第470話:調印式の朝

 いつもの朝、いつものモーニングルーチン。

 乾布摩擦にラジオ体操。なぜかいつも楽しげにくっついてくるリノと一緒に、毎朝の日課をこなす。


 最近は毎日高さ三十メートルの塔を上り下りしているしているおかげだろうか、多少は筋肉がついてきている感じがする。特に腰から下。持久力もついてきたように思う。


 おかげで、以前より夫婦生活にも余裕が出てきた。昨夜だってかろうじて睡眠時間を確保できる程度には、彼女たち――特にリトリィ――を満足させることができた。というか、かろうじてリトリィの欲求についていけるようになったと言うべきか。

 うん、筋肉は偉大だ。これからはモーニングルーチンに筋トレも取り入れたほうがいいだろうか。


 水浴びのために、井戸から水を汲み上げる。

 肌着を脱ぐと、先に裸になったリノが、歓声を上げて俺に水をかけてきた。もちろん、俺も負けじと掛け返す。


 まだまだ朝の息は白いものの、でも確実に春に向けて暖かくなっている。とはいえ日本にいたころには、冬に水浴びなんて絶対にやらなかったし、そんな気にもなれなかった。人間、どんな環境にも順応するってことだろう。


「だんなさまーっ!」


 飛びついてくるリノの頭をくしゃくしゃと掻き撫でる。明るい茶色の髪は、水に濡れて落ち着いた色合いになっていた。

 リノはくすぐったそうに三角の耳をぴこぴこさせながら、でもうれしそうに笑顔を向ける。


 ――右耳は、遂に、完全には治らなかった。いや、あの戦いで負傷してちぎれかけた状態から、よく腐りもせず残ってくれたというべきか。

 右耳だけ、やや垂れたような形になってしまったのは、獣人族の女性としてはかなり美容的なハンデとなるらしい。だがリノは俺が将来もらい受けると決めているのだ。なにも問題はない。


 とはいえ、無邪気な笑顔を向ける彼女にやはり少しばかり罪悪感を感じ、振り払うように抱き上げてやる。リノは楽しげに歓声を上げつつ、ほおずりをしてきた。


 彼女を拾ったときは、こんなことになるなんて欠片も思っていなかった。

 あのすさんだ少女が、こんなにも心を開いてくれるなんて。


「よーし、体を拭くぞ」

「はーい!」


 濡れたリノの艷やかな肌を、手ぬぐいで優しく拭いていく。

 獣人族ベスティリングであるリノは、本来ならもう十五、六程度の体には発達していなければならないらしい。だが栄養状態のよくない幼少期を過ごした彼女は、まだ未成熟な点が多い。


 それでも体つきはかなり変わった。あばらが浮いて見えるほどにやせこけていた体は、この数カ月でずいぶんとふっくらしてきた。これまで成長したくてもできなかった分を取り戻すように。


 その頬も、腕も、胸のふくらみも、尻の丸みも、太ももも、出会った頃よりずっと厚みを増している。背の低さだけはどうしようもないようだが、出会った頃よりもずいぶんと、女性らしいまろみを帯びた体つきになってきた。


 拾った頃とは雲泥の差だ。動乱の時に受けた傷も今ではすっかり綺麗に治り、白磁のようになめらかな肌が朝日に輝く。以前よりも栄養が行き渡っている証拠だろう。

 うん、実に健康的でなによりだ。


「ムラタさーん、リノちゃーん! 朝食の準備ができましたよーっ!」


 マイセルの声に、リノがまた歓声を上げる。


「だんなさま、だんなさま! あさごはんだって! ボク、おなかペコペコ!」


 素っ裸のまま走り出そうとするリノをつかまえると、庭のすみのシェクラの樹にかけておいたワンピースを渡す。


 もどかしげにワンピースを着始めたリノだが、結局、腕をすべて通す前に走り出してしまった。

 相変わらず下ばきを嫌がるため、しっぽを水平に持ち上げて走るリノは、そのたびに可愛らしいおしりが丸見えだ。

 このままいけば、この冬を素肌にワンピース一枚で乗り切ってしまうだろう。まったく、頑丈な少女だ。




 今回の動乱では、うちの街も、攻撃してきた侯爵側も、多くの犠牲を払った。

 俺たちの街に喧嘩を売ってきた侯爵は、今回の件で、いろいろな条件を飲むことになりそうだ、という噂だ。もちろん、正式な条約の内容など、公開されるまで分からないが。


 ただ、侯爵がどうなろうと俺たち庶民には雲の上の話。関係するとすれば、税が重くなるか軽くなるかくらいだろう。復興税という形で、当面の間、重くなるのは予想できるが。


 それはともかく、塔の下には久々に集まった第四四二戦闘隊のメンバー――隊長をはじめ、あのとき共に戦ったメンバーが集まっていた。


 調印式はフェクトール公と、マステルレイブス家当主のアニマードヘタイン侯爵の両者によって、一番の激戦区となった四番門前広場で行われる。その場を守るのは、フェクトールが率いる騎士団の中でも最精鋭の月耀騎士団。そして向こうさんの親衛騎士団。

