第175話:ふたりぐらしのはじまりに

「こ、こんなにも受け取れません!」


 リトリィが、手にした箱の中身――金貨が五十枚と、銀貨が……たぶん二百枚くらい? を見て、わなわなとふるえながら絶叫する。


「いいのよ。設計の依頼料に加えて、ご祝儀と思ってちょうだい」

「でっ……でも! こんな大金、受け取れません!!」

「いいの。あなたたちのおかげで、こんなに綺麗なおうちができたのだから」

「でも……でも、こんな……なっ……ななじゅうマルカもの……!」


 言いかけたリトリィの唇に、ナリクァン夫人がそっと右の人差し指をあて、いたずらっぽく笑って首を振る。


「言ったでしょう? あなたたちへの、ご祝儀も兼ねて……ね?」


 ――お金の価値は、前に聞いたことがあるぞ。

 確か、貨幣の単位が、アメリカのセントとドル、のように複数あって、――金貨一枚が一マルカ、基準貨幣だったはず。

 でもって、以前、雑に計算してみたとき、たしか一マルカが十万円くらいの価値で……。

 ……七十マルカ……。


 およそ七百万円!?


 さ、さすがにそれは受け取りすぎだ、慌てて俺も頭を下げ、受け取れない旨を訴える。ムラタ設計事務所は法外な金をとる、そんな話が広まったら……!


 ところが、ナリクァンさんは、俺に対しては心底呆れたような目を向けた。リトリィには、慈愛に満ちた母のような目をしていたのに、なんて扱いの差だ!


「……いいこと? あなたは、リトリィさんを養っていかなければならないんですよ? 変な矜持など捨てて、まずは地に足付けて生きることを考えなさい」


 い、いや、プライドの問題とかじゃなくてですね?

 そう反論しようとしたら、今度はものすごく怖い笑顔で覗き込まれた。


「そう……。では、もう、次の仕事は決まっているのですね?」

「……は?」

「そうそう……ムラタさん、あなた、お仕事をされるのでしたら、事務所はどうされるおつもりかしら?」


 ……しまった!

 そうだ、今の宿を事務所にするわけにもいかない。独立して設計の仕事をするなら、どこかに事務所を開く必要がある!

 自宅兼用でいいけれど、すくなくとも宿屋を事務所にすることは認められないだろう。そ、そうするとこの七十マルカは、事務所を借りるための妥当な金額、ということなのか……?


「ばかおっしゃい。七十マルカもかけて、事務所を借りるですって? そんなことのために渡すわけではありませんからね」


 ナリクァンさんの、冷え冷えとした視線が痛い。


 ペリシャさんを始め、ほか四人のご婦人方は、少々ひきつった笑顔を浮かべている。ナリクァンさんは、彼女の商会にてかなりの腕を振るったようだし、ご婦人方はその面影を見出したのかもしれない。

 ――そう、思ったのだが。


「ですから、あなたたちいっそのこと、ここに住みなさい。正式な事務所を構えるまで、ここを根城にすればよいのです」


 ナリクァンさんの唐突な言葉に、今度こそ頭が真っ白になった。


「二階はもともとなかった場所、それをあなたは作ってみせたのですから、あなたたちの、とりあえずの新居にしてしまいなさいな」


 この言葉を皮切りに、あれよあれよという間に、タンスやら衣装やら馬鹿でかいベッドやらが運び込まれてくることに。

 全部、女性ものだ。

 ……もちろん、俺の返事を待つことなく。


「このあいだ模様替えした時に、余ってしまいましたのよね」

「この衣装棚など、型は古いでしょうけれど、十分に使えますから」

「このドレスも、リトリィさんなら仕立て直せるでしょうし、誰かに使ってもらえるならそれが一番ですしね」


 五人のご婦人方が、実に楽しそうに運び込まれる荷物を眺めている。

 俺も、リトリィも、ついでにマイセルも、開いた口が塞がらない。

 瀧井さんは、苦笑いでこのありさまを見守っている。

 ……瀧井さんは、分かっていたのだろうな。なんたって、ペリシャさんが大張り切りで陣頭指揮を執っているのだから。


 ナリクァンさんの、あの強引な論の展開は、これを実行するためだったのか。

 というより、俺が屋根裏部屋をつくれることを明かした時点で、無理にでも階段を作るようにねじ込んだのは、こうするためだったのか――




 ――あのときの騒ぎを思い出すと、へんな笑いがこみあげてくる。

 悪い意味ではない。ただ、俺の思惑など頭越しに飛び越えて話が進んでゆく、そのときの奇妙な感覚を思い出してしまうのだ。


「私の事務所……。そう、らしいですね……」

「自分の事務所だろ? はっきりしない奴だな」


 マレットさんの言葉に苦笑する。


「……ええ、いまだに、実感がわかないものですから」

「寝言を言ってるんじゃねえ。おまえさんも一国一城の主になったんだ。しゃきっとしろ」


 そう言って笑うマレットさんに、背中をバシンと一撃される。


「ナリクァン夫人のことだ。炊き出しは、やるんだろう?」

「おそらく。もともとそのための場所にするはずでしたから」

「しかし、そうすると仕事はどこでやるんだ?」

「一階部分の部屋は三つありますから、その一番奥の部屋が、とりあえずの事務室になりそうですね。残りの二部屋は、当初の予定通り、一般に開放して多目的に使える会議室のようなもの、ということになりそうです」


