第107話:交渉成立

「おめぇが言っていたノコギリの話だ。引くときに切るだと?」


 いよいよ商談に入るわけだ。つばを飲み込む。


「はい。出来ますか?」

「そりゃ、歯の向きを反対にするだけだからな。しかし、なんでまたそんな奇妙なものを欲しがる?」


 やはりこの世界では押しノコが主流なのだろう。


「奇妙かもしれませんが、私がそれに慣れておりまして」

「あと、両刃にする理由は?」

「縦引き用と、横引き用です」


 両刃ノコは、目が粗く、木目に沿って切るための刃と、目が細かく、木の繊維を切断するためのナイフ状になっている横引き用の刃の二種類を備えている。

 さらに引いて切るためにあまり硬さを必要とせず、薄く作ることができる。

 それが、日本の一般的な両刃ノコだ。およそ一般的な大きさの実物大の絵を描いて見せる。


「ふぅむ……なるほど。薄手に作るってのも骨が折れるが、横引き用って方の、刃を細かく研がなきゃならねぇってのがまた、面倒臭そうだな」

「いくら親方でも、難しいですかね?」

「馬鹿野郎、面倒臭そうってだけだ。こと鉄に関して、オレにできねぇことなんざ、あるわけねぇだろう!」


 さすがだ。頼りになる。


「だがな、ちょいと聞いておきたいんだが、横引き用ってヤツは、刃を研がなきゃならねえんだな?」

「そう、ですね。お手間をおかけしますが」

「そうじゃねえ、理由は分かるんだ。要は、木の筋を切るため、なんだろ?」


 筋――まあ、そうだ。

 木材の細胞壁は、基本的には縦方向に繋がっている。だから、縦引き用は刃を尖らせなくても、剥ぎ取るようにさえできていればいい。

 横方向は、その細胞壁を切断する構造であった方が、よりスムーズに切れる。だから、縦引きと横引きでは目の粗さも、刃の付き方も違うのだ。


「だったら、最初から横引き用の刃だけつけておけば、それで済むんじゃねえのか? 縦だって、それで切れば問題ないだろう」


「……言われてみれば確かにそうなんですが、まあ、刃が二種類あれば、その分長く使えるようになるかと――」

「そのぶん、耐久性を考えればいいってことだろ? ――まあ、せっかくの提案だ。両刃でやってみるが」


 親方は面倒くさそうに、だがほぼ即答で答えてくれた。


「では、実は折り入って話があるんですが、そのノコギリ作りについて、……」

「どうせリトリィにも覚えさせろとか言いてぇんだろ?」


 ……よく分かってらっしゃる。


「おめぇにくれてやったあとは、もう教えてやれねぇからな……」


 ――!

 では、もう結婚を認めてもらえるということか!?

 そう思って聞いてみたが、ゲンコツが打ち下ろされただけだった。


「馬鹿野郎、せめて今の小屋ってやつを完成させてからにしやがれ、このウスラトンカチが!」


 ……久々に親方のゲンコツを食らった。

 ここで痛がってみせるとまた食らいかねない。なんだかんだ言ってもこの人が俺の義父・・になるのだ、甘んじて受け止めるしかあるまい。


「……まあ、おめぇにアイツを任せるとは決めたんだ、いずれは、おめぇがアイツをどうしようと、おめぇの勝手だ。だが、そのためにまずオレを納得させる仕事をしてみせろ。すべてはそっからだ」


 無論、そのつもりだ。あの小屋は、この世界での俺の仕事第一号だ。あの小屋を無事完成させることで、この世界での俺の存在意義を証明してみせる。


「だから、アイツはしばらく、オレが預かる。おめぇはおめぇで仕事をきっちり片付けろ。それが、おめぇにくれてやる条件だ。文句はないな?」

「はい。よろしくお願いします」

「……交渉成立だ。泣き言は許さねえからな?」

「そちらこそ、あとになってからやっぱりやめた、は無しですからね、お義父とうさん?」

「誰がだ、誰が」


 再び拳が振り上げられる。予想済みなのでしっかり奥歯を噛み締めておいたが、しかし、いつまでたっても振り下ろされない。そっと目を開けると、親方がゆっくりと拳を下ろすところだった。


「お義父さん、なんて気持ち悪い呼び方するんじゃねえ。まだ早い。――いずれが来たら、そのときは親父おやじと呼べ」


 目をそらし、何とも複雑そうな顔で言う。


「あとな。今夜泊まっていくのは構わんが、アイツの部屋寝ることは許さんからな」


 ――釘を刺された。つまりうちにいる限り、リトリィと寝るなと、そういうことか? リトリィが聞いたら、たぶん泣くよな。


 ……ん? リトリィの部屋寝ることは許さない――?


