第261話:艶文(1/2)

 きゃあきゃあ言いながら、リトリィは自分でぶちまけたスープの後片付けを済ませると、「も、もう一度作ってきますから!」と、足早に部屋を出て行った。


 スープがぶちまけられたあとの壁は、もう言い訳が効かない状態だった。木の部分はニスが塗ってあるからまだいいとして、漆喰の部分はどうしようもない。

 リトリィは自分のエプロンの裾まで使って拭いていたが、汚れは取り切れなかったようだ。うっすらとシミになってしまっているのが見える。


 いくらゴーティアスさんが温厚な人であったとしても、壁にシミを作ってしまってはさすがに怒るだろう。いや、不埒者ふらちものを撃退したリトリィに免じて許してくれるだろうか。


 ……あまり都合よく考えない方がいいだろうな。なにせ、この部屋の壁を壊して部屋を縮小することを、ことのほか拒んでいた人だ。だが、リトリィが叱られるのは見たくない。なんとかして俺のせいにできないだろうか。


 そんなことをぼんやり考えながら、できてしまったシミを見ていたときだった。


「……ん?」


 シミができて、微細な凹凸が目立つようになったからだろうか。

 そこに、なにか、漆喰をひっかいてできたような、微細な傷跡のようなものがあることに気づいたのだ。


 ひっかき傷のようにも見えたが、違う。なにか、書いてあるような跡が見えたように感じて、目を凝らす。


「……ええと……『愛』……?」


 ――文字だ。

 リトリィと一緒に勉強した、この世界の、文字。


 ガルフに向けてぶちまけられたリトリィのスープが作ったシミ、そのシミのできた部分に、文字が彫り込まれていたのである。

 一体何が書いてあるのか、興味を惹かれて、その文字を読んでみることにした。


「長い……時間の、……ええと、愛……と、ならなければならない、印……この言い回し、どこかで見たような気がする……?」


 しばらく、どこで見たのかを思い出そうとして、そして気づいた。

 マイセルだ。マイセルが贈ってくれた、カードの言い回しなんだ、これ。


 あれだろうか、しゃれた言い回しというか、定型文というか。あるいは、有名な古典の一節なのか。おそらく、そう読み取るもの、という「お約束」なんだろう。


「ええと……『永久とわの』……『愛となるべき』、印……ええと、『証』かな? 『証を』……ええと、次。『あなたの、ひとり』……『寝るところのからっぽ』……ひとりのからっぽってなんだ?」


 だめだ、読めない単語がいくつかあって、よく分からない。かすれているというのもあるし、そもそも単語の意味が分からないものもある。読み方を間違えているのだろう。


 『永久の愛となるべき証を』……『あなたの、ひとり寝るところの空っぽの』……『ベッドに客を招こう』。

 うん。意味が分からん。


 しかしなんというか、独り寝が寂しいから浮気相手を呼ぼうとか、そんな風にも読める。

 寝室の落書きとしては、これ以上ない、不和の種だ。


 ゴーティアスさん、この落書き、知っているんだろうか。

 知られる前に、いっそ、削って知らん顔をしておいた方がいいのだろうか。


 実はゴーティアスさんが彫ったとか?

 いやいや、そんなこと、考えたくもないぞ?


 リトリィに聞くか?

 いや、マイセルの方が、こういう言い回しを知っていたんだし、ちゃんと正しく読み取ってくれるだろうか。

 だけど、もし、本当に浮気の宣言みたいなものだったらどうする?


 ひとりで悶々と悩んでいると、リトリィが部屋にやってきた。

 妙にか細い声で入室を告げ、恐る恐るといった様子で入ってくる。


 ティーワゴンに乗せられているのは、さっきと同じ鍋だった。さっき投げてしまった鍋だが、ちゃんと拾ってきたらしい。よく見たら、ちょっと鍋が歪んでいる。


 リトリィはというと、入室時のひどくか細い声のとおり、目を伏せて、元気がない。

 いつもはまっすぐ立っている三角の耳が、しおれるどころかすっかり後ろに寝てしまっている。

 よほど見られたくない姿だったようだ。


「ありがとう」


 俺の言葉に、ますます体を縮める。いやそんな恐縮されても。

 目を伏せながら、それでもなにか言いたそうにしながら給仕をしてくれる彼女に、俺は思わず含み笑いを漏らしてしまった。


 途端にすがるような目で見上げられ、俺は慌てて、咳払いをする。

 だが、口元がどうしても緩んでしまい、ついには笑いだしてしまった。


「む、ムラタさん……?」


 訳がわからないといった様子でうろたえる彼女に詫びると、俺は彼女に、笑ってしまった説明をしなければならないと考えた。


「多分、リトリィはさっきのガルフの撃退について、見られたくなかったとか思ってるんだろうけど」


 恐る恐るといった様子で頷くリトリィ。

 だけど、さっきの動きは見事で、実に頼もしかった。

 なにせ、あのガルフがその勢いに恐れをなして、逃げていったのだ。大金星、殊勲賞ものだ。


「あの……その、わ、わたし、褒められているのかもしれませんけど、その……」


 恥入るようにうつむいてしまった。


「は、はしたないところをお見せしてしまったので、その……」


 消え入りそうな声でもじもじしているリトリィ。

 ……ちょっと待て。


 兄の頭を切り株でぶん殴り、

 思い余って男の部屋に夜這いをしてきて、

 今じゃ毎晩、俺の腰の上で身をくねらせている、

 そんなリトリィを、俺はずっと見てきたんだぞ?

 何を今さら。


 そう言うと、リトリィは目をまんまるに見開き、ついでベッドに顔を埋めるように伏せてしまった。


 さすがに意地悪だったかな、と彼女の頭をなでると、今度は思いきり、弾かれたかのように身を起こす。


「むむむムラタさんのせいですから! わたしがはしたない娘になったのは、みんなみんな、こんなにあなたを好きにしてしまった、ムラタさんのせいですからっ!」


 言ってから、今度は口走ったことに何か思うところがあったのか、あわてて首を振り始める。


「あ……ち、違うんです! わたし、あの、あなたのことが嫌いになったとか、そんなんじゃ、ないですから、……あの、あの……!」


 酷くうろたえ、今度は泣き出しそうな目で訴えてくる。

 わかってるさ。普段は穏やかで落ち着いた物腰の君だけど、あの鍛冶屋親子の一員だ。闖入者の撃退くらい、朝飯前だろう?


 そう言ったら、泣き出しそうだった彼女が、今度はほっぺたを膨らませて抗議してきたので、抱き寄せて、膨らませた頬にキスをしてみせる。


 彼女は驚き、次いで泣き笑いを浮かべるとベッドに腰掛けてきて、そっと、体を預けてきた。

 だから、しばらく、長い長いキスをした。


 スープが、すっかり冷めてしまう程度の時間くらい。




 冷めきったスープを平らげた俺は、リトリィに、例の壁の文字を見てもらった。だが、リトリィも首をひねるばかりだったので、マイセルを呼んできてもらった。


 リトリィとともにやってきたマイセルは、しばらく眉根を寄せるようにしていたが、しばらくして意味がわかったのか、あっと声を上げた。そして、みるみるうちに真っ赤になっていった。


「どうかしたのか?」

「あ、あの……ここ、ゴーティアス夫人の寝室、なんですよね?」


 妙なことを確認する。

 リトリィと顔を見合わせ、そうだと頷くと、マイセルはうつむきながら、小さな声で答えた。


「あの……えっと、これ、……艶文つやぶみ、です。その……かなり、あけすけな」

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