第617話:ご期待に沿えるように
現場を早めに抜け、リトリィと一緒に鉄工ギルドの事務所に赴き、ギルド長に心づけを渡して今後世話になることへの挨拶をする。リトリィは正式な鉄工ギルドの一員だから本来は不要なのかもしれないが、こういう筋を通しておくと、あとでいろいろ融通がきいていいものだ。
ましてリトリィの外見は
ギルドは職人同士の互助会、人間同士のつながりなのだ。リトリィの人柄に触れれば何の問題もないはずのことだけれど、その「人柄に触れる」までにハードルがあるのが、この世界、この街の現状。心づけも、少しでも円滑なコミュニケーションを得るための手段だと割り切らなければ。
日本では飲み会ひとつも面倒に感じることはあったけれど、これはこれで大事なことだと、今なら思える。
「あなた、わたし、がんばりますね!」
「ああ。くれぐれも体に気をつけて」
「はい。あなたのお世話をするのは、わたしのおしごとですから、むりを押すようなことはしませんよ」
全身を不燃布の防護服で覆い、耐熱エプロンを身に着けた彼女は、もはや男もひるむ鉄火場の、いち職人だ。彼女の半生は鉄と共にあり、鉄を打つことに喜びを覚えてきたひとだ。素人の俺が、隣からとやかく言える相手ではない。
「かならず、あなたのご期待に沿えるよう、がんばりますから」
「……ああ、楽しみにしている」
「ご主人……どうして、ここに?」
フェルミの家に立ち寄ったのは、たまたまだ。家にまっすぐ帰ればよかった、あるいは現場に戻ってもよかったのだが、立ち寄ってみただけなんだ。
ところが、そこにフェルミがいた。
「……なんとなく。君を家に連れてくるときに、服は一緒に持ってきたけれど、何か置き忘れたものはなかったかな、と思ってさ」
「そうなんスか」
「フェルミこそ、どうしてここへ? 給食支給の後片付けが終わったら、うちに帰るはずだろう?」
自分で言っていて、なかなか間抜けな問いだったと思う。本来の彼女の家はここなのだから。
「……ひょっとして、いつもここに寄ってから帰っていたのか?」
静かにうなずくフェルミに、俺は思わず聞いてしまった。
「やっぱり、うちは居心地がよくないのか?」
「妻」という立場にこだわるリトリィ、マイセル、そしてリノと違って、フェルミはあくまでも「外の女」──つまり愛人でいたい、といつも言っている。やはり俺は頼りにならないから、いつでも「契約」を打ち切れる立場にいたいということなのだろうか。
「そんなこと、あるわけないですよ」
「だったら、どうして?」
「なんとなく。もし、ご主人様がふらりと立ち寄ってくださったら……」
フェルミの唇が、そっと俺の唇に重なった。
「……二人きりで、可愛がってもらえるかもしれないじゃないですか」
「……そんなことを、考えていたのか?」
「だって、奥様が三人もいるひとなんですよ? そんなひとから、ひとときでもいいから愛を一身に受けるためにはって、どうしたって考えてしまいますから──」
そのまま、もつれ込むように二人、ベッドに倒れ込む。
やっぱり、三人で一緒に寝るよりも、交代制のほうが一人ひとりの満足度は上がるのかもしれない──とは思いつつ、でも無理が気がする。リトリィは、絶対に俺の隣で過ごす夜を譲らないんじゃないだろうか。
夫婦の寝室に誰かが加わることは認めても、自分が俺のそばを離れる夜を過ごすことを、彼女が認めるとは到底思えない。また、それができちゃう馬鹿でかいベッドだからなあ……。
「そうだな。いくら愛してるって言っても、隣に女の子が二人もいたら、いろいろ気になっちゃうよな」
「ご主人様。本当にご主人様は、私のことを愛してるんですか?」
「……どういう意味だ?」
予定も含めて三人も妻を抱えている俺が、戦場の、互いの気の迷いとはいえ体を重ね合い、その結果として子供を授かったことから、なし崩しに一緒になることになった間柄──それが俺たちだ。そこに愛はあるのか、確かめたくなるのも仕方ないだろうな。
ところが、フェルミは首を横に振った。
「そうじゃないんです。私、昨日の夕食で、ご主人様に……」
言い淀んだ彼女に、昨夜の食事中の、あのやり取りを思い出す。
……そうか! 彼女にからかわれて売り言葉に買い言葉、思わず彼女に「家を叩き出すぞ」なんて言っちゃったものだから!
「悪かった、勘弁してくれ。冗談でも、もう二度と、家から叩き出すなんて言わないからさ」
「え……?」
フェルミはきょとんとして、そして何かに気づいたようにはっとして、そして赤面してうつむいてしまった。
「……ご、ごめんなさい。私、調子に乗って……ご主人様に酷いことを……」
「酷いこと? フェルミお前、俺に何か言ったか?」
「……何かって……その……」
赤面してもじもじしているフェルミが何を言っているのか、本気で分からない。俺は首をかしげて聞いてみた。
「……そうやって、あえて私に言わせるのが、ご主人様のやり方なんですね……?」
フェルミの意図がつかめず答えに窮していると、フェルミは頬を赤らめたまま、意を決したように、ベッドの上──俺の腰の上で、膝立ちをしてみせた。
臨月を迎える大きなお腹、その下腹をさするように、彼女は目を細める。
やや傾いた陽の光を背後に、逆光でよく見えない彼女の表情は、どこか妖しささえ感じられた。
「わ、私、ご主人様に酷いことを言ったのに、ご主人様は、私のこと、愛する女だって……。リトリィ姉さまの目の前だというのに、あえてそう言ってくださって……」
……そうだったか?
