第266話:あなたがくださったんです
「……まずい」
紅茶を一口すすって、彼はカップを戻した。
「あら、ムラタさんは美味しそうですよ?」
「草の汁を飲んでなにがいいんだ」
「草じゃありません。木の葉っぱですよ」
「どっちだっていい、とにかく飲んだぞ。これでオレは弱くないのが分かっただろう」
「ひとくちで逃げだしたかたが、何をおっしゃるんですか」
「……逃げてない」
「じゃあ、飲んでくださいませ」
にこにことすすめるリトリィに、ガルフの顔がどんどんひきつっていく。
リトリィが手ずから給仕してくれるためか、逃げづらいらしい。
「ムラタさん、おかわりはどうですか?」
「あ、ああ……。いただくよ。ありがとう」
「ふふ、どうぞ」
俺はお茶の良し悪しなどさっぱり分からない。けれど、リトリィが淹れてくれる、それだけでもう十分に美味いことは約束されている。いかにも紅茶らしい香りを楽しんでから、カップを傾ける。
そして、そんな俺に、本当に嬉しそうに微笑みかけるリトリィ。
至福。
「……、……、…………、の、飲んだ、ぞ……!」
全身で悶えながら、かろうじて飲み干したガルフに、リトリィが微笑みかける。
「おかわりをおつぎしますね」
「まっ……待て……っ!」
「どうぞ、ごゆるりと」
琥珀色の液体が、ふたたびガルフのカップを満たす。
「お、オレはもう、飲まん……!」
「あら、ムラタさんよりも大きな体をして、ムラタさんより飲まれないんですか?」
「……! ……ッ!!」
眉間にしわを寄せ、何かを訴えるように俺を睨むガルフだが、俺はあえて知らん顔をする。
「ふふ、こちらも召し上がってくださいな」
リトリィが麦焼き――クッキーを差し出す。たっぷりのジャムを練り込んであるそれは、リトリィが山で、俺のために作ってくれたものと同じだ。いや、あのときよりもさらにジャムを練り込んであるのと、街では手に入りやすいバターもたっぷりと使われていて、実に美味い。
ガルフは一枚、恐る恐るといった様子で口に含み、しばらくもそもそとやっていたが、はた目にも分かるほど口角を上げ、すぐに二枚目、三枚目と手を伸ばした。
どうやらいたく気に入ったらしい。
しかし、四枚目を口に放り込んだところで、そのトラップに気づいたようだ。ものすごくイヤそうな目で、紅茶のカップを見つめる。
「水をくれ」
口の中いっぱいにクッキーを詰め込んだものだから、口の中の水分不足に苦しんでいるのだろう。
言葉自体はもふぁもふぁ言っていてよく分からないが、翻訳首輪のおかげで意味はちゃんと通じる。よかったな、俺たち二人とも、翻訳首輪をつけていて。
ところが、リトリィは微笑みながらカップを示した。
「お水だなんて、ごえんりょなさらず。お茶をめしあがれ」
――鬼だ。
ガルフが、何とも言えない情けない表情をして席を立とうとする。
「待ってください。お水ですか?」
ぶんぶんと大きくうなずくガルフに、リトリィは、着席を促す。
「お水を飲んで口を開けて、そしてまた来ていただいても、こたえは変わりませんよ?」
「……なんでだ」
もふぁもふぁと恨めし気に、しかし、脅すような様子を見せず、ガルフはうめいた。
「だって、わたしはもう、ムラタさんのお嫁さんになると決めていますから。わたしはもう、ムラタさんのものなんです。ムラタさんに仕える女なんです」
「……オレは、仔を産んで育てろって言ってるだけだ。それ以外は自由だ、お前を縛ったりしないぞ」
「しばってほしいんですよ。わたしは」
リトリィの言葉に、俺は思わず彼女を見た。
「わたしはずっと、このすがたでしたから。ずっと、わたしはほかのひととちがうんだ、って思って生きてきました」
「……オレだって同じだ」
「そうかもしれませんね」
リトリィは、ティーワゴンからもう一つのポットを手に取った。
新しく用意したカップに、中身を注ぐ。
――水、だった。
ガルフが飛びつくようにカップを手に取り、一気にあおる。
そうか、紅茶が苦手そうに見えたガルフのために、あらかじめ、ちゃんと水を準備しておいたんだな。どこまでも、君は。
リトリィは微笑みながらおかわりを注いでやると、それも一気に飲み干した。
数回繰り返してようやく人心地ついたように、ガルフがため息をもらす。リトリィは微笑んで、もう一度、カップに水を注ぎながら、言った。
「わたしはいつも、
結婚を、子供を、諦めていた?
