。それは分かるのに、でも、その相手が俺じゃなかったことが、俺は――」

「ムラタさん」


 そっと、俺の首に、彼女の腕が巻き付いて。

 そして、彼女に、口をふさがれる。

 唇を触れ合わせる、ただそれだけのキス。


 そして、リトリィは俺の頬に手を当て、ゆっくりと口を離してから、言った。


「私が遭っていたのは、ガルフさんです」


 予想外の言葉に、声を失う。

 ……ガルフ、だって? あの狼男の!?


「そうです。あの夜に」


 ガルフが、君と、接触していた……!?

 取り乱す俺に、リトリィは、やや目を伏せた。


「はい。あのときと同じことを言われました。『オレの仔を産め』って」




 あの夜。

 家を飛び出したリトリィは、しばらくの間、夜の道をさまよっていたという。

 やがて橋の上でひとり、泣いていたところに現れたのが、ガルフだったそうな。


 そのときは人の姿だったらしい。そしてリトリィを見て一言、『お前のような美しい女は見たことがない』と言って、続けて出てきた言葉が、『そんなお前が、どうしてこんなところで泣いている』だったのだそうだ。


「わたしだって、じぶんのみっともないところをあなた以外の殿方にお話できるほど、子供でもないですから。はじめは、知らん顔をしていたんですよ?」


 するとガルフは、お前の悲しみは理解できる、自分なら女が泣くようなことはしない、自分は強い、泣かせる奴がいたら容赦しない、どんな奴からも自分が守ってみせると続け、そして最後に出たのが、例の『だからオレの仔を産め』だったのだとか。


 リトリィ自身は、自分には決まった相手がいると言ってきっぱりと断ったらしい。

 しかしガルフは、それくらい分かる、いま腹に収めている子種の持ち主だろう、とうそぶき、だがそいつがお前の泣く理由になっているんだろう、オレの女になればオレが守ってやれる、オレの女になって仔を産め、としつこく繰り返したのだそうだ。


「……今から思えば、もうすぐ奴隷として捕まえなきゃいけなくなるから、そのまえにわたしを自分のものにしたかった、ということだったのかもしれませんね」


 リトリィは俺よりもずっと力があるし、足も速く、体力も持久力もある。けれど、それでも狼男化したガルフには遠く及ばないはずだ。


 それなのにガルフは、口で訴えるばかりで、彼女をさらおうとするとか、いっそその場で乱暴するとか、そういった素振りは一切見せなかったという。


「わたしが心変わりするのはあたりまえだと思っていたみたいで、だからガルフさんは、辛抱強く、それをまっているように見えました。自分なら元気な仔を産ませてやれる、それをくりかえして」


 困ったような笑みを浮かべるリトリィだが、聞かされる俺としては気が気ではない。そんな男と一晩、一緒にいたというのか。


「そうしたら、そこに通りがかったのが、ナリクァンさまだったんです」

「……そこで!?」


 たぶん、なにかのつてで、わたしが橋の上に一人でいたことをお知りになったのでしょうね――そう言って、リトリィは笑った。


「だって、わたしを馬車に乗せたあと、来た道をそのまますぐに引き返してお屋敷ですよ?」


 ……あー、うん、それならたしかに、そうかもしれない。

 

