第5話:キッチンの天使(1/4)

 蛇口をひねればすぐ水が出る、そんな現代文明に生きてきた俺にとって、この労働はじつに厳しかった。

 崖に刻まれた細い道を、水がたっぷり入った桶を担いで上るという、この労働。


「おい兄ちゃん、水汲みってのがどれだけ大変か、分かったろ」


 それまで、全くしゃべらなかった顔面傷だらけの凶相の持ち主──アイネといったか。ニカッと笑って背中を叩いてきた。痛い!

 自分には一つが精いっぱいだったが、アイネという男は二つを担いで、なお平然と崖の道を上ってきた。


「そろそろ飯だからな、この水の桶、三つとも台所に運んどけよ。俺は鍛冶場の片づけをしてくる。残りは飯を食ってからだ。リトリィを待たせると、後が怖いからな」


 リトリィ――ああ、あの犬の女だったか。

 とても穏やかな感じだったが、怖いってどういうことだ?


「あ? 馬鹿言え。あの天使が怖いだと? そんなわけあるか。ただ、アイツを怒らせたら、親父の拳が飛んでくるんだよ」


 なるほど、バックが恐ろしいわけか。それはよくわかる。あの拳は、痛かった。


 それにしても、天使。

 ――天使ときたか。あの犬頭を、ねえ……?




 指示された通り、館の側面の開け放たれた勝手口に回ったときだった。


 食欲をそそる美味そうな香りがふわりと鼻をくすぐり、それまで地面ばかり見つめていた視線を上げる。

 エプロン姿に三角巾、スープ鍋を前にして目を細めて小皿で味見をしていたリトリィが、そこにいた。


 明るい外から屋内に入りかけ、その薄暗さに慣れていなかった俺の目に、彼女は、吹き抜けの高い窓から差し込む一筋の光を受けて、まるでスポットライトに照らされるかのごとく、金の毛並みが照り輝き、浮き上がって見えた。


 ──天使。

 アイネの形容の的確さに、今さらながら心の中で快哉かいさいを送る。


 彼女は、例の貫頭衣の上からエプロンを羽織ってはいるが、彼女の姿を横から捉えている俺にとって、彼女の側面を覆うものは、ほぼなにもないように見えてしまっていた。


 フリルも何もないシンプルなエプロンも、腰骨のあたりまでしか側面を覆っておらず、貫頭衣に巻き付けられた帯が、わずかに腰を覆う程度。


 露わになっている下着の白い紐の結び目が、その柔らかそうな、毛布のような金の体毛に埋もれているさまが、妙に扇情的に映る。


 昼食の準備という、まさに日常そのものの姿のはずなのに、永遠の一瞬が切り取られてそこにあるような、神聖性と官能が混在する裸婦画を見るような、そんな衝撃を受ける。


「ふふ、おいしい」


 満足そうに微笑む彼女の、金の毛並みに覆われた三角の耳が、ぴこぴこと揺れる。人間と違ってうずたかく盛り上がった鼻梁びりょうの先の、褐色の鼻は犬そのものだが、犬と違い、その下の口は、犬のイメージほど大きく裂けてはいない。


 人間同様にというか、小皿からスープを、口をすぼめるようにして、飲んでいる。


 小皿を持つ左手の小指が、一本だけ立っている。

 やや短いように見えるが、人そのものの、指。


 ──ああ、なのだ、彼女は。


 俺とは、ほんの少し、違うだけの。


 最初は違和感しか覚えなかった顔立ちだったのに、今、この瞬間、思わず見とれてしまっている自分がいる。


「ムラタさんも、おいしいって言ってくれるかな」


 ──なぜそこで自分の名が出るのか。

 不意打ちのような彼女の言葉に、意味もなく胸が高鳴る。


「ムラタさんが自分で食べるの、はじめてだもんね。ずっと寝てたし。お口に合うといいな」


 ふふ。

 目を細め──おそらくそれが彼女の笑顔──鍋をかき回し始めるリトリィ。


 鍋をかき回すリズムに合わせるように腰がゆらめき、毛足の長いふわふわの尻尾が、繰り返し小さく跳ねる。


『おいしいって、言ってくれるかな』


 ──おふくろ以外の女性の、手料理!

 人生初体験、自分にそんな日が来ることになるとは!!


 胸が、痛いほどに早鐘を打ち始める。

 声をかけようとして、しかし何と声をかければいいのかわからないことに気づく。


 彼女いない歴二十七年の重みが、ここにきて一気に自分を押しつぶす。アイネの野郎には憎まれ口だって叩けたのに。早く声をかけろ俺。


 ──でも、どんな言葉を、どうやって?