 ――なるほど、そういうことか。

 この親父おやじ殿、があるからな。


「もちろん、心得ていますよ。リトリィの部屋、寝ませんから」

「……ふん」


 険しい顔をする親父殿だが、可愛い娘が悲しむようなことはしたくないらしい。




「それで、は? ノコギリの話はどうなったんですか?」

「ああ、殿は快く引き受けてくれたよ」


 夜の食堂で、二人きりのお茶を楽しむ。天窓からの月明かりだけで、十分にお互いを視認できるのだから、こちらの世界の青い月は、本当に明るい。


 リトリィは、ほっと胸をなでおろし――言葉に違和感を覚えたようだ。


「……殿?」

「ああ、殿だ」


 リトリィは上目遣いで天井を見るような仕草をし、得心がいったように胸元で両手を軽く当て、そして微笑んだ。


「お父さま、わたしたちのこと、認めてくださったんですか?」

「今、請け負ってる仕事をやりきったら、と言われたけどね」

「ふふ……しぶしぶ、といった様子だったのですね?」


 リトリィが、こちらを上目遣いに見ながら両手でカップをすする。どうも、親方――親父殿がリトリィを出し渋っている様子を想像しているようだ。


「いや、それほどでもないよ。ただ、この家にいたうちの半分くらいは、リトリィを泣かせっぱなしだったからな。まあ、仕方ない」

「それは……」


 リトリィも、言葉に詰まる。

 彼女が俺のことを想ってくれている、そう理解していながら――否、理解したからこそ別れなければならない、いつか日本に帰るときのために――。

 そう頑なに信じて、リトリィとの関係を終わらせようとあがいた、一カ月間。

 リトリィを苦しめ、そのうえ俺自身も苦しみ続けることになった、一カ月間。


 今から考えたら、本当に無駄な時間だったと思う。

 ところがリトリィは、俺の後悔の言葉に、静かに微笑んでみせた。


「無駄――ではなかったと思います」

「いや、二人して苦しんでいたあの時間、もっと――」


 続けようとした俺の唇を、リトリィの薄い唇が、そっとふさぐ。


「――ムラタさんは、あのひと月を、後悔してらっしゃるんですね?」


 優しい目で、真っ直ぐ見つめられながらそう言われると、本当に心苦しい。俺のくだらない思い込みで、彼女を苦しめてきたのだから。


 しかし彼女は、そんな俺の心の内を見透かしたかのように、俺の肩に顎を乗せた。俺の首筋で鼻を鳴らし、あの、いつもの、においをかぐ仕草をする。

 ――ぺろりと首筋を舐め、腰を浮かせるように反応してしまった俺に、いたずらっぽい笑みを浮かべて、続けた。


「あのひと月があったから、わたし、あなたのことをより深く考えることができました。あのひと月も、大切な時間だったって思えます。――つらかったですけど、今ならわたし、そう言えますよ?」


 ……でも、彼女を傷つけてきた事実は変わらない。いくら大切な時間だったなどと言われても、さすがに気まずいものがある。

 けれど彼女は、そんな俺の過ちをゆるしてくれたのだ。まっすぐ受け止めるよりほかあるまい。




 茶をすすりながら、改めて街に出てからの二人の関係を思う。

 隣で微笑んでいるリトリィは、青い月の光の中で、金というより銀に輝いているように見える。

 そのあごにそっと手を伸ばすと、目を閉じて俺の手を取り、そして俺の手に頬を擦り付ける。


 ゆっくり目を開け、わずかに口を開き、舌をすこし、見せる。

 それに応えるように、俺も体を寄せ、唇を重ねる。


 この家を出発するとき、俺は日本への手がかりを得るための旅になると思っていた。

 帰れるか帰れぬか、それはともかく、情報は手に入れておいた方が後々後悔しないだろう、というリトリィ自身からの強い提案で、街に行くことになったものだった。もっとも、その時点ですでに、リトリィと共に生きようという思いは持っていたのだが。


 街で不良どもに絡まれたとき、彼女が妊娠できるタイムリミットを知ってしまったことで、リトリィとの関係は激変した。まあ、踏ん切りをつけさせてくれたという意味で、あの街のクソガキどもにも一応の感謝をしておこう。




「――ムラタさん、そろそろ、お休みしませんか? 今日もお疲れでしたでしょう?」


 長い長いキスのあと、やや息を荒くしたリトリィが、はにかみながら階段の方を見る。自分の部屋に来てほしい、ということなのだろう。


「いや、申し出はありがたいんだが、リトリィの部屋で寝ることは許さん、という厳しいお達しがあってな」

「……え?」

「だから、リトリィの部屋一緒に寝ることはできないんだ」


 わざとそう言ってみせると、やはりというかなんというか、相当なショックを受けたようだ。


「お父さま、認めてくださったんじゃないんですか……?」

「そうなんだけどな。一線は引け、ということみたいで――」

「そんな――」


 あ、しまった、やりすぎた! 途端にぼろぼろと涙をこぼし始めたリトリィに、慌てて声をかける。


「だから、下に来ないか? リトリィの部屋寝ることは許してもらえなかったが、ことんだから」

「……え?」


 ぽかんとして口をぱくぱくさせるリトリィが可愛くて、その口を再びふさいでやる。

 しばらく口の中を味わっていると、やっと俺の意地悪に気づいたらしい。


 ぽかぽかと俺の胸を叩いてみせたあと、その腕を俺の背中に回す。

 返事を得たものとして、リトリィを連れてに向かった。




 ドアは、修理されていた。

 きちんと閉める。

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