第231話:生まれ
一通り作業を終えて汗をぬぐう。
寒い夜だが、仕掛けを作るのはなかなかの労働だった。仕掛けといっても、ノコギリ引きをしただけだが。
腰の革袋から、水を一口。
ステンレスの水筒ならともかく、この革の水筒は水に渋みが付いてしまうため、はっきり言って中の水は、不味い。
だが、贅沢は言えない。水を持ち歩ける、それだけで満足すべき世界なのだから。
そのときだった。
なにか、叫び声が聞こえたような気がして、慌てて手を止めて耳を澄ます。隠れようもないこの部屋だ、せめて先手を取れるように。
――また聞こえた。今度は女のような甲高い声。さっきの女がやって来た通路のほうからだ。
まさか、さっきの連中が言っていた、ボスの『味見』とやらが始まったのだろうか。
それとも、別ルートから侵入したアムティとヴェフタール、あの二人に何かあったとか……!?
通路の方に向かうと、何かが倒れるような音がかすかに聞こえ、また、女の悲鳴のようなものが聞こえた。
アムティとは声が違う気がする。だが、正直、よく分からない。
なんだろう。
しばらく通路で耳を澄ませていると、何か会話をしているような感じの言葉が聞こえてくるようになった。冷静に、何かを、言い合っている、そんな感じだ。
俺は、そっと、そちらに向かってみた。さっきの女が入ってきた出入り口から、通路に出る。
薄暗い通路を、聞こえてくる声を頼りに、足音を立てないように、少しずつ、ゆっくり、歩いていく。
道はすぐ丁字路に突き当り、右の方は階段に、左のほうは通路として続いているようだった。
声が聞こえてくるのは左側だった。
言い争うとまではいかないが、何かを言い合っているらしい。
その声――男の声の方はともかく、女の声がどうにも聞き覚えがあるような気がして、俺は、慎重に歩き続けた。
そっと角の向こうに顔を出すと、通路の奥のドアが開いていて、そこから月の光が伸びてきているような感じだった。その部屋からは、丸太のようなものが床に落ち、部屋から飛び出している。
声も、急にクリアになってきた。もう少し近づけば、翻訳首輪の有効範囲に入れそうだ。等間隔に並ぶ壁際の柱に身を潜めながら、ゆっくり、ゆっくりと近づく。
そして、気づいた。
……むしろ、なぜ、もっと早く気づかなかった。
「……わたしは、あなたのお話をききいれることはできません」
ああ……!
この声を、
耳あたりの良い、柔らかなこの声を、
どんな時でも穏やかなこの言葉遣いを、
誰が、聞き間違えるものか!
「だってわたしはもう、お仕えする人を、自分で決めていますから」
――リトリィ!!
部屋の戸口に立つ男は、月明かりの中で色はよくわからないが、黒っぽいぼさぼさの長い髪をした男だった。話に夢中になっているのだろうか、幸い、こちらに気づく素振りもない。
リトリィのほうは見えないが、部屋の奥にでも囚われているのだろう。
「なるほど? 以前、男のもとを飛び出して道端で泣いていた女が、よく言う」
オレが声をかけなければ、川に身を投げそうな勢いだったくせに、と、あざ笑う男に、リトリィは静かに答える。
「ムラタさんとはけんかもしますけれど、それは、あのかたがちゃんと、わたしの思いを受け止めようとしてくださるからです」
「裏切られたくせにか?」
「ちがいます。あのかたは、優しすぎるだけです」
せせら笑うような、からうような口調の男に、しかしリトリィの声は動じる様子もない。
男は、一瞬息をのんだ様子を見せたあと、ややいらだった様子で続けた。
「……あの男もしょせん
「そんなこと、ありません。あのかたは、ちゃんとわたしも、あの子も、愛してくださろうとしています」
「だが、いずれ人間のメスのほうが子供を産むだろう。そうなったらお前はどんな扱いになるか、想像はついているんだろう?」
男の言葉に、リトリィは、答えなかった。
答える必要がないという様子なのか、それとも答えに詰まっているのか。顔が見られないのがもどかしい。
「ふん。よくて子守り女扱い、悪ければ
「そんなこと……!」
「口だけは威勢がいいな。だが目が白状しているぞ、オレの言った末路を、お前自身が考えているということを」
自信たっぷりの男に対して、リトリィの返事が聞こえてこない。
「首を振っても無駄だ。いい加減に理解しろ。お前は
「あなただって……人間じゃないですか!」
リトリィの叫びに、男は目を丸くしたようだった。
額に指を当てると、肩を震わせ、小さく笑い始める。
「人間……人間か。──
