第594話:俺たちの戦いは、これから
「……話がそれましたが、ハルトマンさん。実際のところどうなのですか?」
ナリクァン夫人に促され、ハルトマンさんは右手で眼鏡の端を押し上げながら答えた。
「おそらくは過度の暴力的な躾は行われていないとみなせるでしょう。ただし、それはあくまでも多くの子供たちについてです」
「多くの子供たちどういうことかしら?」
「はい、
ハルトマンさんは恐ろしいことを言った。要するに、「ああはなりたくない」と思われる「虐待される係」をつくるのだ。その子供をひどい目に遭わせることで、他の子供たちを「ああなりたくない」と奮起させるための生贄だ。
「そんな、ひどい……!」
立ち上がりかけたリトリィの手をつかむと、落ち着くように言う。リトリィは幼いころ、ストリートチルドレンで獣人の女の子という、「差別されて当たり前」という扱いで生きてきた過去をもっている。他人事とは思えないのだろう。
ハルトマンさんは、立ち上がりかけたリトリィを見てうなずきながら続けた。
「……今回、生贄役が誰かを特定することはできませんでしたが、少なくともヴァシィという少女は、間違いなくその一人とみてよいでしょう」
歌唱隊の一人だったし、寄付を募りに行く役割を担っていたことから、おそらく容貌も優良と判断されていたはずのヴァシィ。しかし、背の曲がった男と筋肉ダルマの男に、二人がかりで酷い目に遭わされていた、サファイアブルーの髪が美しい少女。
彼女のような子供が、複数いるおそれがある──それは俺を戦慄させた。
『恩寵の家』のダムハイト院長のような、子供への愛はあるけれど、宗教的熱意と無知と貧しさから子供たちを苦しい生活に追い込んでいるタイプは、確かに問題だ。けれど、意図的に子供を不幸に叩き込む運営など論外だろう。
「そして、やはり気になるのは成人の儀に関わる、十五、六歳程度の少年少女を一人も見かけなかったことです。これは奇妙なことです。仮に、年齢は該当しても背が低かった、という子供がいたとしても、全員が十一、二歳の子供と同程度の背丈しかないというのはおかしいでしょう」
ハルトマンさんの言葉に、思わず隣に座るリノを見た。リノは小首をかしげるように俺を見上げ、そして笑顔を見せる。この子を、あんなところになど入れられるものか。いや、もちろんヒッグスもニューもだ。
「……ただ、これはあくまでも、かの孤児院内の問題です。商会が干渉することは難しいでしょう。干渉するべきではないとも考えます」
おもわずハルトマンさんの顔を二度見する。
「なぜですか? 現に女の子が酷い目に遭わされているんです、夫人もそれがあるから力を貸してくださったのでは──」
「わたくしが力を貸したのは、リトリィさんが、あなたがまた無謀なことをしでかしているかもしれないと相談に来たからです。あなたが大した問題を起こさず、かの孤児院も決定的と言えるような問題を起こしているわけではない以上、これ以上の危険を冒す必要はありません」
「い、いや、女の子を『共用便所』だなんて呼ばせて、男たちの性欲を満たすための道具にしていたんですよ⁉ いくらなんでも──」
思わず立ち上がってしまった俺に、ナリクァン夫人は薄く微笑んだ。
「それは、本当に、孤児院の経営に組み込まれていたのですか? 例の男性たちが、その少女を勝手にそのように扱っていたにすぎないという可能性は?」
「で、でも、現に襲われていた女の子はいて……!」
「だから言ったでしょう? その一部を切り捨てて、自分たちはそのような指示などしなかったというのは簡単ですからね。あのままあなたが暴走してゲシュツァー氏に証拠を突きつければ、あとで二つ……いえ、三つの死体が街のどこかに転がることになっただけでしょう」
「……三つ?」
「男ふたつと、少女ひとつです。簡単な計算でしょう?」
……そんな、そんな馬鹿な。
「じゃあ、ヴァシィは! あの子はどうなるんですか! ナリクァン夫人も干渉してくれないとなったら、俺一人ではあの少女を助け出すなんてできるわけがない! 必ず助けるって、だからもうすこしだけ耐えてくれって……!」
「身の程を知りなさい。あなたが自分でできぬことを約束したことが、そもそも間違いなのです」
そんな……そんな!
理不尽な扱いに晒されて、そして彼女が流した涙と言葉。
『一度だけでいいんです。リヒテルくんのケガが治ったら、彼に会わせてください』
『彼に、謝りたいから──だから、一度だけでいいんです。どうか、どうか……』
もしかしたら、俺たちと関わり、そして二人の男の失踪が関わっているかもしれない彼女は、もう、外に出してもらえないかもしれない。
──俺たちが、助け出さない限り。
ナリクァン夫人は、静かにティーカップを傾けている。
ゆっくりと、静かに。
ゆっくりと。
どうする。
どうすればいい。
俺がなんとかしないと、ヴァシィは、あの悲劇の少女は、外に出ることすらできなくなるかもしれないのだ。
彼女を、あの孤児院の外に解放してやりたい。
見てしまったのだから、あの現場を。男二人に
そのために、今日はゲシュツァー氏に戦いを挑んだはずなのに。
俺たちの戦いは、これで終わってしまうのか?
