第295話:あの子の幸せを願うから

「――私を愛してくれる彼女たちの、その愛に応えるためにも、まずは自分の足で、しっかりとこの世界を踏みしめて、彼女たちと、共に生きていきたいんです」


 俺の言葉に、ナリクァンさんはしばらく、俺の目をじっと見つめていた。

 にらまれているわけではなかったが、目をそらすわけにもいかなくて見つめ返していた俺にとっては、一時間にも二時間にも思われた。


「――身の程知らずの愚か者、ですこと」


 ナリクァンさんはそうつぶやくと、ソファの背もたれに身を沈める。


「いいですこと? 愛を崇高なものとしてとらえるのはご自身の勝手ですが、その愛とやらで身内を養っていけるかどうかということを、まずは考えねばならないのではありませんか?」


 愛や矜持プライドでは腹は膨れない――それを言われたら、こちらも返しようがない。思慮が浅いと返されては。


「私はね? なにも、あなたの矜持を捨てよと言っているわけではないのですよ。あの子が幸せになるために、あなたのお仕事をお手伝いすると言っているだけなのです」


 それはおそらく間違いないのだろう。ナリクァンさんがリトリィを可愛がってくださっているのは、十分によく分かっている。

 親父殿とも何らかのつながりのある人なのだし、リトリィのことも幼いころから知っているはず。俺よりもずっと以前から、彼女のことを気にかけてきたはずなのだから。


「ありがとうございます。これまでもたくさんの有形無形のご支援をいただいてきたことは、感謝の念に堪えません」

「でしたら――」

「ですから、もう少しだけ、温かく見守っていただけたら、ありがたいのです。自分自身、この世界の人間としては半人前です。赤ん坊のつかまり立ちを見守るつもりで、出発を見守っていただけないでしょうか」


 子供の歩む道からすべての小石を取り除くことが、健全な子育てだと言えるわけではないでしょう――俺の言葉に、目を丸くするナリクァンさん。


「……矜持を語ったかと思えば、今度は幼子おさなごですか。口のよく回る人ですこと」


 ひとしきり笑ってみせたあと、すうっと、目を細める。


「ばぁばの余計な世話などいらぬ――そういうことですね?」

「リトリィは、ナリクァン様を実の祖母のように慕っています。私はともかく、彼女にはこれからも変わらぬ姿を見せていただけると、彼女の幸せにつながると思う次第です」

「ふ……本当に口のうまいひとですこと。あの子への利益は、ご自身の利益につながるからでしょう?」


 にこやかに返され、俺は目が点になる。


「ま、待ってください。どうしてリトリィへの変わらない姿を望んだら、それが俺の利益になるんですか?」


 彼女が幸せになるためには、やっぱり彼女が好きな人とのつながりが大切だ。ナリクァンさんは、祖父母のいない彼女にとって、厳しくも温かい、祖母のような存在になっているはず。花嫁修業のときも、厳しいと言いながら嬉しそうにナリクァン邸に通っていたのだから。


 そう言うと、今度はナリクァンさんの目が点になった。


「……あなたは、何を言っているの?」

「何と言われても……リトリィの幸せのために、ナリクァン様が必要だと申し上げているだけですが」

「私が? 私の力が、でしょう?」

「いえ、そうではなくて。祖父母を知らないリトリィにとって、ナリクァン様は、彼女の生き方の模範となる、厳しくも温かい祖母、そのものだからです」


 同じことを繰り返す。

 だってそうだろう? あれほどナリクァンさんの言葉に影響を受け、そして実践しようとしているリトリィを見ていれば、彼女にとってナリクァンさんの存在がいかに彼女の「妻としての生き方」の指針になっているかが、分かろうというものだ。


「……他には?」

「他には……ええと、だから、その……俺がナリクァンさんに見限られたとしても、それを悟るときっと彼女は悲しむので、表面上だけでも、今まで通りの付き合いをしてくださると、ありがたいです」

