第358話:尊厳を取り戻せ!(2/3)

 爺さんのアパートの監督を解雇になってから最初の一カ月は、本当にきつかった。

 俺もまだまだ甘かった、それを痛感させられた一カ月だった。

 なにせ、ぱったりと仕事の話が来なくなったからである。


 仕事が来ない、というだけならただの不況で済むのだが、そうではなかった。

 俺が関わると決まったと同時に、雇い主からストップがかかるのだ。


 これが干されるという感覚か。

 さすがにこれには俺も参った。働く気があっても働かせてもらえないのだ。やる気がある時にやらせてもらえない、これは地味にきつかった。実績を積もうにも、実績となる仕事に逃げられるのだ。


 日本にいた頃の俺がこんなありさまだったら、耐えられなかったかもしれない。事実、とある現場を見たとき、それは俺の仕事のはずだったと、あんまりにも悔しくて絶望感に襲われて、妻二人に逃げて退廃的な三日間を過ごしたことすらある。

 けれど二人は俺の暴風を、時には娼婦のように、時には慈母のように俺を受け入れてくれた。リトリィは慣れたものだったが、マイセルすらも。


「――お姉さま、私、ムラタさんを見ているのが辛いです……。どうして、どうしてこんな、こんなことに――」


 あのとき――たまたま夕方、寝ていたソファの上で目を覚まし、水を飲もうと体を起こしたときだった。

 キッチンのほうで、静かに、リトリィの肩にすがるように嗚咽を漏らしながら訴えるマイセルを見たとき、俺は棍棒で頭をぶん殴られたような衝撃を受けた。


「……ムラタさんが体を求めてくれるのは嬉しいんです。少しでも支えになりたいって思うんです。でも、ムラタさん、とっても辛そうで……私を抱いてくれてるときも、けだものみたいに見せてるだけで、とっても辛そうで……。

 私、それを見てられない……お姉さま、どうしたら……!」


 リトリィは、そんなマイセルの頭を撫でながら、ささやくように言ったのだ。


「あのひとは、だいじょうぶですよ。あのひとはいま、ほんの少し、こころがおつかれなだけなんです。少しだけ、わたしたちに甘えてくださってるんです。またすぐにわたしたちを置いてお仕事にとびだしちゃいますから、甘えていただけているいまを、わたしたちも楽しみましょう?」

「でも……でも、そのお仕事が……!」

「だいじょうぶですよ。ほら、前のお仕事。ムラタさん、毎日楽しそうにお仕事ばっかりで、わたしたちにあまりかまってくださらなかったでしょう? 神様がすこしだけ、あのひとをわたしたちに返してくださってるんですよ」


 そう言ってリトリィは、マイセルと唇を重ねる。


「……この三日間、あのかたはわたしたちをいっぱい愛してくださいました。あなたも、いっぱいお情けをいただけたでしょう? きっとお気が済んだでしょうから、またあしたから、あのかたはわたしたちを置いて行ってしまわれます。今夜はその最後のご奉仕と思って、いっぱい、いっぱい尽くしましょうね?」


 ――ああ! どうして俺は、こんなにも信じてくれている女性の信頼を試すような真似を――受け入れてくれることを試すかのように、ひどいことをしてしまったんだろう! それも、何度も……!


 俺は見なかった振りをした。

 そのかわり、信じてくれている二人に応えるために、次の日から日雇いの仕事を探しては、それに打ち込んだ。


 建築と関係なければ、仕事はいくらでもあった。

 毎日変わる慣れない仕事でへとへとになって、その日の稼ぎで少しばかりの食材を買って帰ると、そんな俺をリトリィもマイセルも笑顔で迎えてくれた。


 家族三人が食べていくだけなら、ナリクァンさんからいただいた莫大な報酬を切り崩す必要もなかった。

 日雇いの仕事で疲れた体を、二人の妻たちに包み込んでもらいながら眠る――そんな暮らしも、それで維持していけるならそれでもいいか――そんなことを考え始めていた、解雇から二カ月目の半ばのころだった。


「……ムラタさんよ。元気か?」


 仕事を終えて家に帰ると、珍しく、マレットさんが我が家にいた。




「悪いな、俺も今、あんたに回せる仕事がなくてな……」


 マレットさんは、頭をばりばりかきながら頭を下げた。


「い、いや、そちらのせいでもなんでもないのに――頭を上げてください」

「そうでもない。あのクソギルド長をもう少し締め上げとけばよかったと、腹が立って腹が立って夜しか眠れんくらいだ」

「いや落ち着いてください、それ普通ですから」


 ひとしきり笑い合ったあと、リトリィが淹れてマイセルが運んでくれた茶をすすりながら、マレットさんは真面目な顔になった。


「……あんた、あの塔のことは覚えているか?」

「あの塔――ですか?」

「ああ。あの城内街の、あの鐘塔しょうとうだ」


 ――忘れるものか。

 たちまち、あのときのことを思い出す。


 俺が怒りと悔しさと絶望を噛み締めて帰ったあの夜――妻二人を辱めるようなことをしでかした、あの三日間のはじまりをつくったのが、あの塔の工事――その完成予想図だったのだから。


