第681話:始まりの場所で
「……行ってみるか? たどり着けるかどうかは分からんが」
親方が、ぽつりと言った。
「気になるんだろう? 何があったのか」
親方の言葉に、俺はうなずきたくなる。気にならないわけがない。あのとき何があったのか。二度と日本には帰らないとしても、何か、手がかりが得られるなら。
いや、帰宅時に肩に掛けていた鞄。タブレットPCは仮に無傷でもバッテリが死んでいるだろうからどうにもならないだろう。だが、様々な資料本や資料の束、俺のアイデアノートがあれば。多少傷んでいたとしても、それらがあれば、俺はもっと色々な設計に自信と根拠をもって挑めるだろうに。
いつでもそこに立ち帰ればいい──そう思って大切にしてきた資料だが、逆に言えば「いつでも見られるから」と安心しきっていたんだ。悔いるのはいつも、取り返しのつかないことになってからだ。
だが、今回は危険すぎる。親方の話を聞く限り、俺はきっと、
人間相手なら、たとえばフラフィーやアイネのようなむくつけき男たちに、自身で鍛えさせた得物持たせ、用心棒として乗り込むことも考えられただろう。
だが、彼らが鍛える武器は、今回、全く通用しない相手らしいのだ。火も効かないとなれば、危険極まりない。
「……親父さん、やっぱり駄目ですよ。親父さんたちの武器が効かない相手がいるんですよね? 危険すぎます」
「だが、お前さんが来てから二年だぞ?」
言われてちょっぴり衝撃を受ける。
そうだ。たしかに、俺がこの世界に落ちてきてからもう、二年が経過しようとしているんだ。
……時間が経てば経つほど、俺が来たときの痕跡を探すのは難しくなるだろう。またいずれ、の機会は、どんどん失われるのだ。
だが、そもそもどれほど川をさかのぼることになるのだろうか。いずれにしたって、俺にとってはもう、日本は永遠に帰れないし帰らない、思い出の土地でしかないのだ。だったらもう──
「あの時、こうしておけば、もしかしたら──その後悔はお前に、呪いのようにずっとまとわりつくぞ」
「そんなことは……」
言いかけた俺に、親方は面倒くさそうに鼻毛を抜いた。
「いいから黙って従え。とにかくそこが、お前の始まりの場所なんだ。たどり着けようが着けまいが、その目に全てを焼きつけて、すっきりしてこい。フラフィーとアイネも貸してやる。それに……」
親方は、むすっとした顔で続けた。
「
利害の一致だ、と彼は言う。
目をそらしながら。
……親方、リトリィと一緒で、ごまかしが苦手ですね。そういうところは、たとえ血がつながらなくても、親子だと感じる。
「それで、
親方と一緒に館に戻ると、メイレンさんがなにやら真剣にリトリィの話を聞いている。ものすごい前のめりになって。普段は垂れている耳が、若干持ち上がっているくらいに。
「どうかしたのか?」
「ひぁああああっ⁉」
俺が声をかけると、メイレンさんがものすごい勢いで椅子から立ち上がった。
「……ご主人、無粋っスよ」
フェルミがニヤニヤしながら俺を見る。いや、フェルミ。お前のほうこそ、なんだその顔は。
かつてリトリィの部屋だった屋根裏部屋。今は誰も使っていないが、部屋に入るとほこりが積もっているようなこともなく、俺がかつて世話になっていたころと何も変わっていなかった。どうも、メイレンさんが時々掃除をしてくれているらしい。
今日からしばらく、この部屋を使わせてもらうことになった。チビたちは、夕食後にすぐ寝てしまったから、すでにベッドに寝かされている。その際には、マイセルとフェルミがチビたちを運び、マイセルがずっとそばにいてくれたのだそうだ。
で、俺たち大人は、床に毛布を敷いて寝る。「おともいたします、だんなさま」そう言って、リトリィが寄り添ってくれる。
「そうなんだ……。じゃあ、お姉さまの次はメイレンさんですね!」
マイセルは、妙に興奮気味だ。なにやらフェルミといっしょに盛り上がっている。
