第162話:いじわるなひと(2/2)

「そういうところが、ずるくて、いじわるなんですよ……?」


 マイセルの言葉が胸に刺さる。

 ……そうだな。


 分かり切った答えを求める。

 それを本人に言わせようとする。

 彼女の答えと俺の答えは、一致しないと、分かり切っている答えを。


 それが、いじわるでなくて、なんだろう。


 ……だめだ、こういう精神状態で精密作業はできない。

 手を止めると、インク壺を脇に置いて、木材の上に腰かけた。

 

 ……どういうわけか、その隣に、そっと、マイセルも腰かける。

 手のひらの厚み一枚分ほどだろうか、微妙にすき間を空けて。


 しばらく奇妙な沈黙が流れたあと、マイセルがうつむいたまま、答えた。


「好きな人は……います」

「そうか……」


 それは分かっている。

 これまでも、彼女は確かに、そう言ってきたからだ。

 問題は、そこではない。

 問題は、それが、誰かということだ。


 だが、それを聞いていいものか。

 聞きたい、聞いておきたい。

 ……だが、聞いて、どうするというのか。


「……ムラタさん、好きな人が、いるんですよね……?」


 うつむきつつも、微妙にこちらに視線を向けた、マイセルの言葉。

 俺がぐずぐずしているうちに、マイセルに同じ質問を返されてしまうとは。


 しばらく迷ったあと、俺も、正直に「いる」と答えた。

 マイセルが、息を呑むのを感じる。


「……その人とは、一緒になりたいですか?」

「なりたい」

「……女の子がこんな質問をしてるのに、そこはんですね」

「そこはんだよ、俺は」


 彼女が、小さく笑った気がした。

 しかし、その寂しそうな雰囲気は揺らがない。


「……それは、その人は、その……」


 ためらいながら、だがそれでも、マイセルが口を開いた。


「――もしかして、私、だったり、しますか……?」


 彼女の、膝の上で握られた手が、震えている。

 ……なんと答えたらよいのか。

 あいまいに濁すべきか。

 きっぱりと言うべきか。


 ――答えづらい。


 だが、彼女は聞いたのだ。

 俺が、言いづらくてためらってしまったことを。


 言えば傷つける、分かっていてもやはりつらい。

 鉄面皮の事務職員だった御室おむろ女史を「オムロン」などと呼び、稀にはかすかな笑顔さえ引き出していたチャラ男社員の三洋や京瀬ら。

 彼らなら、女遊びの経験も豊富だっただろうし、もしかしたらもっとスマートで、傷つけない方法を知っているのかもしれない。


 だが、俺にはそんな話術も技術もない。いいのか悪いのか、そんなことすらも分からないが、とにかく正直に言うことしかできない。


 ――たとえ、傷つけても。


「……ちがう」


 マイセルの肩が震えたのが、分かる。

 ああ、やっぱりだ。

 彼女も、おそらく答えは分かっていて、それでもやはりショックだったのだろう。


 傷つけると分かっていたとはいえ、やはりそれを実感するのは、つらい。

 胸の奥がどろどろする。

 彼女を見ていられない。


 ……ああもう、仕事の前に馬鹿な会話をするんじゃなかった。

 こんな胸の内で、まともな仕事なんてできるはずがない。

 後悔に頭を抱えたくなる。


「や、やっぱり、その……の私なんか、好きになんかなれない――です、よね……」


 まるで、俺がしていたような自己否定をするマイセル。

 彼女がそんなことを言うなんて似合わない――ちらとそう思ってしまった自分の頭を殴りたくなる。

 彼女がそんなことを言ってしまうのは、俺が、彼女に自信を失わせることを言ったからだ。俺が言わせたようなものなのだ。


「……それは違う!」


 否定してみせるが、うっかり力みすぎて、少々声が荒くなってしまったように感じた。

 おびえさせてしまっただろうか、大きく息を吐いて呼吸を落ち着けて続ける。


「決して、大工に憧れるような女性だから好きになれないとか、そんなんじゃない。ただ、縁がなかった、それだけなんだ」


 俺を縋るように見上げた瞳は、しかしまた伏せられ、そして、再び視線は地面に落ちる。


「縁……ですか」

「――君と出会ったときには、俺にはもう、好きなひとがいたんだ。生涯を共にしたいと願う、女性が」


 俺の言葉に、マイセルの指に力が入る。スカートを握り締め、かすかに、震える。


「――やっぱり、リトリィさんのこと、……ですよね?」


 やはり、彼女は分かっていたのだ。昨日、俺とリトリィをちらちらと見比べていたあの時、彼女は俺とリトリィの関係に気づいたのだろう。


 リトリィ自身はほとんど口を利かなかったし、現場では最小限の関わりしか見せなかったが、それでも馬車から降りるときは俺がエスコートしたし、わずかな距離ではあるが、彼女は俺と腕を組んで歩いて見せたのだ。