そんな素振り、あっただろうか。
「そこに来てくださったのが、ムラタさんだったんです。ムラタさんの国は、わたしのような――ううん、耳以外にはけものの血の薄い
「……オレの育てのクソジジイも、そう言っていた」
ガルフのつぶやきに、俺は一瞬驚き、そして、納得した。
ガルフの種族をライカントロプスと呼んだ、研究者。おそらくだが、瀧井さんと同じころに、例の黒い穴に落ちて、この世界にやって来た、地球人なんだろう。
「でも、ムラタさんがわたしを見ておどろいたのは、最初だけでした。あとはずっと、わたしを、ひとりの女の子として、見てくださったんです。同じ机で、お食事をすることも、許してくださいました」
……いや、ちょっと待って。それじゃあの親方や兄弟が極悪人みたいだ。いや、君、あの三人の母親代わりをやっていて、一緒に食べる暇がなかっただけだろ?
思わず突っ込みそうになったが、リトリィがこちらを見て、人差し指を口元に当てる。
「わたしは、それがとってもうれしかったんです。わたしをひとりの女の子として、対等に扱ってくださるムラタさんの、その心が。だからわたしは、ムラタさんの元にお嫁さんに行こうって決めたんです」
「オレだって、お前を違うヤツみたいにしたりしないぞ」
「ムラタさんはですね? わたしのことを、みとめてくださったんです。ケモノの姿のわたしを。鍛冶師を目指すわたしを。ひとりの、女の子として」
「オレだって――」
「ちがうんです」
リトリィは、そっと、俺の側に寄り添ってみせた。
「ムラタさんは、わたしを自由に――ほうっておくのではなくて、わたしをそばに置いて、わたしを必要としてくれて、ほめてくださって……。
そのうえで、わたしの好きにさせてくれるんです」
「それくらい、オレだって……!」
ガルフが立ち上がって声を荒げる。だがリトリィは、静かに答えた。
「ムラタさんは、最初からそうでしたよ? 最初から、わたしを、わたしのすべてを認めて、受け入れてくださっていたんです」
まっすぐに、揺るぎない自信を瞳に宿し、ガルフを見つめて。
「ムラタさんは、強いかたです。従えるとか、言うことを聞かせるとか、そんなことを考えもしないで。
わたしをまるごと受け入れて、愛してくださった、そういう、心の強さをもっているかたなんです」
俺は、目尻が熱くなってくるのを自覚して、でも、止められないこともまた、感じていた。
俺は、いったいどんな奇跡で、こんなにも俺を信じ、慕ってくれる女性と出会う機会を得ることができたのだろう。
でも、俺の心は強くなんかない。自分の弱さも醜さも、俺が一番知っているんだ。
それに、俺は彼女を本当に愛していたかと問われたら、それも違うとしか言えないのだ。
俺は彼女を、幾度となく泣かせてきた。
俺の勝手な、そして見当違いな思い込みで。
俺は、なにも、彼女に与えることなんてできていないのだ。
それも、俺が一番よくわかってるんだ。
こんなにも慕ってくれている彼女に、俺は、何も……。
すると、リトリィは、俺が何も言っていないのに、ふわりと微笑んだ。
「違いますよ? あなたがくださったんです、わたしの知らなかった愛を。ずっとわたしがあこがれて、そしてあきらめていたものを」
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