必死に記憶を掘り起こすと、たしかに似たようなことは言った、気がする。
たしか、愛する女にからかわれても反論できないヘタレだ、みたいな自虐的なことを、言ったような気が。
「叩き出す、なんて言われて、私……。だから思わずあんなひどいことを言ってしまったのに。どうしよう、ご主人様に嫌われたくないって、でも出てしまった言葉なんて取り返せなくて……。そうしたらご主人様、お姉様の目の前で、私のこと、愛する女だって……!」
言いながら、フェルミはぽろぽろと涙をこぼす。
「私が酷いことを言ったのに、ご主人様はそれでも、私のことを愛する女だって言ってくれる。ご主人様の言葉が嬉しくて……自分が、恥ずかしくて。どうしていつも、皆さんがいる前だと、リトリィ姉さまみたいに素直になれないんだろうって……」
肩を震わせる彼女に、どうしようもなく愛おしさがこみあげてきてしまう。同時に、自分の目の節穴ぶりに、こっちも恥ずかしくなる。
あの時、顔を赤くして身を震わせていた彼女は、怒っていたんじゃなかったんだ。
「私は……愚か者です。ご主人様の優しさに甘えて、ご主人様のことを馬鹿にするようなことを言ってしまって……。それなのに、ご主人様は私のこと、罰したりしないで……」
「罰するって、そんなことするはずないだろ。愛する大切な人なんだから」
「いいえ……いいえ! どうか、ご主人様……!」
その時だった。
ほたり、と、何かが垂れ落ちた。
……彼女の、中心から。
「どうか……どうか、不実な私を、叱ってください……ご主人様」
「やっぱりご主人はご主人っスね」
「うるさい」
「ずいぶんとノリノリで」
「うるさい」
……やってしまった。
フェルミの望むままに。
お仕置きと称して、アレやらコレやらを。
「ひょっとして、お姉さまにもやってたりするんスか? おしりに平手打ち。どこか手慣れてる感じがしたっスよ?」
「うるさい」
「アソコの汁を『蜜』と呼ばせて、それをすくいとらせてどんな味かを私に言わせるのも、実はお姉さまとの間で?」
「……うるさい」
「くわえこんだ
「だからうるさいって」
絡みつくようにしなだれかかりながら、からかわれ続ける。
「昼間は清楚を絵に描いたようなお姉さまを、ベッドの上ではあそこまで乱れるオンナに仕込んだのは誰かって話、やっぱりご主人だったんだって、今日は実感できちゃったっスよー?」
「うるさいうるさーい!」
リトリィは夫婦生活に貪欲すぎるんだよ!
少しでも俺にとっての最高の女でありたいって願望が強すぎて。
「やっぱり、お姉さまあってのご主人なんスねえ。ご主人の『はじめて』を、ぜーんぶお姉さまが持っていっちゃってるのかって思うと……」
寂しげな表情を見せるフェルミに、俺は「でもお前は、リトリィよりも先に俺の子供を身籠ったんだぞ」──言いそうになってしまって、慌てて飲み込む。妊娠だってマイセルのほうが先なのだから。
──彼女には気の毒だが、どうあっても、フェルミは俺にとっての「はじめて」にはなりえないのだ。
「……なにか、言おうとしたっスね?」
「なんもない」
「うそ。ご主人は嘘をつくとき、目をそらす」
「あ、いや……その……!」
「うふふ、やっぱり何か言おうとしてたんスね」
そう言って、さらに絡みつく。
「……いいっスよ? 言わなくたって」
「フェルミ?」
「ご主人様のお仕置きで、乱れる姿を見てもらう……それを目的にした行為は、たぶん、きっと、まだお姉さまにはしていないんでしょう? これだけは、私がご主人様のはじめて、なんですよね……?」
だってあのお姉さまが、そんな失態を冒すはずないですから──そう言って、フェルミは、吐息の感じられる距離で、じつに
どちらかといえば男性的な言動をするフェルミが、それをしてみせる──それがあまりにも大きな落差を感じさせて、胸の奥が跳ね上がるのを感じる。
同時に、そうやってリトリィに対抗意識を燃やす彼女に、なんとかして俺との『はじめて』を手に入れたいと願う彼女の姿に、どうしようもなく、リトリィとは別の
それほどまでに求めてくれる、彼女という存在に。
「フェルミ、俺は頼りないかもしれないけどさ……。もっと、頼ってくれてもいいんだぞ……?」
「ご主人……さま……?」
絡みついてくる彼女を逆に抱きしめる。
彼女から求められるのではない、俺が求めているのだ──そう伝えたくて。
そのとき、大きく膨らんだお腹の、その内側から、とん、と衝撃を感じた。
「……この子も、お父さまを感じたみたいですね」
小さく笑ったフェルミを、さらに強く抱きしめた。
彼女の嗚咽を受け止めながら、部屋が赤く染まる頃まで、ずっと。
フェルミと共に家に帰ると、リトリィはまだ帰っていなかった。
代わりにマイセルがおたまを握りながら、ものすごい笑顔で出迎えた。
「ムラタさん、今夜は分かってますね?」
はいっ!
……フェルミとのお仕置きプレイについては絶対に言えないけど!
だからフェルミ、絶対に秘密だからな?
羞恥プレイで楽しんだことは、二人だけの秘密だぞ?
……絶対だぞ?
だが、フェルミのニヤニヤ顔に、その約束が果たされることはないだろうと、すでに観念する。
「ふふ、ご期待に沿えるようにするっスよ、ご主人?」
ああもう、どうにでもなれ。
俺の期待を背負って今日から鉄を叩くことになったリトリィを労うためにも、彼女の望む「隠し事は無しにする」、その約束を果たし、期待に沿う生き方をする──それだけは裏切れないのだから。
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