第486話:愛486

「だんなさま! だんなさま!」


 リノが、水に濡れた白いお腹をぽんぽん叩いてみせながら、とんでもないことを言った。


「マイセル姉ちゃんみたいにリノのお腹がおっきくなるのは、いつ?」

「……当分ないよ」

「ええー? お姉ちゃんはもうすぐって言ってたよ? 当分って、いつ?」


 ――あいつめ。

 まだようやく産毛が生えてきたばかり、というリノ相手に、そんなことできるか!


「……当分は当分だ。それよりリノ、体を拭くからこっちにおいで?」

「はあい!」


 嬉しそうに身を寄せてくるリノの体を、手ぬぐいで丁寧に拭いてやる。栄養状態が改善された今、リノは同じ背丈のニューよりも明らかに体がふっくらしてきた。太ってきたという意味ではなく、女の子らしいを帯びた体つきになってきているということだ。


 にも関わらず、相変わらず元気で活動的で、そして肌を見られても全く気にするそぶりを見せない。冬でさえワンピース一枚で過ごしてしまったこいつだ、夏の暑い盛りになったらと思うと、今から心配になってくる。

 いつも思うんだが、こいつに恥じらいという言葉と意味を覚えさせるには、どうしたらいいんだろう。




 現場の楽しみの一つは、昼食だ。

 リトリィが雇い主に直接交渉してきて、そして実現した、リトリィたちによる温かい給食。


 パンにチーズ、ベーコンの欠片、そして麦酒がコップ一杯。もともとはそれが、現場で働く俺達に支給されていた昼食だった。

 それでも現場労働者たちは「肉があるなんてさすがお貴族さまの現場!」などと喜んでいたのだ。


 だが、俺が家でリトリィにそれを話すと、「寒空で働くだんなさまに、温まってもらいたいですから」と、彼女は雇い主を直撃。なんと、「給食のおばちゃん」として、巨大な鍋でスープを作るようになったのである。


 最初こそ、「犬女ドーギィが作る飯なんて」などと、差別感情をむき出しにする奴もいた。「どうせ犬の毛が入ってるんだろう?」と、あからさまに馬鹿にする奴もいた。


 だが、以前に他の現場で俺と働いていた大工たちは、現場の人間に対するリトリィの献身ぶりを知っていた。だから大喜びで鍋の前に並び、実に美味そうに平らげてみせたのだ。


 その結果、今では現場のほとんどの奴らが、リトリィメシのファンだ。素朴な家庭料理の域を抜けないリトリィのスープだが、だからこそいいらしい。


 以前、リトリィが生理で体調を崩して顔を出さなかったときの、現場労働者たちの絶望じみた顔つき――「え、あねさん今日、休みなんスか⁉」は、見て吹き出してしまうくらいだった。その、あまりにも完璧過ぎる餌付けを見た思いがして。


 ただ、彼女が働く理由の第一は俺にあっても、その俺と一緒に働くみんなも、元気で働ける場であってほしいようだ。彼女の愛と度量の深さには、感服するしかない。




「監督!」


 昼飯を食い終わって休憩していると、思春期真っ盛りといった様子の大工の少年が、ニヤニヤする同年代の奴らに背中を押されながらやってきた。


 や、やめろ押すなって――そんなことを言いながら、赤く染めた顔で一歩、前に出る。なんだろう、休暇が欲しいとでも言いに来たのだろうか。


「何か用か?」


 聞いてみると、ますます顔を赤くする。

 あー……。

 なんかこんなシチュエーション、知ってるぞ? 中学生の頃、昼休みの教室で、女子が群れてやってきて、当時、クラスいちモテていた奴に告白していた、アレだ。


 違うのは、相手が俺――アラサーのおっさんであるということ。

 ということは、コイツは俺に恋愛指南でも受けに来たんだろうか。


 そうか、そうか、つまりお前もそんな奴なんだな。


 あの頃の俺ときたら、あのモテ野郎にハゲる呪いをかけることくらいしかできなかった。

 だが、今の俺は妻ふたりに愛人ひとりに未来の妻候補ひとり、さらには子供まで生まれる身だ。もはや他人の恋愛事情など、生温かく見守る程度の感慨しか湧かない。


 ――うむ、俺も大人になったものだ。コイツの想い人はどこの誰なんだろう。気になるじゃないか、ニヤニヤが止まらない。


「か……監督!」

「なんだ? 聞いてやるから早く言うといい」


 鷹揚にうなずいてみせた俺に、そいつは小さく、だが叫ぶように言った。


「好きです!」

「……は?」


 一瞬でニヤニヤが吹き飛んだ。

 言われた言葉に理解が追い付かず、目が点になる。


「監督! おれ、好きなんです! 付き合ってる人っているんですか!」


 は? なに? 誰が誰を好き? どういうことだ?

