第652話:自慢できるひと

 市場で買い物をしたあと、屋台で買った軽食を取りながら、マイセルとフェルミが赤ん坊に乳をやっていた。その隣ではヒッグスとニューとリノが、口の周りをソースまみれにしながら具をはさんだパンを頬張り、リトリィがにこにこしながら、チビたちの口の周りをふいてやっている。


 今でこそ見慣れてしまったが、こうして人の往来のなかで平気で乳を与えるマイセルたちには、最初は驚いたものだった。


『え? 変ですか? だって、赤ちゃんにお乳をあげるだけですよ?』


 不思議そうに答えると一切の躊躇なく胸をはだけて、泣く娘に乳をふくませたマイセルに、止めた俺のほうが面食らってしまった。だが、人前で授乳することをタブー視する現代日本こそが、実はおかしかったのではないかと、今では思えてくる。


 なにせこちらでは、ごくまったく当たり前のこととして、誰も俺たちに注目してこないのだ。この往来の中で。温かい目でこちらを見守るご婦人がいたり、子供がやって来て乳を飲む赤ん坊の頬をつついてきたりするくらいだ。


「……平和だなあ」

「ムラタさんが守ったんですよ? この広場を、この四番街まちを」


 思わず漏らした俺の言葉に、マイセルが微笑みながら返した。俺はそういうつもりで言ったんじゃないんだが、まあいいか。

 女性の授乳を女性が批判するという、「女性が生きる」上で最も自然な姿のひとつをフェミニストが批判する、という地獄のような論理は、少なくともこの街には存在しないようだ。

 妙な感慨を抱いていると、声をかけてきた婦人がいた。


「随分とまるまるとした、可愛らしい赤ん坊ね」


 たまたまそばを通りかかったらしい、じつに恰幅かっぷくのよいご婦人が、マイセルが抱えている我が娘シシィの様子を見て声をかけてきた。


「そうですか? こんなもんじゃないですかね?」


 一瞬、けんかを吹っ掛けられたのではないかと思った俺はあえて笑顔で答えた。

 たしかに、この一カ月間で娘は丸々と太った──もとい、ふくよかになった。顔はぷにぷにの大福もちのようだし、腕に至っては某コンビニの「ちぎりパン」のようなぷよぷよぶり。

 赤ん坊というと、これぐらい丸々としているのが普通だと思っていたのだ。


「そうでもないわよ」


 ご婦人は笑いながら、赤ん坊のもっちもちの腕をなでた。


「やっぱり、たくさんおっぱいを出せるお母さんだってことね。あたしゃ乳の出が悪くてねえ、子育てに苦労したものよ。そんなうちの子も、今じゃ男を追いかけて街を出て行ってしまって以来、どこに行ったのやら、もう分からないけど」


 婦人は懐かしそうに笑うと、「赤ちゃんはおっぱいしか飲めないからね。自慢できるいいお嫁さんをもらったと思って、大事にするんだよ」と言って、市場の中に消えていった。


 言うだけ言って消えていったご婦人のことはともかくとして、そういえばマイセルも最初はおっぱいの出があまり良くなかった。だから、彼女から悲鳴が上がるほどに痛い「母乳マッサージ」を、産婆を務めたゴーティアス婦人からしてもらったのだ。そのおかげで、母乳がよく出るようになったんだった。