 どうしてそれを、今まで忘れていたのか。

 それはいっそ清々しいまでに、俺の作品そのものだった。


 細部は荒く、線は下手くそで、リスペクトの欠片もない模写だった。

 そう、模写だったのだ。

 俺が、あの日――リファルともみ合い、紛失した図面の一枚の。

 よりにもよって、俺の目玉の企画――補強と修繕によるリニューアル案。



 あの時、俺はすぐさま例の貴族の家に乗り込んだ――いや、乗り込もうとした。

 しかし、全く相手にされなかった。番兵のヤツなど、取り次ぐそぶりすら見せなかった。


 ギルドの方にも掛け合ってみたが、証拠がないと嘲笑われただけだった。仮にほどとしても、結局は出遅れたお前が悪い――そう言われた。


 こうなったら、あの時に接触したリファルに聞くしかない、奴なら何か知っているかもしれない――そう考えてリファルの姿を探したが、その日、彼を捕まえることはできなかった。


 どうしようもない怒りと絶望に打ちのめされ、自暴自棄になり、そしてリトリィとマイセルの献身に気づいてからは、とにかく食うための日銭を稼ぐことに精一杯になり――


 鐘塔しょうとうのことなど、すっかり頭から抜けていた。


「あの塔のことだがな」


 マレットさんが、皮肉げに口の端を歪めた。


「補修のためだろうが、てっぺんの鐘を下ろそうとして、なかなかとんでもないことになっているらしいぞ」

「とんでもないこと、ですか?」

「おうともよ」


 マレットさんはくっくっと漏れる笑いをこらえるようにしながら続けた。


「何でも、あの塔の鐘を下ろそうとして塔のてっぺんに起重機を作ったらしいんだが、その起重機がうまいこと動かなくてな。しまいには鐘が宙吊りになったまま、揚げることも下げることもできなくなって困っているそうだ」


 起重機――クレーンか。

 石造りの家をつくる技術があれば、当然クレーンの技術もあるだろう。これまでだって、当然その技術を使って家や塔はもちろん、城壁だって作ってきたはずだ。

 だが途中で止まっているというのは一体どういう状況なんだろう?


「ほら、あんたが以前ゴーティアス婦人の家で作った滑車があっただろ? どうもあれを見よう見まねで作ろうとしたらしいんだ」


 ……ああ、あの動滑車と定滑車を組み合わせたあれか。あの程度のものは中学生の知識があれば作れるから、まあ真似をする必要もなくこの世界でも当然作れるだろう。


 事実、あのとき俺が褒められたのも「いくつもの動滑車を小型にまとめたこと」であって、動滑車の原理の発見そのものではなかったしな。


「で、面白いのはここからだ。ムラタさんよ、あの昇降機を作ったあんたにギルドから召集命令が出る。明日にでも使者が来るはずだ」

「俺に、ですか?」

「ああそうだ」


 痛快だ、といった様子で、とうとうマレットさんが大口を開けて笑い始めた。マイセルが驚いて振り返るが、マレットさんは気にする様子もない。


 リトリィが笑い続けるマレットさんに、そっと茶を差し出す。

 しばらくひざを叩きながら笑っていたマレットさんは、それを受け取り一息で飲み干すと、改めて俺に向き直った。


「……ああ笑った笑った。いやすまねえ。あのクソギルド長、あんなざまになっちまった鐘を何とかするために、あんたの力が借りたいみたいだぜ」」


 俺の力を借りる?

 危険な状態としてぶら下がったままの鐘をなんとかしろ、と突然言われても。


「まあ、そういうことだ。突然降ってわいた難しい案件だ。どうする?」


 マレットさんはため息をついたが、しかしニヤリと笑ってみせた。


「――実績を作る、またとない機会だぞ?」


 リトリィが目を輝かせて俺を見る。俺が認められたことが、自分のことのように嬉しいらしい。マイセルなど、もう明日のごちそうは何にしようかと、リトリィに相談しているありさまだ。


「……たしかに、そうなのでしょうね」


 ――実績。

 この二カ月半、喉から手が出るほど欲しかったもの。

 それを得る、またとない機会。

 それがついに、巡ってきた――!

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