第163話:マイセルの決意

「ムラタさん――私じゃ、だめ、ですか?

 ムラタさん、の、隣に立つのは……わ、私じゃ、だめですか……?」


 その質問には、答えない。

 ――答えることなど、できない。


「私、……本当に、ムラタさんのこと……大好き、なんです」


 マイセルが、俺の腰に腕を回してくる。

 幼子が、親にしがみつく、そのように。


「……いまの私じゃ、ムラタさんにとって、きっと子供過ぎるんだろうなって、思います。

 でも……でも、いまから頑張ったら、だめですか……? 頑張ったら、間に合ったり、しませんか……?」


 ――ああ、なんといじらしいんだろう。


 俺は、こんな少女に、期待を持たせ、舞台へのはしごを上らせ――

 そして今、中途でそのはしごを蹴倒そうとしているのだ。


「……ムラタさん……私、頑張ります。ムラタさんがなれる、って言ってくれたから、大工になれるように、頑張ります。絶対に、なってみせます。

 ……だから」


 マイセルの腕に、力がこもる。


「私、機会を、ください……」


 心情だけなら、チャンスが欲しいという言葉に同意したくなる。

 彼女が希望を持ったのは、大工の道を歩もうと決意できたのは、間違いなく、俺の後押しもあるからだ。


 俺が彼女を変えたというのであれば、それを見届けてやりたいとも思う。

 ……だが、俺は、その道を選ぶことは、できない。


『ずっと、あなたのリトリィです』


 俺は、応えねばならない。

 彼女の一途な想いに――愛に。

 ――だから。


「……すまない」




「ムラタさん」


 そのまま、いくらか時間が経ったあと。

 マイセルはそっと顔を上げ、微笑んでみせた。

 涙の跡は、赤く泣き腫らした目はごまかしようもなかったが、それでも。


「渡したいものがあるんです。両手を出して、目を閉じてもらえますか?」


 手を出して――?

 なんだろうか、何かを手渡したい、ということなのだろうか。

 目を閉じてというのは、何かこの世界で、そうせねばならない何らかの儀式的なものだろうか。

 言われるままに目を閉じ、両の手のひらを、上に向けて差し出す。


 その手首をそっと掴まれ、そして。


 ふわり。


 唇に、柔らかで、そして感触。

 しっとりとして、自分の唇よりもやや小さな、しかし、ぷっくりとした感触。


 そして口の中に、甘酸っぱい何かが押し込まれるのと同時に、掴まれた手首をそのまま、薄いけれど柔らかな、丸みを帯びたに押し付けられる。


 俺はこの感触を――が、――!?

 布を通して感じられたつんとした突起と、薄くとも柔らかで確かなボリュームに驚いたのもあって、思わず口の中のものを飲み込んでしまう。

 慌てて目を開いて、後ずさる。


 間違いなく、それは、唇の感触であり、そして、胸の感触だった。

 いたずらっぽく笑うマイセル。


木苺きいちご味の口づけは、いかがでしたか? ――私の、初めて、なんですよ?」


 木苺――ラズベリーか。あの甘酸っぱいものは、そのドライフルーツだったというわけか。

 ――ま、まさか!?


「ムラタさん、髪を撫でてくれましたよね。私、嬉しかったんです。『』――ですよね」


 間違いない! ええと、なんだっけ……アレだ! ラズベリーはつまり――


「だから、私からもお返しです」


 ――結婚のための三儀式の一つ、妹背いもせみ!!


「ムラタさんが、私に、教えてくれたんです。諦めないっていうことを。今、髪を撫でてくれたのは、機会をくれた――そういうことですよね? だから私、諦めません。大工の道も、……恋も。

 ――大好きです、ムラタさん」


 は、はは――ははは……!!

 笑うしかない。


 してやられた。

 なんという機転の利かせ方だろう!

