第56話:思慕(2/7)
鮮血に染まったベッド。
同じく、真っ赤に染まった俺の夜着。
そして、吸った血で重たげな、リトリィの毛並み。
「……どうして、あんなことを?」
力が入らない。
腕を持ち上げるだけでも、大変に重く感じる。
胸の痛みは相変わらずで、そして、久々に見た感情のこもった――泣き顔。
「……だって、わたし、もう、なにも、分からなくて……」
ぼろぼろと涙をこぼす彼女は、先ほどまで、生気を感じられない笑顔を貼り付けていた少女とは思えない。
「わたし、がんばったんです」
嗚咽交じりに、彼女は、しかし真っ直ぐ俺を見つめながら続けた。
「わたし、
でも、わたしのことを嫌ったりしなくって、それどころか――」
彼女のこぼす涙が、あたたかい。
「わたし、……夢を見たんです。
あなたと、ずっと生きていく夢を。あなたなら、わたしのことを、大切にしてくれるかもしれないって」
……買い被りだ、俺は、自分の保身しか考えていなかった。
俺自身が、本当は、責められるべきだったんだ。
「結局は夢だったんだと、あきらめればよかったはずなんです。
わたしを伴侶にしようと、そう考える人なんて、今までもいなかったって。
それが続くだけなんだって、忘れてしまえばそれでおしまいなんだって」
それは、俺こそ考えていたんだ。彼女をあきらめ、日本に帰るのだと。
「でも、だめだったんです。どんなに、笑顔を絶やすまいってがんばっても。
あなたが、わたしにささやいてくれる、なにげない喜びの言葉が、必要なんです。
もう、耐えられなかったんです。わたし、もう……」
俺の左腕にリトリィがぐるぐると包帯を巻く。泣きながらも、手際はよい。
「だからって、俺にナイフを持たせて飛び込むのか。びっくりしたよ、本当に」
俺のために鍛え、研ぎ、仕上げたナイフを、俺に持たせ、そこに飛び込む。
ピタゴラスな装置も驚きの自害計画。本当にうまくいくと、思っていたのか。
「……ごめん、なさい」
包帯代わりの裂いたシーツを俺の左腕に巻き終え、彼女は、そっと俺のそばに座り直す。血で汚れることを気にする様子はない。
ナイフを俺に握らせたリトリィは、俺が調整不要と言った瞬間、両手を広げ、俺に飛び込んできた。
その飛び込み方であれば、ナイフを持っていた俺の手の位置から、胸から腹にかけてのいずれかに刺さるおそれがあっただろう。もしかしたら致命的な怪我に繋がっていたかもしれない。
「どうせなら、あなたの腕の中で、終わりたかったから……」
すべては、俺がケンカのド素人だったことが幸いした。
俺が右手にナイフを持っていることも忘れ、思わずのけぞり身を守るように腕を体の前に交差させたため、俺は自分で自分の左腕を刺すような形になってしまい、そこにリトリィが飛び込んできたものだから、自分の左の骨を盾代わりにして彼女を守ることになったのである。
いやあ、これぞまさしく文字通りの怪我の功名、リトリィに怪我がなくて本当に良かった。
……血を流し過ぎて、失神しかけたがな。
気が付いたらベッドがぐっしょりと濡れる鮮血の惨状。
だが、リトリィは以前、俺が自分で自分の右腕を削いだ時に教えた止血点のことをしっかり覚えていた。以前は右手だったが今回は左手、止血点に結び目のこぶを作るようにシーツを割いて止血帯を作り、ナイフの柄で締め上げるようにして血を止めてくれたのだ。
むせかえるような血の匂いに今度は気分が悪くなったが、吐きそうになるのを何とかこらえ、彼女に礼を言う。
左腕の、手首から十センチほど上のところの骨が盾になるような形になったおかげで、
俺の腕の治療方法を目にしていたリトリィでなければ、もしかすると失血死していたかもしれない。
とりあえずは生きている。だが、痛みで指が動かせない。もしかしたら神経を傷つけていて、一生、左手が不自由になるかもしれない。まあ、そうなったらそうなったで、彼女の心を傷つけ続けた俺が背負うべき十字架になるだろう。
「なあ……リトリィ」
俺の問いかけに、彼女の肩がびくりと震える。
「リトリィは、どうしてそこまで、俺のそばにいたいと思うんだ?」
ひどく怯えているようだが、違う、俺は彼女を断罪しようだなんて思っていない。
「……俺はさ、二十七年間、付き合った女性がいない。というより、女性との付き合い方ってのが分からないんだ。どう話しかけていいか分からないとか、どんなことを言ったら喜んでくれるのかとか。
だから仕事をしていても、事務的な関係以外は一切なかったし、俺には、女性が魅力的だと思う要素がないんだと思って諦めていた」
「ムラタさんに魅力がないなんて、そんなこと、誰が言ったんですか……?」