「……話すべきことが、もっと他にあるのでなくて?」

「ですから、俺はいいですから、リトリィの敬愛する祖母でいてくださいって話です」


 身の程知らず――ナリクァン商会の好意を断った俺を、ナリクァンさんはそう評した。

 当然だとは思う。だが、俺がリトリィの幸せを願っているのと同じことを、ナリクァンさんも願っているはずだ。

 せめて、リトリィには、変わらないひとであってほしい。彼女の前でだけは、取り繕ってもらえたら。


 ところが、ナリクァンさんはそんなことを聞きたいわけではなかったらしい。こめかみを押さえるようにしながら、俺の言葉を遮った。


 後ろに控える黒ずくめと、二言三言、なにかを交わすと、あらためて俺を見た。仕方のない子供だと言いたげな、困ったような笑みを浮かべながら、小さなため息をつく。


「……もう、いいですわ。別の意味で、私の傘下に組み込みたくなりました」


 そう言って、再び黒服に何か一言二言、ささやく。黒服は小さくうなずくと、部屋を出て行った。

 ……別の意味って何だろう? じゃあさっきまでは、どういう理由で俺を取り込もうとしていたんだ?


 それにしても、なぜか、ナリクァンさんの言葉が翻訳首輪で翻訳されなかった。そういえば、さっきもそうだった。特殊な何かがあるのだろうか。


 ナリクァンさんは改めて俺に向き直ると、笑った。

 今度は、朗らかに。


「いいでしょう。私たちはあの子の幸せを願う――その一点について、同じ目標を持った者同士……ですわね」

「そう言っていただけると、助かります」

「まったく……。あの子以上に危ういひとだったとはね」


 ……ナリクァンさんの俺への評価が、危険人物扱いになったようだ。どうしてだろう、俺はさらに何かやらかしそうだと受け取られてしまったのか。それほどまでに、ナリクァンさんの支援を断ったことが異常だったということなのだろうか。


 だが、俺はともかく、リトリィとの関係は継続してくれるということなのだろうから、その点はよしとすべきなんだろう。


 そのとき、部屋の戸がノックされた。黒服がドアを開けると、そこにいたのはリトリィと、そしてマイセルだった。


 リトリィはどこか恥ずかしそうに頬を染め、マイセルは早く話したいといった様子で部屋に駆け込んでくる。


「ムラタさん! お姉さまの衣装、すっごく綺麗でした! ムラタさんも来ればよかったのに!」


 こう、布がこうやって――マイセルが一生懸命、身振り手振りでそのドレスの美しさを語ろうとする。


「派手とかじゃなくて、落ち着いた感じなんですけど、清楚なお姉さまにぴったりなんですよ! それに、よく見たらすっごく細かい刺繍がいっぱいしてあって! それでそれで――」

「……マイセルちゃん?」


 リトリィにたしなめられ、マイセルは慌てて姿勢を正すと、あらためてナリクァンさんに礼をしてみせる。まったくもって、その挙動は姉妹そのものだ。


「ムラタさんには、当日に驚いてもらいたいですからね。今日、一緒に見られないのは残念かもしれませんが、マイセルさんも、旦那様があなたを見て驚く顔を楽しみにしていらっしゃいね」


 マイセルは、その言葉でやっと、自分も一緒に結婚するのだと気づいたような顔をする。急に顔を赤くしておろおろし始める彼女に、みながつられて笑顔になった。




「もう少し、裏をお持ちになった方がよろしくてよ?」


 その言葉の意味を図りかね、首をかしげながら門をくぐったとき、一緒についてきた黒服がぼそりとつぶやいた。


「実は、お前の言動が真なるものか、確かめていた」


 そう言って、一枚の羊皮紙のようなものを懐から取り出す。それには不思議な文様がたくさん描かれていて、魔法陣のように見えた。


「これは、口に出した言葉と内心の差を測るものだ。黒くなればなるほど、口先の言葉と内心との差を示す」


 黒くなればなるほどって、真っ白なんだが。そう聞くと、黒服は首を振った。


「だから奥様は呆れておられたのだ。まったくもって白い。ひととして誠実なのが大変よく分かって結構だが、商売人としては実に危うい」


 そう言って、魔法陣を懐にしまう。


「奥様はずっと挑発的なことを言って試しておられたが、それでもこのありさまだ。ここまで白いままに会談を終える客など、初めて見た。人はいいのだろうが、奥様が心配になるのも分かる。もう少し、腹案を持った方がいいぞ」


 ――つまり、裏がなさすぎて、余裕もないし騙されやすいぞ、という忠告なのだろうか。いや、俺はもう、必死だったんだよ!

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