第214話:零れ落ちたもの
「最近、
リトラエイティル様は目立つから、かえって狙われにくいかもしれないが、気を付けた方がいい――フロインドは、俺を安心させるように言って、市場の巡回に戻っていったが、俺は気が気ではなかった。
考えてみれば、彼女は半裸で家を出たはずだ。俺が服を剥ぎ取ったからだ。ドレスの下のスリップのような下着、ただ一枚で。ショーツすら履かずに。
念のため、もう一度家に戻って、そして彼女が居ないことを確認して落胆し、また、家を飛び出す。
この街が、こんなに広いとは。
目立つ容貌だから、必ず見つかる――そう自分に言い聞かせて、はや夕刻。
しかし、リトリィは見つからない。
くそっ!
もし彼女に何かあったら、俺は……俺は!!
だらしなく、みっともなく、涙と鼻水にまみれながら街を走り回った俺が、足を引きずるように家に戻ってきたとき――そこに、明かりがともっているのを発見したときの衝撃を、俺は忘れない。
ドアを開けて出迎えた少女のぽかんとした顔を、その彼女にむしゃぶりつくようにして押し倒し、ずっと泣いていたことを。
どこに行っていたかなんて、聞けなかった。
聞きだそうとすれば、彼女がまた、どこかに行ってしまいそうで。
リトリィは笑顔だったが、どこか無理をしているように見えたのは、俺の気のせいではあるまい。そんな彼女に、どうして、問いただすような真似ができようか。
ぎこちない夕食を終え、ぎこちない片づけを終え、ぎこちなく体を拭き合い、そして、ぎこちなくベッドに入った。
――抱けなかった。自分からは。
『あなた
昨夜の一言が、あまりにも深々と刺さりすぎていた。
とても彼女を抱く気になれなかった。彼女から寄り添ってこられた時、恐怖のあまり身を反らし、彼女から距離を置いてしまったくらいに。
そのときの、リトリィが一瞬見せた泣き出しそうな目――続けて浮かべた寂しそうな笑みは、今も目に焼き付いている。
この街で、彼女を初めて抱いてから、手元に彼女がありながら彼女を抱かぬままに明かす夜は、この日が初めてだった。
何度、彼女が体を寄せてきたか知れない。
最終的に諦めたのは、彼女の方だった。
俺は、結局、彼女を抱けなかった。
朝食は一緒に作った。
互いに、一言も交わさぬまま。
一緒に食べたが、何を食べたのか、味はどうだったのか、全く覚えていない。
確かに彼女は、何かを言っていたはずだった。
だが、何も覚えていない。
同席していた、その記憶があるだけだ。
ただ、ひとりになりたくて、俺は、ふらりと家を出た。
彼女は俺を呼び止めた、ような気がする。
泣いていた、そんな気もする。
その手は俺の手をつかもうとして、けれど触れようともせず。
ただ、彼女が、潤む瞳からこぼした雫が、妙にゆっくり、床で弾けたような、そんな瞬間だけを鮮烈に脳裏に遺し、俺は、家を出た。
「……みつけました」
ふわりと、肩にショールがかけられる。
リトリィのものだ、これは。
月明かりのなかでもわかる、彼女の刺繍。
ツタと、小さな花を組み合わせた、彼女の得意の、意匠。
一日中、あてもなく街をさまよい、そして夕暮れの、きらきらと輝く水面に吸い寄せられるように、俺は、この橋の上にやってきていた。
「橋の上は、風が冷たいですね。お風邪を召したらたいへんです。――帰りましょう? おうちに」
「どうして、こんなところにいるって、分かった?」
この街の名物、製材屋の三連大水車の勇壮な姿を、橋の欄干にもたれかかり、目に入れながら見ていなかった俺は、どこをみるわけでもなく、彼女に尋ねた。
「だって、わたしは
――ああ。
また俺は、彼女に、卑下させるようようなことを。
「――なんて。正直に言うと、さがしました。いっぱい」
彼女の鼻づらが、背中に押し当てられる。それは俺の肩に乗り、そして、首に絡み、彼女の熱い吐息が、舌が、左の顎をくすぐる。
両脇から回された腕――彼女の、やや小ぶりの手のひらが、俺の胸の上で重なる。
「いっぱい、いっぱい、さがしました。ここにだって、何度も来たんですよ?」
――今度こそ見つけられて、よかったです。
リトリィはそう言って、すこし、笑ったように感じた。
そして、静かに、嗚咽を漏らし始めた。
「リトリィ……俺は――」
「いいの……。いいの、いまはいいんです……。