 確か、手をつなぐのは交際中の相手で、腕を組むのは伴侶、だったか。この街で暮らす者なら、誰でも知っているはず。

 それを見たのだろう。


「俺の命を、心を救ってくれた女性なんだ、彼女は」

「……命と、心?」


 いぶかしげに俺を見上げる。


「ああ。川に落ちて死にかけていた俺を助けてくれたのと……俺に、決定的に欠けていた、『自信』をくれたんだ」

「自信……」


 異世界に突然放り出され、おそらく発狂して川に飛び込み、瀕死状態だった俺を、リトリィは、その体で温めて、救ってくれた。

 日本に帰りたいという思いのまま、散々に傷つけた俺を、それでも見捨てることなく愛し、赦してくれた。

 ……この世界に根を下ろし、生きていく覚悟を与えてくれた。


 俺のことを認めて愛をくれた、俺にとっては、何にも代え難い、太陽のようなひとなのだ。


「……くやしいなあ」


 ややあって、マイセルは顔を上げ、前を向いたまま、明るい声で言った。


「だって、私は、ムラタさんに自信をもらったのに。

 私は私でいいって、私の夢を後押しして、自信をくれたムラタさんが、リトリィさんに自信をもらっていたなんて」


 足をぶらぶらさせながら、マイセルは続ける。声は明るいが、俺のほうを見ることなく。


「ほんとうに、ムラタさんって、ずるくて、いじわるです」


 ぽんと飛び降りると、一度、こちらを笑顔で振り向いて、そしてまた、背中を向けて、続ける。


「私、ムラタさんに勇気をもらったのに、結局、なんにもお返しできなくなっちゃった。これじゃ、私ばっかり借りを背負ってて、全然公平じゃないです。

 だいたい、私、これから、ムラタさんのそばで、ご恩を返していこうって――」


 努めて明るい声を出そうとしている――それが分かるのが痛い。


「そばで、ご恩、……か、返していこうって、思って、たの、に……」


 一度言葉に詰まり、両手で顔を覆い、しかし、なおも続ける。


「お、おっかしいなあ……。こうなるの、昨日からもう、わ、分かってたはずなのに。――み、みっともないなあ、私……」


 ――明るく、そして悲痛な、嗚咽おえつ交じりの声で。


「わ、私……ね……?」


 マイセルが、顔を覆ったまま、つぶやくように言った。


「ムラタさんに、大工になりたいって考えるのは、変ですかって聞いたとき、……『働く女性は素敵だ』って言ってもらえて、す、すごく、……すごく、うれしかったんです」


 うつむいて、肩を震わせ、震える声で、小さな声で、それでも、何とか言葉を紡ごうとするマイセルを前に、胸の痛みが、止まらない。


「その前だって、おしゃれも、お化粧も下手な私を、か、……可愛いって、言ってくれて。私、ムラタさんみたいな人と、ずっと、ずっと一緒にいることができたら、どんなに素敵だろうなって……」

「……すまない」


 立ち上がると、俺はマイセルの背中に向けて何と声をかけていいか分からないままに、口を開いた。


「俺の態度が、君を苦しめたんだな。――俺が、せめてもっとけじめある態度を取っていれば、君をそんな想いにさせるようなことは――」


「――いいえ!」


 言い訳がましいことを口にしてしまった俺に、マイセルは振り返った。

 ぼろぼろと涙をこぼしながら、それでも、毅然と、まっすぐ俺を見つめてくる。


「私、ムラタさんが好きです。ムラタさんに会えて、ムラタさんのことが好きになれて、私、本当に良かったんです! だから……だから、そんなこと、言わないでください!」


 昨日のマレットさんの言葉を思い出す。


『――胸を張って、あのひとが自分の好いていた人だと、誇れる男であってくれよ!』


 ……ああ、マイセルは、本当に、正しく、マレットさんの娘さんだ。


「――すまない。そうだな、俺は君という、同じ未来を目指す大工の卵と出会うことができて、そして君は、自分の夢に自信を持つことができた。

 ――おたがいに、良い出会いをすることができた……だよな」

「はい……その通り、です、よ……?」


 涙でぐしゃぐしゃの顔を、無理矢理笑顔にして。

 マイセルは。


「――ムラタさんの胸……あったかいです」


 とん、と、俺の胸に額を預ける。

 ――俺は。

 無意識に。

 彼女のに――に、――


 ――幼子の頭を、撫でるように。


 マイセルは驚いたように俺を見上げるが、また、俺の胸に顔をうずめる。


「えへへ……。ムラタさんと、こういうこと、当たり前にできる関係に、なりたかったなあ……」


 嗚咽交じりのマイセルの言葉に、自分が無意識にしてしまっていたことの意味に、気づく。

 慌てて手を浮かせ――ようとして、やめた。


 そのまま、頭を撫で続ける。

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