 そういえば、フェルミの方は逆に、最初からヒスイが飲みきれなくて困るほどおっぱいが出てるような気がする。こういうところも、個人差があるのだろう。


「なんスか、その目は。いやらしいスよ? 私のおっぱいが飲みたいなら、人がいないところにしてくださいよ?」


 お前、俺を何だと思ってるんだ、と突っ込みたくなったが、どうせ「戦場で女を孕ませる変態さんっス」とかなんとか言うに決まっているからぐっとこらえる。

 そんな俺をみて、フェルミがにんまりと笑みを見せた。


「……何だ、何が言いたいんだ」

「私のご主人は、炎に巻かれた戦場で女を孕ませる真の変態さんっス」


 あーもう、お前はどうしてそんなに可愛い女なんだよちくしょう。


「そんなことより、どうせ、どうして私は乳首もないのにおっぱいがいっぱい出るかって言いたいんスよね? 決まってるじゃないスか、そんなの」

「決まってるって、どういうことだ?」

「ご主人のおかげっスよ」

「俺のおかげって何だ?」


 どうせろくでもない理由を挙げるに決まってる──そう思っていたのに。


「……ご主人が、その……毎晩、愛して下さったからですよ」


 しばらく頬を染めてうつむいていたと思ったら急にか細い声で、乙女チックなこと言いやがって。ああもう、俺はなんでこんな可愛い女を嫁にしちまったんだよ、ちくしょう! そうどぎまぎしたら、フェルミの奴、そんな俺の反応を見てまたニヤリとしやがった。


「うふふ、そんなにびっくりしたっスか? やっぱりご主人は、おとなしい感じの女の子が好きなんスね」


 見事にだまされたよちくしょう!


「……だましてなんて、いないスよ?」


 そう言って、フェルミは頬を染めたまま、続けた。


「ご主人さまが、私をいっぱい愛して下さったから……。それは、本当だって思ってるんですよ?」


 まっすぐに俺を見つめてから、どこか恥じらうように少しだけ上目がちに微笑みながらそう言ったフェルミに、俺は今度こそ胸を撃ち抜かれるような錯覚を覚えた。

 ちくしょう、だからお前は反則級なんだ。こんな人通りの多いところでそれを言ってのける、君のその、愛おしさが。




「で、お前は何を言ってるんだ?」

「娘は可愛いってことだ」

「だから、それで何が言いたいんだって聞いてんだこっちは」

「だから! 娘は可愛いって言ってるだろ!」

「だから! 仕事の話をしてんだよオレは!」

「だれが! 仕事の話をしてんだよお前は!」


 リファルが、こめかみを押さえながら大きく息を吐くと、俺の胸倉をつかんで叫んだ。


「今は仕事中なんだよ! 仕事の話をしやがれ!」


 幸せの塔の作業は、いよいよ佳境を迎えていた。地上百尺──およそ三十メートルの塔は、穴をふさがれ、補強のための鉄骨が塔内部を支え、そして鐘が打ち鳴らされる塔のてっぺんでも、仮の鉄骨をさらに補強するための鉄骨が今、クレーンによって引き上げられている。


 本当はH鋼にしたかったのだが、日本の建設分野でおなじみのH鋼を作るための圧延機などの技術がないため、そこは妥協だ。この鉄骨による補強が終わったら、塔の表面を覆う化粧石による新たな装飾を経て、塔は完成となる。


「リノ、ちょっと止めるように言ってくれ。揺れが無視できない」

『止めるの? うん、わかった』


 俺は、「遠耳の耳飾り」を通して、クレーンのほうについてくれているリノに作業の中断を要請した。重量のある鉄骨が壁にぶつかると、かすっただけでもダメージが大きい。じれったいが、揺れが収まるのを待って、再開の合図を送る。


「……な? リファル、ちゃんと仕事はしてるだろ?」

「その合間に子供自慢を延々と聞かされる他人の身にもなってみろ」

「何言ってんだ。他人だから聞かせたいんじゃないか、身内に話したってみんな知ってるんだ、そんなのつまらないだろう?」

「そんなに子供がいいなら今すぐ塔から飛び降りて会いに行け。だれも止めないから安心しろ」

「……そうだなあ。一気に降りられる昇降機、付けたいなあ」


 なぜか隣でげんなりしているリファル。だが俺は、彼を元気づけるいいアイデアを思いついた。


「そうだ、リファル。実はな、最近気づいたんだが、フェルミのやつが妙に可愛くてだな──」

「今度は嫁自慢かよ、いい加減にしろっ!」



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