 どぎまぎしながら、しかしかけるべき一言がどうしても思いつかない。

 いや、迷うことなどない。「水を持ってきた」、ただその一言でいいはずなのに。


 これでも営業で、多くの若奥様方──と旦那様方──と、共に作り上げる家とその未来を夢見て言葉を交わしてきたのだ。いまさら何を恐れるのか。


 早く言え。

 何か言え、俺。


 そうこうするうちに、彼女の鼻歌のようなものが聞こえてくる。

 ──ほらみろ、声をかけるべき時を見失ってしまった。


 営業では、あんなによどみなく喋れていたのに。

 なぜ、いま、俺は。

 かけるべき言葉が、かけるべき時に、出てこないのだろう。


 「水を持ってきた」、ただその一言でいいはずなのに。

 その一言が言えない自分のヘタレっぷりに失望し、肩ががっくりと落ちる。

 

 その瞬間、バランスを崩し、水桶が揺れ、膝を痛打する。


「うわっち!?」


 あわてて水桶を持ち直すが、もう遅い。盛大にはねた水が腹まで跳ね、シャツやスラックスを濡らす。


 まるで漏らしたかのような、真新しい間抜けな沁み跡に、俺は無性に腹立たしさを覚えた。これからこの水桶を彼女に渡さなければならないというのに、この間抜けな姿をさらさねばならないというのか。

 どこまでもうまくいかない自分に苛立つ。


「あ、ムラタさんですか?」


 こちらの粗相の声に気づいたか、リトリィが振り向いた。


「お水ですよね? ムラタさん、ありがとうございます。大変だったでしょう?」


 鈴の鳴るような声と微笑み。

 透き通るような――吸い込まれそうな、神秘的な青紫の瞳。


 ああ、その声は、微笑みは。

 ──すべて、今、自分に向けられているのだ。


 まるで中学生の頃に戻ったかような、異様な高揚感──!


「あ──ああ、いや、その……」


 そして、ここへきても言葉の出ない自分に、どうしようもない焦りと、そして絶望感が沸き起こってくる。


 焦りすぎだ、俺。

 落ち着け、手料理っつったって、そりゃ飯を作る担当が彼女なら、当然俺の飯も作る、それだけだ。

 彼女は、客人への礼儀を尽くしているだけだ。

 俺という人間が特別なんじゃない、待遇が特別というだけだ。


 笑え。

 ねぎらいの言葉に応えろ。

 一言でいいのだ。

 「大した事ありませんよ」、その一言でいいのだ。


 それなのに──なぜ出ない。


 顧客相手に作ってきた、いつも通りの営業スマイル、いつも通りの慇懃な言葉。

 それを、いつも通りに絞り出すだけだ。

 なぜ、「いつも通り」をことができない……!


 無様に固まってしまった俺に、リトリィは微笑を浮かべたまま小首をかしげ、そして手を止めてこちらに向かってくる。


「ごめんなさい、お疲れでしたね」


 そう言って、彼女は、

 取っ手を持ったまま固まっている俺の手を、

 その両手で包み込む。


「────!?」


 明らかに俺よりも小さな手が、俺の手を包み込む。


 息を呑む。

 目を見開く。


 身をかがめてこちらを見上げる彼女の瞳が、いまさら、吸い込まれそうな青紫であることに気づく。


 そしてその視界の隅から、エプロンで隠し切れない、真っ白な和毛にこげで覆われた豊かな胸元が、暴力的に目に飛び込んでくる。


 だからというのも変だが、こちらを見上げる彼女の瞳をまっすぐに見つめられず、何か言わなければと頭の中でこだまするのに、

 ──しかし声が出ない。


 そんな俺の顔を、不思議そうに見つめていたリトリィは、ややあって相好を崩す。

 「お水、ありがとうございました」と。


 彼女は片手で取っ手を握り、もう片方の手で俺の手を揉みほぐすようにして俺の手を取っ手から外す。


「──あ、こぼれちゃったんですね」


 そう言って水桶を脇に置くと、エプロンの端を手に取ってひざまずき、俺の濡れた服を拭こうと手を伸ばす。

 濡れたシャツのすそに、そしてぬれたスラックスの──。


 そのしなやかな指の感触に、おもわず自分──!


「あ──だ、大丈夫! そのうち乾くから!」


 慌てて彼女の手を払ってしまい、きょとんとする彼女を目にして、過剰に反応してしまった自分のの、節操のなさを呪う。だが夏用スラックスの薄い生地を内側から突き上げる、不自然な盛り上がりは、それで収まるわけでもない。


「ホント、大丈夫だから──!」


 顔から火が吹き出そうな思いで、あわてて彼女に背を向け、外に駆け出す。


 ああ、どうして、ありがとうの一言も言えなかったのだ。

 中天に差し掛かった太陽を見上げ、いつも後になってから気づくに、嫌気が差す。


 二つ目の水桶を取りに行き、今度こそ何か言おうと考えながら戻ってきてそっと勝手口からのぞくと、リトリィは俺が両手で持ってもふらついていた水桶を、ひょいとそのまま片手でぶら下げ、キッチンの奥まで運んでゆくところだった。


 ──なにやら、言葉に表せない敗北感。

 だが、機嫌は悪くは、なさそうだ。しっぽをぴこぴこと跳ねさせつつ、鼻歌交じりに、キッチンを右に左に立ち回っている。


 もうすぐ食事が出来上がるだろう。

 その時だ。

 ──次こそは、必ず、お礼を言おう。


 勝手口に水桶を置きながら心に誓うと、三つ目の水桶を取りに行ったのだった。

 


――――――――――

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