ついにこらえきれなくなったか、男は額を押さえるようにして、背を反らして高らかな笑い声をあげた。まるで、誰かに聞かせようとでもしているかのように。
「ハハハ、これは傑作だ! 面白い、面白いぞお前! だが惜しいな、それを口にするのがお前だということが。お前は、自分が何者か、本当に分かっていないのか?」
「わたしは、
男に対して、リトリィが凛と答える。
揺るぎない、力強い言葉で。
――言った、彼女はたしかに。
『ムラタが妻』と。
不意に、どうしようもなく、涙があふれ、こぼれ落ちてくる。
ああ……
あれほど強く言い切ってくれる彼女を、
俺はあのとき、
どうして、
信じきってやれなかったのだろう。
舌打ちの音が響いた。笑いを引っ込めた男は、相当にいらだっているらしい。
「その前提がすでに間違っているんだ。お前は本当に、産みの親を知らないんだな?」
「産みの親が誰であれ、わたしの親はジルンディールです!」
「お前の親が誰かはオレも知らん。だが、ただ一つ言えることを教えてやる」
男は、やや落ち着きを取り戻した様子だった。リトリィ自身が知らない彼女のことを、奴は握っている――そんな、優越を感じさせるような。
そして奴は、ゆっくりと口を開いた。
「お前は、
一瞬、何を言っているのかが理解できなかった。リトリィも同じだったようで、しばし、言葉が続かないようだった。
「そんなわけ──」
「本当だ。同族のオレが言うんだから間違いない」
「……同族?」
「ああ、見てすぐに分かった。お前は、犬なんかじゃない。そうだな、強いて言うなら狼──
……リトリィが、狼?
そういえば、以前、どこかで、誰かに、そんなようなことを言われたことが、あったような……?
「驚いたか。まあ、すでに血が絶えて久しいとされる
だが、驚くのはそこじゃない。
お前は――いや、
自信たっぷりに言い放つ。
何を言っている?
奴は、どう見ても人間だ。
そしてリトリィは、どこからどう見ても
それを一緒くたにして、しかも獣人族とも違うという、言葉の意味が分からない。
第一、彼女ほど「獣人らしさ」にあふれるひとを、俺は知らないぞ?
「じゃ、……じゃあ、わたしは、なんだっていうんですか」
「知りたいか?」
しばしの沈黙のあと、男は大きくうなずき、そしてふたたび高らかな笑い声をあげた。
「そうか。お前は後戻りのできない道を選ぶわけだな」
満足そうに男はうなずくと、組んでいた腕を解き、真っ直ぐ腕を突き出す。
ここからは見えないが、おそらくその先に、リトリィがいるのだろう。
そして続けた男の言葉に、俺は、たとえようもない衝撃を受けた。
「お前はな、獣人族でも、もちろん人間でもない。オレと同じだ、お前は。
――俺を調べた学者曰くの、選ばれた種――『ライカントロプス』だ」
ライカントロプス──ライカンスロープか!?
あの男、確かにそう言った!
ライカントロプスと、確かに!
翻訳を通さずに聞こえた!
ま、間違いなく、地球の言葉だったぞ!?
「らい……かん?」
「その学者によれば、この世界の言葉ではないらしいが『狼人間』とかいう意味らしい。かつてこの地上の主だった、
ゾオントロプス――?
また翻訳されない言葉が出た。
それも地球の言葉なのか?
奴はいったい何者なんだ? それに、奴を研究していたという『学者』こそ、何者なんだ?
――まさか、地球人!?
「まあ、ヤツもオレが殺してしまったからよくは分からん。ぐだぐだ理屈っぽいのは嫌いだからな」
「ひ、ひどいことを……!」
「酷い? オレをとっ捕まえて檻に閉じ込め、愚にもつかない実験をくりかえしていたヤツのほうが、ずっと酷いと思うがな」
絶句するリトリィに、男はこともなげに言う。愚にもつかない実験の中身は何だろうか。いわゆる人体実験みたいなものだったのだとしたら、その学者の自業自得なのかもしれないが。
「……その、あなたが、わたしたちと違うのは分かりました。でもそれが、なんだっていうんですか」
「おいおい、言ったろう? 違うんじゃない、オレとお前は同じだと」
「あなたは、人間じゃないですか!」
「人間……そうだな、今はな」
「……『今は』……?」
「見せてやるよ、オレの本当の姿を、な」
男は上着を脱ぐと床に捨て、右手を額に当てる。
「ゾオントロプス――獣と、人とを行き来できた種族、その末裔たるライカントロプスのありのままを――お前自身の正体を、とくと目に焼き付けるといい」
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