 民兵たる四四二隊の出番はない。


 だからこそ塔の下で、昼間っから酒をかっ食らっていられるんだけどな。調印式はきっと荘厳な雰囲気なんだろうけど、こっちは侵略者を追っ払った祝いをさかなに、ちょっとした騒ぎだ。


「それにしても、城壁の上からチラっとしか見なかったが、向こうの軍隊はホント光りモノが好きだな? 見たか? 兜の上の飾り。やたらめったら金ぴかに飾り立てやがって。お前らはカブトムシかクワガタムシかってぇの」


 隊長――熊属人ベイアリングのヒーグマン隊長は、早くも出来上がっているようだ。酒瓶から直接酒を飲んでいる。


「……ただ、その侯爵軍なんですけどね? 少し話を聞いただけで状況を悟るムラタさんなら、もうお気づきかと思いますが……」


 猿属人アーフェリングのウカートが、丸眼鏡の中央のフレームを押し上げながら言った。


「結局のところ、連中、『戦争に来た』という意識があったかどうか、実は疑わしいんですよ。自分に言わせれば、連中の半分は物見遊山――この街にたかりにきただけに見えましたね。少なくとも、そこらの騎士の連中は」


 それは俺もずっと疑問に思っていた。

 戦争をやりに来たなら、侵略先の大通りを、まっすぐゾロゾロ歩いてくるだろうか。なにせ魔法のある世界だ。不用意にかたまっていたら区画ごと吹き飛ばされるとか、あり得そうだ。


 それなのに、あの堂々たる行進ぶり。

 戦闘が始まってから魔法が使えないことに気づいたくらいだから、戦闘になれば自分たちが魔法で襲われるおそれがあることも、理解していたはずだ。


 しかし連中は、対角線で区切られ、上が黄色で下が赤に染められた例の『宣告旗』とかいう旗を見せつけながら、軍団と武器をひけらかしてパレードのように、堂々と真正面からやってきた。


「あれは相手の戦意を失わせて要求を呑ませるための、貴族の常套手段らしいですよ」


 ウカートが、眼鏡をつまみながら続ける。


「フェクトール公がすぐに騎士団で迎え撃たなかったのは、おそらく連中のそういう意図を汲んだからでしょう」


 ……そうか。そういうことか。

 あの軍団は、示威行為のために揃えられた集団だったということか。つまり奴らは、貴族の作法にのっとって「交渉」に来たのであって、だから攻撃されないと思っていたのかもしれない、ということだ。


 「多少の」略奪も、おそらく手間とカネを掛けてはるばるパレードにやってきた報酬の一部であり、企画者の侯爵にしてみれば末端の兵を潤すためのお目こぼしの範疇だったのだろう。それを俺たちが許せるかどうかは別問題だが。


 ところが、一体どちらから仕掛けてしまったのか、「四番城門前広場の戦い」が起きてしまった。加えて、一部の性行不良な侯爵軍兵士の行動が小競り合いを生み、結果としてなし崩しに戦争状態に突入してしまった。


 そんな中でもフェクトール公は粘り強く交渉を続けたらしいのだが、結局、交渉は決裂。最精鋭たる月耀騎士団が投入され、戦局がこちら側に傾くことになったのだった。

 ただ、これについてウカートは、公の側近の騎士様に仕える従兵から聞いた話ですが、と声を潜める。


「連中ときたら、この街の獣人、特に獣相もちの獣人に対する逮捕権をしつこく要求し続けた挙句、最終的には公のそばで働いていた妊娠中の女性使用人を一晩調べさせろときたそうですよ? それで、あの穏やかなフェクトール公が、本気でキレたらしいです」


 僕たち獣人のために激怒する貴族なんて、聞いたことないですよ――ウカートは笑ったが、俺はちょっと違うことを思った。


 フェクトール公のそばで働く妊娠中の使用人なんて、俺には一人しか思い浮かばない。もちろん、フェクトールの側付きとしてお手付きになり、先日、彼の子供を出産したミネッタだ。


 地雷を踏み抜いたってことか? それとも侯爵軍の使者は、フェクトール公をあえて激怒させることで、「やむを得ず応戦した」という建前を手に入れようとしたってことか?


 いずれにせよ、フェクトール公に「よろしい、ならば戦争だ」と決意させる最後の、最悪の一手を指してしまったわけだ、侯爵軍の使者は。


「……しかし、こっちから先手を取ってぶちのめせなかったってのは、歯がゆかったな。わしなんぞ、何度殴りかかるのをこらえたことか」


 いや隊長、アンタ散々、侯爵軍の騎士をぶん投げてたじゃないか。パイルドライバーもどきを硬い石畳の上で。


「わしらの街だぞ。あんなクズども、ひとり残らずぶちのめしてやりたかったわい」


 そう言って手のひらを握り固めてボキボキと鳴らす。いや、隊長はそれでよかったかもしれないが、そんなことしてたらあっという間に包囲されて死んでいたんだからな、俺たちは。


「おっと、ムラタさん。そろそろ出番のようですよ?」


 調印が終わったことを示す花火が上がったようだ。ポンポン、と澄み渡る青い空に、破裂音が響き渡る。


 ――さあ、いよいよ俺たちの出番だ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る