 なかなかしたたかな子だ。

 こうも鮮やかに――。


 そもそも、俺がその髪を撫でたのだ。

 それを受けて、おそらく彼女は、その瞬間に、死に物狂いで考えたのだろう。


 今、彼女は笑ってみせているが、両手は腰のあたりで握られ、かすかに震えている。

 膝も笑っているように見える。

 ――緊張しているのだ、馬鹿みたいに笑って見せた、俺の反応に。


 笑いがまだ収まりきらぬまま、俺は一歩踏み出す。

 マイセルは、ひきつった笑顔で、半歩、後ずさる。


 確信した。

 彼女は、自分のやったことに、後ろめたさがある。

 不意打ちのように、邪道な方法で、俺の退路を強引に塞ぎにかかってきたのだ。

 それに対する俺の反応を、はかりかねているのだろう。


 不誠実さを咎められ、無かったことにされるかもしれない、それどころか、嫌われるかもしれない――そんな自覚があるに違いない。


 ――それでも、彼女は、賭けに出たのだ。

 その胆力には感心する、せざるを得ない。


「ひゃっ――!?」


 彼女の脳天を、鷲掴みにすると――


「この、いたずらっ子め」

 そのまま、わしわしと揺さぶる。


「やあっ――やめ、いじわる、しないで……!」

「マイセルが言った通り、俺はいじわるだからな」

「やめ――お母さんが整えてくれたのに……やだ、ムラタさんのいじわる……!」


 可愛らしい悲鳴が上がるが、気にしない。

 仕返しだ、その整えられた髪を、めいっぱいくしゃくしゃにしてやる。


「……マイセル。俺は、リトリィが好きだ。――彼女を、愛している」


 くしゃくしゃにした髪を整えてやったあと、俺は静かに、だが確固たる意志を持って伝える。


「……知ってます」


 マイセルは軽く息を呑む様子を見せたが、まっすぐ、俺の目を見つめて、返した。

 先ほどまでの、うつむいて泣くようなそぶりは、もう、見せない。


「彼女も、俺を愛してくれている。俺は、彼女の想いを裏切れない」

「……それも、知ってます」


 そう言うと、彼女は再び、俺の胸に額を預ける。


「それでも、私、……ムラタさんを、好きになっちゃったんです」

「俺は、リトリィに誠実でいたい」

「……お父さんは、お母さんにも、ネイお母さんにも、誠実ですよ?」


 ドクン。

 ……そうだ、彼女の父親――マレットさんは。


「ムラタさんが誠実で、優しい人だっていうのは、知ってます。

 ――だから私、ムラタさんを好きでいたいです」


 マイセルは、父親の、そういう姿を見て育ってきたのだ。

 だから、そう、言えてしまう。


 だが……俺は、そんなに器用な人間じゃない。

 なにせこの年まで、女性と付き合う、そんなことにも怯えて、避けてきた人間だ。だから、複数の女性を愛し、その人間関係――女性の人間関係の複雑さは、小中高大と見てきて本当に複雑怪奇、男の俺から見て理不尽極まりないものだった――を調整することができるような話術も才能もない。


 それどころか、たった一人の女性を幸せにできるかどうかだって、まだまだ怪しいのだ。今回、マイセルに辛い思いをさせてしまったのも、女性との距離感をうまくつかむことができていなかったからに違いない。


 ――そんな、いまだに腹の座らない俺に対して、マイセルは、まっすぐ俺を見つめてくる。さっきまで、あんなに涙を流していたというのに。


 これが、いわゆる「覚悟完了」後の顔、ということか。

 これが、いわゆる「女は強い」という奴なのだろうか。


「……マイセルは、強いな」

「ムラタさんとお付き合いしたいなら、そうならないとだめなんだって、分かりましたから」


 そう言って、にっこりと、笑ってみせる。


「――ね?」


 女はしたたかだ、臨界点を超えたら途端にリアリストになる。

 男のほうがよっぽどロマンチストだ、馬鹿みたいに幻想を信じる。

 そう言ったのは、三洋だったか、それとも京瀬だったか。いや、二人の会話だったか。


 彼女は、俺の胸に添えていた両手を俺の背中に回した。俺の胸に顔を埋め、小さな声で、だが、はっきりと言う。


「ムラタさん……私、ムラタさんにふさわしい人になれるように、頑張ります。

 せっかくくれた機会、絶対に生かします。

 だから……だから、待っていて下さい」

「――俺は……」


 どう返事をしたものか。

 答えが見つからず、口ごもったまま、答えられない。

 だが、そんな俺の態度は、もう、彼女にはお見通しだったようだ。そっと顔を上げ、再び、まっすぐ俺を見つめる。


 大きな栗色の瞳に見つめられ、胸の高鳴りを感じてしまい――ついさっき、リトリィを愛していると宣言してみせたのに、もう揺らいでいるような気がして、思わず半歩、後ずさる。


 それを受けて、マイセルもそっと迫ってくる。ぴったりと体を寄せてくるマイセルの、薄くともはっきりと感じられる胸のふくらみに、心臓はますますやかましく銅鑼どらを打ち鳴らすかのようだ。


「ま、マイセル、俺は――」


 辛うじて絞り出した言葉に、マイセルは微笑みを浮かべる。


「ムラタさんにとっての一番じゃなくていいんです。私がムラタさんのこと、大好きなんです。

 これからも、ずっと、ずっと……!」


 そして、彼女は目を閉じる。

 そっと俺に体重を預け、

 つま先立ちになり、

 その唇を向け、

 ……俺は、

 唇を、


「うわっ、だから押すなって!」

「あぁぁあああ!!」


 資材の山が派手に崩落し、野郎どもの悲鳴が上がる。

 これにはマイセルも驚き、俺に飛びつきつつ崩れた資材の山を凝視する。


「お……お前ら!?」


 崩れた資材の山に累々と折り重なるのは、埃にまみれもみくちゃになったヒヨッコたちと、そして――


「ま、マレットさんまで……」

「……よう?」

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