せめてあの孤児院の外に、彼女を。
──外に?
「……夫人!」
俺の言葉に、彼女はカップを置いて、俺に薄く微笑んでみせた。
「……なにかしら?」
まだ考えがまとまらない。
だが、おぞましい考えが浮かんでしまったのだ。
俺自身は、この発想が間違っていることを望みたい。
でも、このひとは、これまでも動いてくれたのだ。
可愛がっているリトリィ、そのリトリィが愛しているどこぞの馬の骨、程度の認識であっても。
──対価を、示せば!
たとえ俺の想像が間違っていたとしても、
もしかしたら、商会が動くその過程で、なにか彼女を救う手立てが見つかるかもしれない。だったら、賭けるしかない。
ゲシュツァー氏の運営している孤児院の売りは、教育だ。教育といっても、職業訓練施設のようなことをやって、子供たちの「労働者」としての価値を高めることに力を入れている。
孤児院で技能を身に着けた子供たちは、働き手の欲しい老婦人の養子になったり、ギルドで徒弟になったり、商店で働いたりするそうだ。赤ん坊なら、何らかの理由で子に恵まれなかった夫婦の養子にもなるらしい。
基本的に、この世界の常識としての虐待を受けることはあまりないようだ。だが、一部の子供が、それを肩代わりさせられているおそれはあるという。
奇妙なことには、独立する十五、六歳の子供を、なぜか見かけない。
ハルトマン氏も、彼らが
三十年間も運営されてきた孤児院出身の人間を、ハルトマンさんは「見たことがない」というのだ。
そして、ゲシュツァー氏は孤児院を運営するだけでなく、商店や工場をも営む経営者であるということ。
「私の考えを、聞いてもらえますか?」
「どうぞ? さあ、あなたの考え、わたくしに聞かせてちょうだい?」
夫人が、若干身を乗り出すように、俺に向き直る。
──ああ、どうか、俺のおぞましい発想は、間違っていますように……!
「おう、遅かったな。待ちくたびれちまったぜ」
簡素な応接室の中央のテーブルで、リファルが、口をもごもごさせながら手を上げてきた。
待ちくたびれたから、その口か。彼の前の藤籠には、焼き菓子が積み上げられている。孤児院の少年たちも、目をキラキラさせながら貪り食っている。あのファルツヴァイもだ。
「それで、話はどうなったのです?」
ウカートが、眼鏡の中央部を押し上げながら聞いてきた。
「……しばらく、様子見だよ」
「様子見ですか。そうでしょうね」
ため息をついたウカートだが、しかしさすがだった。
「……ですが、動くのですね?」
「ああ。夫人は動いてくれる。約束してくれたよ」
「そうか、じゃあ大丈夫だな!」
リファルが快活に笑った。「これでもう、あのクソ野郎はおしまいだ!」
しかしウカートは、眼鏡の端をつまんだまま、疑問を口にする。
「……手掛かりはあるのですか?」
「ナリクァン商会の規模だ、ゲシュツァー氏関連の事業に潜り込むことは、それほど難しいことじゃないさ」
「氏の事業? 孤児院ではないのですか?」
ウカートが眼鏡の端をつまみ、俺の目を探るように見る。
「……彼は、孤児院以外にもいくつかの商店や工場を経営している」
俺は、それだけを口にした。
ウカートはしばし視線を床に落としていていたが、やがて、眼鏡を押し上げながらつぶやいた。
「……なるほど、わかりました。そういうことですね」
光る眼鏡の裏で、彼がどんな目をしていたのかは分からなかった。
けれど、彼の声がわずかに震えていることは分かった。
俺のわずかな言葉だけで、おそらく、彼も俺と同じ結論にたどり着いたのだろう。
リファルは「なんだ? お前ら、何を言ってるんだ?」と首をかしげるが、俺はあえて放っておく。
「ムラタさん。君はこれから、どうするつもりです?」
「ヴァシィを解放すると約束した。それに、リヒテルの敵もまだ討っていない」
「なるほど、商会の力を使ってでも引き下がるつもりはないと」
ウカートは面白そうに笑った。
「ムラタさん、君といると、なかなか刺激的な人生が送れそうですね」
「今日は付き合わせて悪かった。あとは俺の個人的な復讐でしかないから、この先は……」
「何を言ってるんです」
彼は意外そうな顔をして、そして笑った。
「自分は、君の戦友ですよ? 戦友は、戦友を見捨てぬものです」
眼鏡を押し上げながら、ウカートは不敵に笑ってみせた。
「今日は、敵情視察です。戦いはこれからですよ」
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