「それで、つぎの日の昼過ぎまで、お世話になってしまいました」

「……ガルフは、そのとき何もしてこなかったのか? リトリィを奪おうとか……」

「そのときは、なにも。『行くのか』と、馬車に乗ろうとする私に一言、声をかけただけでした」


 結局、ガルフには何もされず、館に着いたリトリィは、深夜だというのに何人もの女性使用人によってお風呂に連行されたのだという。

 隅々まで――それこそ、はらの奥まで丹念に洗われたらしい。


 で、そのまま絢爛豪華な客間の、これまた豪奢な天蓋付きベッドで、一晩、落ち着かぬ夜を過ごす羽目になったのだとか。


 いまだ癒えぬ左の小指の包帯――その奥が、ずきりと痛む。そういえば、ナリクァンさんは知っていた。リトリィが、心に傷を負っていたことを。


 まあ、そりゃそうだろう。

 スリップ一枚だけしか身に付けず、ショーツもズロースも履かずに、深夜、俺ではない誰かと話をしていた、そんな彼女を保護したのだ。


 どう考えても俺が何かをやらかした、そう判断するに決まっている。実際、やらかしたのは間違いないのだし。


 ところがナリクァンさんは、彼女を回収した馬車の中でも、屋敷に到着してからも、リトリィを問い詰めるようなことはしなかったそうだ。


 なぜあの場に居たのか、何をしていたのか。

 そういったことを、一切。


 ほんとうは、ずっと屋敷にいてもいいと言われたらしいが、リトリィは、俺が待っているだろうからと断って、ひとり、歩いて帰ってきたのだという。


 ただ、別れ際に一つだけ、「辛かったのですか」と尋ねられたらしい。


「わたしは、あなたに無造作に抱かれたのが、つらかったんです。抱けば落ち着く、いうことを聞く――そんな女だって思われていたんだって。それが、すごく、つらかった……。

 だからそのとき、はい、とだけ答えたんです」


 ――ああ、それだ。

 それが、俺の、最大の過ち。


 セックスすれば仲直りできる、そんなくだらない幻想を抱いていた。

 確かにその夜までは、彼女自身、泣くたびに体の関係を求めて来たし、だから彼女が泣くたびに抱いていたし、俺自身、彼女は抱けば落ち着くものなのだ、そう思ってしまっていた。


 事実は違った。抱くことは、彼女の不安をただ紛らわせるだけ――問題を棚上げにしていただけだったんだ。


「ほんとうに、あの夜は、……すまない。君のことを、傷ついた心を、考えていなかった。リトリィは、二人で挙げるはずだった結婚式に介入されるのが、いやだったんだろ?」


 俺の言葉に、リトリィは一瞬ためらったあと、小さくうなずいた。

 ……やっぱりそうだったんだ。

 なぜ俺はあの時、気づかなかったんだ。


「で、でも、いまはそんなこと、ないですから。マイセルちゃんと三人で、式を挙げたいって、思ってますから」


 月光を浴びて輝く、首鐶のバックル。

 いまさらだけど、昔飼っていた犬の首輪を思い出してしまった。それを、俺も、揃いで身に付けている。


 三人で、揃いの、首鐶。

 共に歩む証。


 リトリィは、それを、受け入れてくれたのだ。

 いまさら、それを疑う気はない。


「……でも、まさか、それでナリクァンさまが、ムラタさんにひどいことをするなんて、思っていませんでした。……ごめんなさい」


 謝られても、俺の方が困ってしまう。彼女は何も悪くない。その思いを理解せずにリトリィを傷つけた、俺が悪いのだから。


「でも、それで、あなたは怖い思いも、ひどい目にも遭ってしまったんですよ?」

「怖い思いも、ひどい目にも遭ったのは、リトリィの方だろう? 俺はただ、自分のやらかしたことの報いを受けただけだ」


 俺の言葉に、リトリィが、俺の頭の包帯をなぞるようにする。


「わたしは、こんなひどいけがなんて、していません。このおけがは、きっとあとが残ります。わたしの、せいで……」

「痕が残る、か。それはそれで、一つ激闘を生き延びたっていう箔がつきそうなものだ。かっこいいだろ?」

「もう……」


 リトリィは、困ったような笑顔で、包帯にキスをした。


「その傷をこれから見て過ごす、わたしの気持ちにもなってください。わたしのせいで、あなたを傷つけてしまったって……」

「いいんだよ。俺は俺で、自分の馬鹿さ加減のいましめになるさ」

「そんな、あなたは――」


 言いかけたリトリィの唇を、今度は俺がふさぐ。

 反省とか、謝罪とか、そんなのは、もう、たくさんだ。


 欲しいのは、そんな言葉じゃない。


 互いを慈しみ合い、いたわり合う言葉だ。

 互いの愛を、確かめ合う言葉だ。


「……もう、いいんだ。愚痴なんていらない。過去の反省もいらない。今は藍月の夜、未来を語る夜だろう?」


 そう言って、改めて彼女の上に、覆いかぶさってみせる。


「子供は、何人、欲しいんだ?」


 リトリィも、ふたたび、俺の腰に足を絡める。


「……あなたが、のぞむかぎり、いくらでも」

「言ったな? もういらないと言っても、産ませ続けるからな?」


 彼女の爪が、俺の背に食い込む。

 熱い吐息のその奥で、さらに俺を飲み込もうとする。


「五人でも、十人でも……のぞんでくださるなら、何人だって」


 それは、決して果たされることのない夢、だろう。

 それでも今夜は、今夜だけは、その夢を、見たい。

 たくさんの子供たちと生きる君の夢と、同じ夢を。

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