 だが、あまりの衝撃に頭の中でそれらの言葉がぐるぐる巡るばかりで、二の句が継げない。


 後ろの連中が必死に笑いをこらえる様子で耳打ちをすると、少年はひどく慌てて続けた。


「ち、違うんです、リノさんです! 彼女、付き合ってる人、誰かいるんですか!」

「……リノ? リノが誰と付き合っているかだって?」

「は、はい! そうです! リノさんって、誰か付き合っている人は――監督が決めた結婚相手とか、いるんですか⁉」


 ……ようやく飲み込めた。

 こいつ、リノのことが好きなのか。で、リノとお付き合いするために、俺に許可を願い出に来た――そういうことか。


 惚れた娘が自分の職場の上司の管理下にある――なるほど、これは確かにやりにくいだろうな。だからこそ、事前に許可をもらった方が良いと判断したに違いない。


 ……だが、どうしてリノなんだ?

 首が直角に曲がる勢いで傾ける。


 世話をしている俺が言うのもなんだが、あの背格好にして恥じらいもなく飛び回り、いつも笑顔を絶やさないあいつは、見方によっては確かに可愛らしく思えることもあるだろう。

 だが、彼女にしたいと思えるような女の子なんだろうか?


 するとそいつは拳を握りしめ、リノの魅力を力説し始めた。


「だからその……あの子の笑顔を見ていると、とっても気が休まるんです! 確かに言葉は男の子っぽいし、女の子らしくないところもあるかもしれませんけど、でも明るくて、裏表がなくて、さっぱりしていて!」


 ……分かった分かった、分かったから、顔が近い!


「今だって、あねさんのところで片づけを手伝ってるじゃないですか! ああやってよく気が付いて、ひとのために頑張れる彼女が素敵だなって……! だからおれ、彼女と一緒になりたいんです! お付き合いすることを許してください!」


 ……今の今まで生温かく見守っているはずだったのに。

 それなのに、今は心の余裕が一気に吹き飛んで、妙にムカついてくる。


 いや、たしかに俺は、ことあるごとにリノに対して『将来リノに好きな人ができなければ、俺が嫁に貰い受ける』と言ってきたよ?

 いくらリノが将来、俺に嫁ぐ気満々でいるとはいえ、まだ彼女は幼い。

 獣人族ベスティリングは、一度つがいの相手を決めたらそうそう変えたりしないらしいんだが、彼女の未来への選択肢を残すつもりで、そう言ってきた。


 だからこういう奴が現れることを、本来なら俺は歓迎すべきなのだ。

 ああ、歓迎すべきなのだ


 ……だが!

 むしろ可及的速やかに、目を開けたまま寝言を垂れ流す目の前の身の程知らずのクソ坊主に正拳突きを叩き込んでやりたいとすら思うのだ!


 ――娘を男に取られる親父の気持ちって、こういうものなんだろうか?

 で、正気に返る。

 違うって。娘をとられる親父の気持ちじゃない。

 俺は今、婚約者に横から手を出されそうになっているんであって、父親どころの話じゃないのだ。


 うむ、ここは一発「あいつは俺の愛する女だ」とガツンと言って、婚約者に横恋慕する不貞な輩を追い払うべきだろう。ああ、そうすべきだ。

 俺は大きく深呼吸をして、そして――


「……本人に聞けばいいんじゃないかな?」


 あああっ!

 言えなかったよ俺!

 親子って思われてるほどの年齢差があるのに、「俺の嫁」宣言なんてできないよ!

 こういうところがヘタレって言われるんだよなきっと!


 果たして、思いっきり大きく頭を下げて礼を言ったその少年は、そのままリノのところへすっ飛んでいって――


 あーあ、地面にへたり込んじゃったよ。いったいなにを言われたんだ?