 まさかこんな形で、自分の事務所を持つ日が来ようとは。

 いずれは独立出来たら、と夢見てはいたが、早くともあと十年以上先の話だと思っていた。まさか、まさか二十代で独立することができようとは。


 とはいっても、当面はこの世界の法律を学ばなければならない。日本ほど複雑ではないと思いたいが、それでも、しっかりと法に基づいて家を設計しなければ、住む人に迷惑が掛かってしまう。

 頂いた七十マルカは、当分は仕事をせずに勉強する、その間の生活費になるだろう。


 ただ、シェクラの花の季節まで、あとふた月あまりだという。できればそれまでに、せめてあと一つは仕事の実績を作ってから、リトリィを妻に迎えたい。

 彼女のために、そして、いずれ俺のもとに来てくれるマイセルのためにも、胸を張って仕事をできる俺にならないと。




「うそみたい……ですよね」

「俺もいまだに信じられないよ」


 ヒヨッコたちが丹精込めて作り上げた屋根窓から、青い月が見える。


「まさか、この家に住むことになるなんてな」


 殺風景な白木の天井は、しかし見えない。

 理由は、この、豪華な天蓋てんがい付きのベッド。四方を、向こうが透けて見えるほど薄い絹のようなしゃで覆う、貴族が使うようなベッドだ。


 なんで屋根裏部屋にこんなものがあるかといえば、ナリクァンさんたちが運び込んだ家具の中の一つが、このベッドだったからだ。


 ものすごく場違いである。

 おまけにものすごく、でかい。

 ダブルベッドを並べたサイズより、たぶんさらにふた周りほど、でかい。


 分解した状態で運び込まれたとはいえ、よくもまあ、あの狭い階段を、部品が通り抜けたものだ。特にマットレス。


 この小屋の一階面積の広さがそのままこの屋根裏部屋の広さだとはいえ、端の方は天井が低すぎて部屋として機能していないから、頭上を気にせずに使える面積はおよそ半分程度なのだが、そのスペースをさらに半分近く占めている。


 しかも、この世界で慣れた「わらベッド」ではない。スプリングの利いたマットレスなのだ。

 これには心底驚いた、バネというのは高度な冶金技術の塊だからだ。この世界においては、おそらく、すさまじく高価なものにちがいない。そんなものを、ぽんと譲ってくれたナリクァンさんの経済力が恐ろしい。


 いやまあ、おかげでゆったり、たっぷり、二人の時間を楽しむことができるのだが。


 誰も住まない公民館を予定していたため、断熱材の一切入っていないこの小屋は、だからはっきり言って、寒い。おまけに屋根裏部屋。まだ十分な実感はわかないが、寒暖の差の激しい部屋になることは間違いない。

 よって、冬の今、夜はこうして抱き合っていなければ、寒くてかなわなかったはずだ。


 このベッド、そしてボリュームたっぷりの、この羽毛布団でなかったなら。ナリクァンさんの心遣いには、本当に痛み入る。

 まあ、つまり、しっかりを果たして、ちゃんとリトリィに子供を抱かせてやれ、というメッセージなのだろう。


 報酬といい、この家具類といい、これらはいわば、ナリクァンさんがリトリィに添えた持参金じさんきんなのだ。すなわち、ナリクァンさんに愛されているリトリィのなのである。

 その彼女を幸せにできなかったとしたら――その報いは、想像するだに恐ろしい。まだ、正式に結婚式も済ませていないのだが。


「でも、これでやっと、ムラタさんと二人っきりになれるようになりました」


 当分、二人っきりですね――そう言って、はにかむ。今さら恥じらうことなど無い間柄だというのに。


「だけど、今までなら宿の主人に頼めた水も湯浴みの湯も、これからは自分で用意しなきゃならないんだぞ?」


 そう言うと、リトリィは目を丸くし――


「山でしてきたことを、またするだけですよ?」


 不思議そうに答えた。


 ――そうだ、そうだった。

 リトリィは今までずっと、家族全員の世話をしてきたのだ。

 俺は何を今さら心配したのか、と苦笑する。


「ムラタさん、明日から、しばらく、お休みですね?」

「休み――というか、さっきも言ったけど、図書館で法律の勉強だな」

「でも、朝からずっと一日中、というわけではないですよね?」

「それはまあ、そうだけど」

「じゃあ――」


 リトリィは微笑むと、そっと、手を伸ばす。


「もうすこし、別に明日に差し支えるわけじゃ、ないですよね?」


 いたずらっぽく笑みを浮かべた彼女に、俺も彼女の期待に応えるために、彼女の首筋に唇を寄せる。


 始まったばかりの二人きりの暮らし、その夜もまた、まだ始まったばかりだ。

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