第618話:振り出しに立ち返る

 ラジオ体操に乾布摩擦、そして水浴び。


「きゃーっ!」


 いつもの朝のルーティンをこなし、リノの頭に水をかけてやりながら考えていた。

 シャワールームを作るのはいい。風呂はどうしても、張らねばならない湯の量が多すぎるゆえの、妥協の産物だ。


 もし風呂をつくるなら、家族全員とはいかなくても、脚を伸ばせて、子供と一緒に入るなら、浴室の広さはユニットバス規格でいうとイチロクイチロクサイズは欲しい。縦横1800mm、つまり浴槽に畳一枚分、洗い場に畳一枚分の広さ。つまりひとつぼサイズ。


 当然、浴槽の湯の量は百リットルを超える。百リットルを超える湯量を、どうやって確保するのか。仮に桶一杯三リットルあまりとして、井戸とタンクを三十往復以上。

 ……絶対に嫌だ。水道というものがいかに便利な公共設備だったか、本当によく分かる。


「あはは、つめたーい! だんなさま、もっともっとー!」


 初夏の日の出の日差しの中で、リノはきらきらとしぶきをまき散らしながら、実にうれしそうに飛び跳ねている。


 こうして汲んだ水をぶっかける程度ならいいのだが、この何倍もの水を汲んで往復しなきゃならないというのは、本当に大変だろう。

 江戸時代には公衆浴場、いわゆる銭湯があちこちにあったそうだが、一般家庭ではとても風呂など維持していられないということだったんだろう。


 水汲み、湯沸かし、そして後始末。

 それはつまり、水道管の設置と安定した供給、潤沢な燃料とそれを使うだけの資金力、そして下水道の三つがそろっていて、初めて日常的に使えるようになるということなんだ。


 それで気づいたんだけど、サウナ風呂っていうのは、少ない水で体を温め、清める手立てだったのかもしれないな。

 汗で汚れを浮かせ、そのまま水で流す。貴重な燃料を節約し、湯を沸かす手間も時間もかけない、合理的な方法だったのかもしれない。


 今回採用する太陽熱温水器なら、燃料代の心配はない。排水も下水溝はしっかりしているから問題ない。水をタンクにぶち込む手間が果てしなく面倒なのがネックになるだけだ。


 だが、シャワーなら浴槽に大量の湯を溜める必要がないから、風呂よりも水を溜める負担は少ないはずだ。汗を流す程度に、さっと浴びる程度でいい。赤ん坊はベビーバスが必要だろうが、それだって大した量は必要ないはずだ。


 そもそも、現状では桶に水ないし湯を入れて、それで濡らした手ぬぐいで体をふくか、天気の良い日に冷たい井戸水で沐浴するかしかなかったんだ。湯を浴びることができるだけでも、十分な贅沢気分を味わえるだろう。




「ムラタさん、シャワーのお部屋って、どこに作るつもりなんですか?」


 夕食後、マイセルが、家を建てたときの図面を見ながら聞いてきた。


「そうだな──家の真ん中、オーブンの隣の部屋がいま、物置になっているだろう? そこを改造して、そういう部屋にできないかって思ってるんだが……」

「本当に、ここに作るんですか?」

「水回りのことを考えたら、キッチンに近い方がいいだろう?」


 しかし、マイセルは渋い顔をした。


「ムラタさん……家の真ん中ですよ? キッチンのすぐ近く、食品庫のすぐ隣ですよ……?」


 言いたいことは分かる。

 非常に狭いうえに、ここをシャワールームにすると、湿気の問題が出てくるということだ。


「湿気に関しては、煙突がすぐ横にあるから、シャワー室の換気口と煙突をくっつけることで、自然に換気できるようにするつもりなんだ」


 しかし、マイセルの顔は渋いままだった。


「だって、濡れた体で出てくるんですよ? 床も濡れちゃうし、食品庫もすぐ目の前だし。食べ物がカビたりしてしまわないか、心配です」


 ……そうか、言われてみればそんな心配もあるのか。


「だんなさま、ここは出入り口もせまいですし、お着替えを置いておくところもないですし……すぐとなりがオーブンなんです。小さい子がお台所を出入りするようになるのも、あまりよくないような気がして……」