「俺」
おずおずと首を向けたリトリィに、即答して笑ってみせる。
だめだ、うまく顔が動かない。多分、笑顔に見えなかっただろう。
「元いた世界ではさ、結構、男と女がくっつくためにあるような行事があったんだよ。春にも、夏にも、秋にも、冬にも。
でもさ、俺、どうしていいか分かんなかったんだ」
――いや、ちがうな。女性を
……俺は、何も、してこなかった。
「……そんな俺だったから、学校でも職場でも、付き合う目的で俺に声をかけてくる女の子なんていなかった。一人も。
――俺に魅力が無いってのは、自覚してるんだ」
「うそです! ムラタさんに魅力がないなんて、そんなこと、あるわけないじゃないですか!」
上半身をこちらに向け、眉根を寄せて俺の言葉を力強く否定する。
俺の二十七年間を知らずに、よくもまあこれだけ力いっぱい言えるものだ。
「自分が認めてるんだから間違いない。生まれてこの方、女性と付き合ったことがあるどころか、好きだって言われたこともないんだからさ」
「縁がなかったのと好かれなかったのでは違います! わたしは……わたしは、あなたが、好きです!」
……なるほど。
好き、ね。
「……俺の、どこが好き? 何が好き? 目的は何? リトリィにとって、俺を好きになる利点は?」
「……え?」
畳みかけるように口を開いた俺に、リトリィが困惑気味に首をかしげる。
だめだ、やめろ。言うな――
「リトリィ、俺は日本に帰りたい。ネットもテレビもマンガもない。車も電車も飛行機もない。それどころか自転車もないんだろう。怪我をしても病気をしても治してくれる高度な医療もない。電気ガス水道、そういったインフラもない。
――俺は、帰りたいんだ。ここじゃない、日本へ」
彼女には全く理解できない言葉ばかりだろう。そりゃそうだ、
「……よく、分からないのですが、私も、お手伝いできることがあれば――」
「ないんだよ」
「……え?」
やめろ、だめだやめろ、彼女を傷つけてどうするんだ俺……!
「リトリィが俺にできることなんて、一つも、欠片も、どこにも、なんにも、ないんだよ!!」
叩きつけるように叫ぶ。
彼女への、完全な八つ当たりだ。
己の醜い心に、行動に、反吐が出そうだ。
「……でも、でもわたしは、あなたの役に立ちたくて――」
「ああ素晴らしいさ、リトリィ。君の高潔な精神には本当に頭が下がるよ。
この、力もないし知恵もない、体力もないし持久力もない、およそ長所というものが見当たらないただの凡人のこの俺に、好きと言ってみせるほどに博愛精神に満ち溢れた、素晴らしい女性だよ!」
だめだ、だめだ、この先を言ってはだめだ――!
「――だけど、それでもお前は、俺の役になんか立たないんだよ!!」
……言った。
また、言ってしまった。
彼女を傷つけても、何の意味もないのに。
――いや、意味はある。
彼女が俺を嫌いになれば。
そうだ、彼女に嫌われればいいのだ!
どうして笑顔のままで別れたいなどと、虫のいいことを考えてしまっていたのだろう。
彼女に嫌われることのほうが、どう考えたって彼女のためになるじゃないか。
そうすれば、後腐れなく俺を忘れることができる。
鍛冶師として――本業に邁進できる!
「……いま、私を傷つけて嫌いにさせれば、私を置いていける――そう、お考えですよね?」
思わず目をめいっぱい見開いてしまう。
狼狽する俺に対して、リトリィはあの、いつもの穏やかな微笑を浮かべる。
「ふた月と十日くらい、ですよね、あなたと出会ってから。それだけあれば、好きになった人のことなんて、すこしばかりは分かるようになりますよ」
――好きになった人。
彼女が好意を寄せていたのは、別に今指摘されなくても、もう、ずっと分かっていたことだ。
「そのふた月のうち、半分からあとはずっと、お前のことを無視してきたんだぞ?」
「でも、嫌ってはいなかった――ですよね?」
「嫌い――に、なんて、なれるわけないだろう……」
そうだ。
彼女を嫌いになんて、なれるものか。
彼女の何を、嫌えというんだ。
彼女を知れば知るほど、嫌いになど、なれるわけがない。
「うれしいです。がんばってきたかいがありました」
そう言って微笑む。
――ああ、一つだけあった。
嫌いになれる可能性のある部分。
――重い女だ。
ほんとうに、重い女だ。
こちらの思惑を縛り、あがけばあがくほど絡みつき、見えない鎖で俺を縛り上げていく、恐るべき情の深さ。
知れば知るほど深く食い込み、俺と日本とを割り裂こうとする、まさに
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