 取り巻き連中など、なぜか一斉に俺の方を見て驚愕とも歓声ともとれる大声を上げてるし。




「今日も一日、お疲れ様っした。なにか、現場で変わったことはあったっスか?」

「変わったこと――いや、特には無かった、かな?」


 フェルミの軽薄な口調に、リノの一件がふっと頭をよぎった。が、口には出さないでおく。彼女は俺のコートを脱がせながら、そっと首元に唇を寄せた。


「……ふふ、今日は早いんですね。今日は、できますか?」

「少しだけ、な?」

「……そう、ですか」


 少しだけ――俺の返事に、少々残念そうな表情を見せたフェルミだが、気を取り直したように暖炉の簡易コンロに向かった。


「今日、ご近所さんから、ちょっといいお茶がもらえたんですよ。飲んで行ってくださいな」

 

 先日、彼女を抱いてみて、改めてそのお腹のふくらみを実感した俺は、それまで以上に顔を出すように心がけていた。

 フェルミ――俺の二人目の子を身ごもってくれた女。だが、彼女は自身を「外の女」とわきまえ、「奥様に悪いですから」と言って、俺の家には近づこうとしない。


 俺とフェルミは以前の現場からの知り合いだが、そのころからリトリィとも親しく接してきた。だからまあ、気まずいっていう気持ちは分かる。


 だが、リトリィ自身はそのあたりをすでに割り切っているようだ。実に寛大な気がするのだが、リトリィに言わせれば「だれが産んだって、あなたの子にかわりはありませんから」ということらしい。


「……ムラタさん、お元気ですね? お疲れじゃなかったんですか?」

「……君が、スカートのすそをたくし上げてみせるからだろ? そうやって、すそを口でくわえて……」

「今夜、こちらにいらっしゃるのは、少しだけではなかったんですか? 奥様に、においで気づかれますよ?」

「リトリィにだって奉仕するさ」

「……奉仕させる、の間違いでなくて? だって私には、いつもあんな乱暴に――」


 その口を唇でふさぐ。

 フェルミ、君が望んでいるんだろう? その扱いを――




に種を蒔いてくるその余裕、どこから湧いてくるんです?」


 マイセルが冷たい視線を投げかけながら、上下に動かしている手に力をこめる。

 彼女に翻弄されるようにして、もうすっかり準備ができているのが情けない。

 対してリトリィは困ったような微笑みを浮かべているが、それだけだ。


「……ムラタさん、覚悟はできてます?」

「はい! 全身全霊を込めて奉仕することを誓います!」

「お姉さま、いらしてください。ムラタさんは今夜、お姉さまのこと、寝かさないつもりだそうですよ?」


 ちょっと! 異次元翻訳しないでくださいませんかマイセルちゃん!

 嬉しそうにまたがってくるリトリィさん、勢いに容赦がないですよ!




 部屋に月明かりがだいぶ差し込んできている。月の傾きが、夜明けの近さを告げているようだ。


「ふふ、今夜もいっぱい、おなさけをいただいてしまいました」


 リトリィが荒い息のまま、満足げに腹をなでる。フェルミさんのおかげですね、と笑いながら。


「……なんで、フェルミのおかげなんだ?」

「だってあなたったら、フェルミさんのところに寄った夜は、いつも以上にがんばってくださるから」


 ああ、よく分かってらっしゃるよ俺の奥様は。

 フェルミを抱いた夜は、やはりどうしてもリトリィもマイセルも可愛がってやらないと、という、罪悪感じみた義務感が発生してしまうからだ。


「ふふ、ご無理なさらなくたって、あなたがわたしを愛してくださっているのは、十分にわかっていますから――」


 微笑むリトリィの口を、唇でふさぐ。

 なんの、俺は無理なんてしていない。


 リトリィが俺の手によって体をくねらせる、その姿が、声が、どれほど自分を奮い立たせ、男としての自信をつけさせることになるか。

 以前は早々に体力が尽きて、あとはリトリィにされるがまま搾り取られていた俺だが、最近は以前よりずっと踏ん張りがきくようになった。今夜だって、リトリィが満足する程度には愛してやることができた。


 精力自体は超精力野菜クノーブで賄えるが、筋力や持久力は鍛えなきゃ向上しないからな。やはり愛の基本は筋肉だ。筋肉は愛の夜の全てを解決する。

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