 リトリィも、申し訳なさそうに図面を指でなぞった。

 確かに、キッチンを通ってシャワールーム、というのは、生まれた子供が歩けるようになったころから問題になりそうだ。キッチンには包丁などの危険物、オーブンやかまどなどの加熱調理器具がある。


 子供たちが自由に出入りできるような環境にはしたくない──キッチンを管理するリトリィにしてみたら、そう思うのは当然だろう。


「そうか、だったら……」


 図面を見ながら唸っていると、フェルミが首を突っ込んできた。


「ご主人、こんな狭いところに水浴びの部屋なんか作ろうと思うからダメなんスよ。いっそ、外に水浴び用の小屋を作ったらどうスか? 井戸を覆ってしまって」

「いや、さすがにそれは──」


 言いかけて、もう一度図面を見る。

 我が家は勝手口から出てすぐのところに井戸があり、いつもそこで俺とリノは朝のルーティンをおこない、水浴びをしている。

 勝手口から渡り廊下をつけて、井戸まで歩いて行けるようにするのは便利だ。雨の日には濡れながら水汲みをしていた現状を改善できる。


 そして、家に併設するようにしてシャワー用の小屋を建てる。太陽光温水器は、その小屋の屋根に乗せておけばいい。家と井戸を何十回も往復するより、よっぽどましだろう。


「……なるほど、確かにそれはいいかもしれない」


 井戸そのものは、外からもアクセスできるようにした方がいいだろう。花の好きなリトリィが庭に花壇を設けたとき、水やり用に使えるように。だから完全に覆ってしまうのではなく、シャワー小屋の屋根のひさしの下になるようにしておく程度がいいだろう。


 家の中という制限を諦めると、アイデアがどんどん浮かんでくる。これだよこれ。やっぱり家のことを考えている時が一番楽しい。

 わくわくしながらあれこれ考えていたところで、リトリィがこれまた申し訳なさそうな顔で、言いにくそうに言ってきた。


「あの……それだと、やっぱりお台所を子供たちが横切るんですよね……?」

「あっ……」


 リトリィの指摘に、フェルミと二人で顔を見合わせる。

 勝手口を流用してシャワー小屋へアクセスできるのがベストだと思ったけれど、これじゃリトリィの懸案がまるで解決していないじゃないか。

 振り出しに戻る思いでがっくりと肩を落とす。フェルミも苦笑いだ。


「でも、だんなさま。お勝手口から井戸まで、屋根をつけてくださるのはとってもありがたいです。雪の日の水汲みは、大変でしたから」


 山では当たり前だったんですけどね──リトリィが懐かしそうに微笑む。

 確かにそうだった。そもそも、山で暮らしていたころは、家から崖を降りて、川に水を汲みに行っていた。井戸は二本あったけれど、錆の混じる赤水で飲めなかったんだ。


「ふふ、それを、わたしのためにって、がんばってくださったんですよね。いろいろ行き違いがあって、お互いに何度も泣きましたけれど」

「ご主人、お姉さまを泣かせたんスか⁉」

「い、いや、それはだな……!」

「ムラタさん……街に降りてくる前にもお姉さまを泣かせてたんですね……」


 フェルミとマイセルからジト目で睨まれる。いや、あの、悪気があったわけじゃなくてですね……!

 しどろもどろになった俺に、リトリィが救いの手を伸べてくれる。


「だいじょうぶですよ。だんなさまは、とってもすごいかたなんですから。わたしがしあわせにくらしていけるようにって、それまで飲めなかった井戸の水を、飲めるようにして下さったんです。それに、桶を投げ込まなくても水を汲み出せるようにしてくださって――」

 

 ……そうだ。

 そうなんだよ。

 錆水を濾過ろかし飲めるようにする装置を作り、ポンプと揚水ようすい用の風車を設計したのが、この世界における、俺の「ものづくり」の出発点だった。


 何故忘れていたんだろう。

 振り出しに戻った──そう言うとなんだか何もかもが無意味だったように聞こえるが、俺の原点は、「リトリィが幸せになれる暮らしを作る」ことだったんだ。

 もう一度そこに立ち帰ればいい。

 井戸用のポンプ、揚水用風車、そして水道の設計。なんだ、すでにやってきたことじゃないか。



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