「アレの収穫はもうじき終わりだから、それまでの藍月の夜にしっかり合わせないといけないし。……そうだ! 来週末の藍月の夜に合わせて、アレを買って届けてあげようよ!」
「いや、むしろ藍月の日に、泊りがけで買い出しに来るようにすればいいんじゃないスか? 普段と違う環境のほうが、子作りも燃える気がするんスけど」
「そうね……そうかも! じゃあフェルミ、こっちでお宿の予約をしてあげておくってのはどう? 愛し合う二人が盛り上がる、雰囲気たっぷりのお宿を探して!」
「いいスけど、メイレンさんにはモーナちゃんがいるっスよ? そんな雰囲気になりまスかね?」
「じゃあ、モーナちゃんはうちに来て泊まってもらうのよ! それならどう?」
「それなら、いつもチビたちが寝ている暖炉前の雑魚寝じゃダメっスよ。ちゃんとした部屋を用意して、ベッドを買って……」
どうもメイレンさんがらみで何やら考えているらしい。少し年の離れた友達といった感じで盛り上がっているのは、見ていて微笑ましい。
「……だんなさま、すこし、よろしいですか?」
リトリィにそっと耳打ちされて、俺たちは部屋を出た。
「……懐かしいな、全てはここから始まったんだ、俺たちは」
あいかわらずひんやりとした感じの、半地下室。
そう、俺とリトリィの関係は、ここから始まった。
部屋の隅のわらベッドは、現在、わらが剥き出しになっている。リトリィが持って来たシーツをかぶせて横になってみると、まさに二年前、俺がここで目を覚ました時と同じ状況になった。
「ここで、あなたがわたしを‶あぬびす″という神さまと、間違えたんですよね」
リトリィがくすくすと笑う。
「おきあがろうとして、わたしのおっぱいを触ってしまったんですよね」
「かんべんしてくれ。本当にあの頃は女性経験が無くて、全裸の君がそばで寝ているっていうだけで、どうしようもなく焦ってたんだ」
アヌビスはエジプトの神の一柱で、たしか死後の復活を意図したミイラづくりの神だったはず。リトリィは体温で俺を蘇らせてくれたわけで、そういう意味では、あながち間違いとも言い切れないところが、二年前の俺の勘違いの面白いところだ。
「……わたし、ずっと、あなたがどんなひとなのか、思いをめぐらせながら、あなたをだいていたんですよ?」
「俺を……抱く?」
思わずドキッとしてしまう。
「ふふ、だってだきしめないと、あなたを温められないじゃないですか」
……ああ、そっち! そうか、そうだよな当然だよ!
至極当たり前のことなのに。変に意識してしまった自分が馬鹿らしい。
「あれから二年……。やっと、……やっと、あなたの仔を、みごもることができました」
そう言って身を寄せてくる彼女を、ぎゅっと抱きしめる。
「……そう、だな。やっと、君のお腹に、来てもらうことができたよ」
出会ってから二年。
時間にして思えば、わずか二年だ。
だけど、ずいぶんと長い道のりだったように感じる。
愛し合うようになってからほぼ毎日、ずっと、俺の子供が欲しくてねだり続けてきたリトリィ。
先にマイセルが妊娠しただけでなく、行きずりのたった二回の行為で妊娠したフェルミ。
誰よりも俺との子を望んでくれていたリトリィの焦りは、いかほどだったろうか。
自分をケモノ臭い女だと蔑み、子供の産めぬ女だと自嘲し、俺の愛を疑い、何度涙を流しただろう。
その彼女と寄り添い、何度、共に涙を流し、そして愛を求め合っただろう。
そうだ。やっと、やっと彼女に、子供ができたんだ。
──俺の子が。
「あなた……これからも」
「……ああ、よろしく頼む。ずっと、いつまでも」
初めて、このベッドで出会ってから、もうすぐ丸二年。
このベッドが、俺と君の、始まりの場所だ。
……それだけじゃない。
君との出会いこそが、俺の本当の人生の始まりだったと言ってもいい。
リトリィ……ああ、愛している。
ずっと、ずっと、いつまでも。
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