このまま、わたしのうでの中にいてください。わたしのそばにいてくださる、それを、感じさせてください……」
このとき。
もし、もう少し早く、家に戻る決断をしていたら。
結果的には、雨降って地固まるようなことになったとはいえ、多くの人に迷惑をかけることもなかっただろうし、彼女に対する疑惑の雲を、宿すようなことにもならなかっただろう。
ああ、俺は、どうして、いつも、間違うのだろう。
「ムラタ、さん……?」
振り返って抱きしめた彼女の体は、温かかった。
とても。
うなじに息が当たるせいだろう、くすぐったがる様子を見せたが、それも、最初だけだった。
彼女のかおり。
太陽のかおり。
陽光の慈悲と恵み《リト・ラ・エイ・ティル》、それが彼女の名。
柔らかな日の光のように、ふわりとくすぐったい彼女のその長い髪に、俺は顔をうずめた。
俺は彼女を幸せにすると誓ったのに、なぜ、どうして、俺はあんなところで、彼女を抱きしめていたんだろう。
俺にすがりつくようにして、すすり泣き続ける彼女を。
「……かえろう、か」
「……はい!」
涙でぐしゃぐしゃだったけれど、確かに彼女は、その夜、俺に、笑顔を見せてくれた。
その夜の、最後の、笑顔を。
「昨夜は、どこにいたんだ?」
帰り道、歩きながら、どうしても知りたくて聞いてしまった俺の言葉に、リトリィは足を止めた。
はた目にも分かるほど、震えて。
「……わ、わたしは……その……」
足を止めた彼女は、うつむき、震える声を絞り出したあと、そのまま、立ちすくんでいた。
『女の秘密を、過度に秘密を暴き立てようなど思わないことですよ?』
ペリシャさんの言葉が、直後に浮かんでくる。
……俺にも――いや、
俺はこの街に来て短いが、彼女は山とこの街を、何度も行き来して生きてきたのだ。知り合いくらいいるだろうし、その中には俺なんかより、ずっと心安く付き合ってきた、気心の知れた相手だっているのだろう。
同性かもしれないし、もちろん――異性だっているかもしれない。
――ああ、聞くんじゃなかった。ペリシャさんの忠告通りにしておけば。
知ろうとしなければ、悶々とした思いを抱えつつも、しかしそれだけで済んでいたのだろう。
だが、彼女は逡巡してみせた。
間違いない。
即座には返答できない、そんな相手と、逢ってきたのだ。
それを見てしまった以上、そこから始まった俺の中に生まれた疑惑は、もう、どうやっても消せないのだ。
「……誰かに、逢ってきたんだな」
俺に視線を合わせぬまま、びくりと体を震わせたリトリィに、俺は、どうしようもない胸の痛みを感じた。
自分で言って、自分の胸をえぐってしまった。
一歩あとずさった彼女の言葉など、もう、待てなかったのだ。
彼女の姿で、確信してしまった。
自分ではない誰かに――異性に、彼女は、救いを求めたのだと。
ああ、どうして俺は、いつも間違うのだ。
どうして。
「む、ムラタさん、待って、わたしは――!」
その言葉を、背中で聞くようなことをしなければ。
彼女がどんなことを口にしようとも、真正面から受け止めることができる器が、俺の中にありさえしていたら。
何か、爪先で石畳みを走り抜けるような、そんな音が突然、背後から聞こえてきたと思った瞬間だった。
どす、という、重い鞄か何かを叩きつけるような音と、短い悲鳴。
そして、背後からの衝撃。
二転三転する視界のむこうに、ずんぐりとしたダチョウのような鳥が、一瞬、月明かりに浮かび上がった。
青い月明かりのせいで、銀色に見えるふわふわの毛でおおわれた女性――俺が見間違えることなど決してあり得ない女性を、その背に引っ掛けるように乗せて。
『最近、
必死に体を起こし、無理に駆け出そうとして転倒。
その時にはもう、リトリィを乗せた鳥は路地の向こうに曲がって消えていた。俺は必死に角まで走ってその先を見たが、複雑に折れ曲がるその先の路地にはもう、鳥の姿も、もちろんリトリィの姿もなかった。
必死で彼女の名を叫んだ。
俺の手には、まだ残っていた。
彼女を抱きしめていた時の感触が、ぬくもりが。
それなのに、彼女は忽然と消えたのだ、走り去った鳥と共に。
夢を見ていたのだよ、そう言われてしまえば信じてしまいそうなくらいに。
俺の手から、零れ落ちてしまったのだ。
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